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金魚わらしと水の街  作者: せせり
6.踏みつけられた花
11/22

 (りん)の音がひびく。線香のにおいが広いお座敷にひろがっていく。

 お仏壇のまえで手を合わせる、ママの後ろ姿。その背すじはぴんと伸びている。

「清良。寝てなきゃだめじゃない」

 顔をあげたママが、振り返って言った。

「……だって」

 パジャマ姿で立ちすくむあたしにすすっと寄ってきて、おでこに手をあてた。

「まだ、少し熱がある」

 おかゆをつくってあげるから、少しでも食べて。そのあとでお薬を飲みなさい。優しくそう言われて、あたしは素直にお布団に戻った。

 凪子さんは二階で、午後からのカルチャースクールの仕事の準備をしているらしい。

「あの子が先生とか、ほんとうに想像できない」

 ママはすこし笑いながら首をひねった。あの子、か。凪子さんだって三十代なかば、けっこういい歳なのに、ママにとってはいつまでも「あの子」なんだ。

 横になって、夏用の、うすい綿の肌掛けをかぶった。蝉の声がする。

 責任感の強いママは、おばあちゃんの法事はきちんと仕切っていたけど、それ以外ではお正月もお盆も帰省することはなかった。おじいちゃんとおばあちゃんに手を合わせながら、ママは、なにを思っていたんだろう。

 そんなことを考えていたら、まぶたがどんどん重くなってきて。目を閉じて、夢も見ずに、眠った。


 ふたたび目を開けると、部屋がオレンジ色に染まっていた。頭はすっきりしているけど、からだがだるい。枕元に置かれた水差しで喉をうるおす。

 包丁が何かを刻む、リズミカルな音がひびいている。ママの音だ。しばらく聞いていると、突然ぴたりと止んだ。畳を踏む足音が近づいてくる。

 障子戸をあけて、ママが部屋をのぞきこんだ。

「清良。起きたの?」

 すすっ、と寄ってきてママはお布団の横に座った。おでこにあてがわれる、手。

「あら。下がってる。良かった」

 にっこり笑う、ママ。ママって、あたしが病気のときだけは、とびきりやさしいんだよね。離れてからまだ一か月もたってないのに、ふたりで暮らしてたころがちょっと懐かしくなって、くすっと笑った。

