①
楓くんの自転車の後ろに乗って、石畳の通りを抜け、港へ向かう。はじめて通る道だ。
黄昏のむらさきいろの空の下、風を切る自転車。楓くんのシャツをぎゅっとつかんだ。ごめんね。ブレスレット、ぜったいに元通りに直すから。
港近くの、駅の駐輪場に着いて、自転車を降りる。楓くんは自転車をとめて額の汗をぬぐった。空のいろは藍に変わり、どんどん濃くなっていく。
ぬるい、潮のかおりがまとわりつく。歩行者天国になった海べりの国道には、たくさんの出店や屋台が並んでいて、浴衣姿のひとたちがたくさん歩いている。その中を、たこ焼きやジュースを買いながら、進んでいく。
フェリーのターミナルビル近くの海浜公園に着いて、あたしたちは空を見上げた。
「もうそろそろ、あがるな」
楓くんが自分の携帯で時間を確認した。花火は八時から九時までの間あがり続けるらしいけど、凪子さんが九時までにあたしを帰すように言ったみたいだから、途中で抜けなくちゃいけない。
それにしてもひとが多い。楓くんとはぐれないようにしなくちゃ。
そんなふうに思っていると、いきなり、ぽん、と大きな花が夜空に咲いた。なんの前触れもなかった。それを皮切りに、つぎつぎに花火はあがる。となりで空を見上げる楓くんの横顔が、光に照らされている。
楓くんが好き。きゅっと、胸が痛んだ。
ひかりが弾ける。花が咲く。見上げるひとたちが、めいめいに感嘆のため息をもらすのが、聞こえる。
「清良」
「うん」
「来年も」
「……うん」
ふいに、楓くんがあたしの手をとった。ぎゅっと握り返す。ずっとずっと、離したくない。夕菜ちゃんにも、誰にも、渡したくない。
更紗も、こんな気持ちだったのかな。
なのに、あたしは。あんなふうに、更紗に怒鳴ってしまうなんて。家に帰ったらあやまらなくちゃ。だって更紗は、まだ小さな子ども。永遠の、子ども。
ムキになってしまった自分のことが、情けない。
「清良、なんかあった? ……元気ない」
わかってしまうんだ、楓くんには。
あたしは、ゆっくりと首を横に振った。
見上げれば、夜空にひらく大輪の花。咲いてはすぐに夜の闇に溶けてしまう花火たちを。一瞬の、光を。きれいだけど、悲しいと思う。
夏が、終わる。
ぽんぽんと、花火は打ちあがりつづける。魅入っている人たちの波をかきわけて、楓くんとあたしは歩いた。まだまだ花火は続くけど、帰らなくちゃいけない。立ち並ぶ出店の前をすり抜けていく。
「……あ」
思わず、立ち止まった。金魚すくい。裸電球に照らされたみずいろの大きな桶に、たくさんの金魚が泳いでいる。
ふいに、鼻の奥がつんとした。小さい頃、だだをこねてすくった金魚。すぐに死んでしまった金魚たち。一匹死んで、二匹死んで。さいごの一匹も、ひとりぼっちでがんばっていたけど、やがてひっくり返って浮いてしまった。
ひとりぼっちの金魚は、更紗?
……ううん、あたし。
「清良? どうした?」
「ううん。なんでもない」
つないだ手に力を込めて、歩き出す。
ふわり、と。朱い兵児帯があたしのとなりをかすめていった。
「更紗……?」
白地に朱い花の散った、あの浴衣。ひらひらの、蝶々結びの帯が金魚の尾びれのようにゆらめく。だけどその少女は、五歳の、ちいさな更紗じゃない。あたしよりわずかに背が高い。艶めくおかっぱの黒髪と、夜に映える、真っ白いうなじ。
女の子は、ゆっくりと振り返った。
美しい、大きな目があたしを一瞬だけとらえて、そしてすぐに前に向きなおり、歩きはじめる。
「更紗。待って更紗……っ」
「清良? おい、どうした?」
楓くんの手をひいて、あたしは走り出していた。十四歳の更紗の姿を、追いかける。だけどその後ろ姿は、すぐに人ごみにまぎれて消えてしまった。
人違いだったの……?
ううん。あれはたしかに、更紗だった。
ある予感が胸のなかをよぎって、あたしは首を横に振った。そんなわけない。きっとまた、更紗はあたしのもとへ。
その夜は眠れなかった。部屋の窓から星を眺めて、更紗があらわれるのを待ったけど、待てども待てども現れない。柱時計がなんども鐘を鳴らして。空が白みはじめるころ、あたしはようやく眠りについた。
九月になった。
午後から、らむね屋に出向いて、翠さんに教えてもらいながら、ブレスレットの修理をした。とんぼ玉はぜんぶそろっていたし、留め具やテグスは翠さんが新しいものを用意してくれたから、簡単に元通りになった。
あんなにムキになって、怒鳴るんじゃなかった。
今さらのように悔やんでも、もう、時は巻き戻せない。更紗は消えてしまった。
つぎの日も、更紗はあらわれない。いないの?
それとも、あたしには見えなくなってしまったの?
花火大会の夜、すれちがった十四歳の更紗の、瞳に浮かんでいたのは。さよならの、色。
そして。いよいよ今日が夏休み最後の日。明日からあたらしい中学校へ通うことになる。
陽がゆっくりと傾きはじめた午後、凪子さんの部屋のとびらをノックした。凪子さんはすぐに、入っておいでと返事をくれた。
「金魚の掛け軸を、見せてほしいの」
「いいよ。好きなだけ、どうぞ」
さやかな笑みをうかべると、凪子さんは描きかけの絵に視線を戻して、絵筆を動かしはじめた。作業中に、部屋に入れてくれるなんて。ありがとう。
邪魔しないように、その背中の後ろを、そっと通っていく。
凪子さんの描いたたくさんの魚たちの絵にかこまれた、ふるい掛け軸。日に焼けて黄ばんでいるけど、金魚の、白に朱の更紗もようも、ひらひらと揺れる朱い尾びれも、あざやかでまぶしい。きっとこの絵を描いたひとが、更紗の、さいしょの「友だち」。
そっと手をのばして、指先で触れてみた。
手をつないだね。頭を撫でてくれたね。聞き分けのない妹みたいな、いたずら好きの小さな友だち。
あなたに、「もう来ないで」と言ったのは、あたし。置いて行かないと約束したのに。
「清良」
凪子さんの声。凪子さんの顔は絵の方に向いたまま。絵筆をうごかす手も止めない。
「今夜。夕食のあと、いっしょに温泉に行こうか。アーケード街の」
「……? うん」
なんとなくうなずくと、凪子さんはゆっくりとほほえんだ。
次話、ラストです