「何がおかしいの」

「べつに」

 ママはあたしの顔をじっと見て、にやっと口角をあげた。

「ママ、その顔、凪子さんに似てる」

「やめてよ」

 そう言いながらも、口に手を当ててずっとにやにや笑っている。

「なにがおかしいの?」

「ふふっ。あのね、男の子が来た」

「えっ」

 かあっと、顔が熱くなる。やだ、また熱が出たらどうしよう。

「ごめんね、清良ぐっすり寝てたし、風邪をうつしちゃっても良くないから、帰ってもらった」

 うん、そうしてもらってよかったって思う。だって、お風呂にも入ってないし、汗で髪がほっぺたに貼りついてるし、パジャマだし、……見せられないよ、こんな姿。

「あの子、大きくなったね。キッチンメイプルの、楓くん。懐かしい。五歳のときね、清良をここに預けたでしょう?」

 恥ずかしい。ママが楓くんの話をするのが、なんだか猛烈に恥ずかしくって、あたしは

うなずくこともできないでいる。そんなあたしにはおかまいなしに、ママはくすくす笑う。

「私が清良を迎えに来たときね。楓くんとご両親に挨拶をしに行ったんだけど。楓くんね、清良と離れたくないって、大泣きして。大変だったんだから」

 そうなの? 知らないよ、そんなの。ていうかぜんぜん記憶がない。

「いい子じゃない、すっかり頼もしくなって。ママ好きよ。迷ったけど、清良、ここに住むことにしてよかったかもね。あの子がいるなら安心だもん」

 ママったら。ひょっとして、楓くんと何かしゃべったのかな。ああもう、やだ。恥ずかしいよ。ふたりで、あたしがいないところで、あたしの話をしたのかもしれないなんて。

 いたたまれなくて、具合が悪いふりをして、ふたたび肌掛けをかぶってふて寝した。


 つぎの日の午前中にママは帰っていった。あたしの体調もすっかり回復した。また、思いっきり、だだっと雑巾がけしたい気分。

「ふいー。やっと帰った」

 ママを見送ったあと。凪子さんは首をぐるぐる回すと、自分で自分の肩をとんとんと叩いた。

「昼寝でもしようかな」

「まだ朝だよ」

「こまかいこと言うなよ。あー、でもいい加減描かないとな。納期に間に合わない」

 凪子さんったら。ほんとうに、ぐったりと疲れた顔してる。納期って、イラストか何かの注文を受けてたのかな。それとも、どこかのお店に置いてもらって販売してるぶんかな。

「今日のお昼、あたしがつくろうか?」

「いいよ清良は病み上がりなんだし。そうめんにしよ、そうめん」

 縁側に出て、ふたりで腰かけて鯉にえさをあげる。しらたま屋に来たちいさい子どもにも、サービスで鯉のえさをあげているんだって。楽しいもんね、えさやり。口をぱくぱくさせながら、寄り集まって食べる顔が、なんともチャーミングなんだ。

「金魚、飼わないの?」

 雨の日に、更紗が睡蓮鉢の金魚をじっと見ていたことを思い出した。ああいうのだったら、庭で飼えるし、いいんじゃないかな。

「金魚はね。昔、縁日ですくってきたのがすぐに死んじゃったのがトラウマっていうか、自信なくてね。更紗が喜ぶかもしれないけど」

 凪子さんも、更紗の「お友だち」のこと、考えてたんだ。

「それに、うまくいって長生きさせることができても、ぜったいに更紗より寿命は短いしね」

「それならあたしたちだってそうじゃん」

 更紗の本体は、掛け軸のなかの絵なわけだし。というか……、死んでしまった子、なわけだし。ずっと五歳のまま、時が止まっているんだ。

そりゃそうだね、と凪子さんは笑った。だから、凪子さんは本物の金魚を飼わないかわりに、絵をたくさん描いている。掛け軸のまわりに、たくさん金魚の絵を飾って。

 ふあああ、と凪子さんの大きなあくび。

「ねえ。凪子さんって、ママのこと苦手なの?」

 前から少し感じていたことだった。姉妹でも、そういう、苦手とか気が合わないとか、あるのかな。あたしはきょうだいがいないから、よくわからない。梨乃は、お姉ちゃんとすごく仲がいいって言ってたっけ。

 梨乃のことをうっかり思い出してしまって、胸の棘が疼く。だめ。考えるな。

「苦手、ねえ」

 凪子さんのつぶやきが耳に届く。

「これでもだいぶ仲良くなったんだよ。ふしぎなことだけど、離れて暮らすようになってから、うまくいくようになった」

「前は?」

「さあ、どうでしょう」

 にやりとわらった。煙にまく気だな。

「さてさて。そうめん、そうめん」

 凪子さんは、ゆらりと立ち上がった。

 

 二階の自分の部屋で、ごろごろしながら文庫本を読んでいた。凪子さんは部屋に引きこもって絵を描いている。

八月。ここに来て二週間が過ぎた。本を閉じて、のびをして立ち上がる。窓の外の空は相変わらず青い。

電話が鳴った。あたしの、スマホ。ママかな、と思って画面を見ると、知らない番号。誰だろう。ふだん、ママか凪子さんぐらいしかあたしに電話をかけてくることはない。さいごに友だちからかかってきたのは、いつだろう。

五コール待って、電話に出た。

「清良? 大丈夫か。熱出してたんだって?」

 やっぱり楓くん。だって、彼以外に思い当たらない。

「もう良くなったよ。凪子さんに電話番号聞いたの?」

「ん。まあ、そんなとこ」

 いつの間に。しょっちゅうお屋敷に遊びにくるから、楓くんとは、電話でもやりとりなんてあまり必要ない感じだった。小さいときのまんま。かすかに残る記憶のかけら。

――清良ちゃん、あそぼ。

「体調いいなら、……その。来ても、いいか?」

ていうかもう屋敷のすぐそばにいるんだ、と楓くんは言う。だったら、うんって言うしかないじゃない。小さいころ、あたしと離れたくなくて大泣きしたって話を思い出してしまって、少しどぎまぎしてしまう。

あたしは。あたしは……、どうだったのかな。

楓くんはおみやげにラムネを二本、持ってきてくれていた。

「ありがとう」

「凪子のはない。だから、内緒な」

 いたずらっぽく、笑う。

 縁側でラムネを飲む。風鈴が音をたてて揺れる。

「昨日、来てくれたんでしょ? ママに聞いた」

 ラムネを飲む楓くんの喉が動く。ビー玉が瓶のなかで揺れてころころ鳴る。

「薬がきいて寝てるって言われて。あー、濡れちゃったからだなって思って。悪かった。ごめんな」

「なんであやまるの。べつに楓くんのせいじゃないじゃない。それに、楓くんだってずぶ濡れだったし」

 楓くんこそ風邪ひかなかったの、って聞いたら、おれは丈夫だからって威張られた。

 ラムネの泡がぷちぷちはじける。ああ、そうだ。小さい頃、たしかに。ここでふたりでこうして飲んだ。あたしは炭酸が苦手で半分も飲めなくて、楓ちゃんが飲んでくれてた。

 あそぼ、って言ってお屋敷にやってきて。日が暮れるまで遊んで。五時の鐘が鳴ったら、楓くんのおばあちゃんが迎えに来ていた。いつも。

「清良?」

 あれから九年。男の子になっちゃった十四歳の楓くんに、あのときの楓ちゃんのおもかげが重なる。

「あのさあ。こんどの日曜、だけど」

「な、なに?」

「おれ、部活休みで。ほら、この間会ったろ? テツと俊平とズミ」

「あ、うん」

 おぼえてる。とくに、あたしをじろじろにやにや見ていた俊平くんのことは。

「あいつらと、あと女子も何人か来て、遊びに行くことになってんだよ」

 ……それで? それが、どうしたの?

 女子も、何人か。それって、このあいだキッチンメイプルに来てた子たちだよね。

――夕菜にはだまっといてやるから。

 俊平くんの言ってた「夕菜ちゃん」も。いるんだよね。

 きゅっと、胸の奥がすぼまった。みんなにからかわれるぐらい仲のいい、女の子。

「清良も一緒に来ないか?」

「……え?」

 思ってもみない方向からボールが飛んできた。当然、キャッチなんてできるわけもなく。戸惑っているあたしに、楓くんはなおも「来いよ」とたたみかける。

「みんな一中の二年だし。夏休みのうちから仲良くなっておけば、新学期からが楽だよ」

 楽、って。溶け込みやすくなるって意味?

 どうして楓くんがそんな心配をするの?

「ねえ、楓くん。凪子さんから何か聞いたの?」

「何か、って」

「その。あたしが引っ越してきた理由、とか、そういうの」

 さいごのほうは消え入りそうな声になってしまう。

引っ越してきた理由。それは。

「凪子には、なにも」

 答える楓くんの声は硬かった。凪子さんじゃ、ない。じゃあ、まさか。

「ママ……?」

 楓くんは口をつぐんでいる。

 ああ。ママに聞いたんだ。あたしの、話。あたしが、前の学校で、どんなふうだったか。

 すうっと、からだが冷える。指先から、つま先から、感覚が消えていく。

「ごめんなさい。あたし行けない」

「清良。だいじょうぶだよ、みんなバカだけどいいやつだし」

「とにかく無理だから」

 機械みたいに、抑揚のない声で。ぼそりと告げた。楓くんに、知られてしまった。

「おれが、清良のこと守るって言っても?」

「え?」

 守る?

「万が一、なにかいじわる言うやつがいたとしても。そのときはおれがフォローするから。清良には嫌な思いさせないから。ちゃんと、守るから」

「守る、って」

 呆然としていると、楓くんの背後から、すっと白い手がのびてきて、楓くんのふとももをつねった。

「いてっ。なんださっきの?」

 更紗だ。あたしにしか見えない女の子は、口角をあげてにやりと笑んだ。だめ、と発音はせずに口だけを動かす。更紗は、むっとほおをふくらませた。

「楓くん」

 あたし、どうして熱なんか出してしまったんだろう。時間を巻き戻して、ママと楓くんが会わなくなるようにしたい。楓くんは知ってしまった。

「守るなんて、言わないで。そんなこと言われても、あたし、困る」

こぼれそうになる涙を、ぐっと飲みこんだ。


 夕ごはんがのどを通らずに、半分以上残してしまったあたしを、凪子さんはまだ具合が良くないのだと勘違いしたみたいだった。そのほうが都合がいい。お風呂をすませて、早々と自分の部屋へ戻らせてもらった。

 ごめんね、凪子さん。あしたから、ちゃんと夕食づくりも後片付けも手伝います。

 布団をしいてぽふんと倒れ込んだ。楓くんのことばかり考えてしまう。

 とんとんと、階段を上がる足音が聞こえて、止んだ。格子戸のむこうに凪子さんの影。

「清良。制服だけどさ、サイズが合うかどうか一応確認しといて、だって。伝えるの忘れてた。ま、体調いいときにでも着てみな」

 返事をしないでいると、ふう、と息をつく音と、戸を開けるが音した。凪子さんは自分の部屋へと戻ったみたいだった。きっとこれから絵を描くんだろう。

 あたらしい学校の制服は、ハンガーにかけて吊るされている。白いセーラー衿にブルーのスカーフ、紺色のプリーツスカートが、夏服。冬のは、紺色のセーラー服に白いスカーフ。

 わかっている。あの子たちの群れのなかに、あたしも入っていかなくちゃいけないこと。楓くんがその道しるべをつくってくれようとしていること。だけど。

 座卓に置きっぱなしだったスマホを手にとった。

ママ。ママと話をしなくちゃ。

ママはすぐに電話に出た。

「あら、清良。めずらしい。具合はもういい?」

「…………」

 いつもと変わらない、はきはきした声。あたしが今、どんな気持ちでいるのか、きっとママは想像すらしていない。

「具合、すごく悪い。ママのせいで」

「どうしたの。なにか怒ってるの?」

「楓くんに、なにを言ったの?」

「なにを、って。清良がそっちでどんなふうに過ごしてるか、聞いたのよ。中学校の雰囲気もいろいろ教えてくれて助かった」

「それだけじゃないでしょ? ねえ、あたしの事情、話したんでしょ?」

「話したっていうか……。あの子に、清良のこと、いろいろお願いしただけよ。凪子はいまいち頼りないし、そもそも学校の中のことまで把握できるわけがないし」

 いろいろお願いって、どういうこと? 守ってあげてね、とでも言ったの?

「楓くん、正義感の強そうな子ね。いじめなんて絶対許さないって言ってたわ。前の学校の担任の先生より、よっぽど頼りになりそう」

 耳の奥がきんと鳴った。視界が、ふっと、暗くなる。

いじめなんて許さない、いじめなんて。やっぱりママは、あたしのこと、楓くんに、あたしがいじめられてたって、楓くんに。

 もう、頭のなかがぐるぐるして、気持ち悪い。鼻の奥がつんと痛む。

「……ねえ。あたしの友だちに、なんで勝手にあたしの話をするの?」

 必死で声をしぼり出す。自分のものとは思えないほど低い声。耳にあてた電話の放つ熱で、頭がくらくらする。

「清良?」

「あたし、きっと、同情された。かわいそうって、思われた。いじめられて逃げてきた子なんだから、守ってやらなきゃ、って……」

 せっかく、友だちになれたのに。もう対等な目では、見てくれない。

「ママは清良のためを思って……」

「ママはなにもわかってない。あたしのこと、なんにも。ママなんて、大っ嫌い!」

 電話を投げつけた。部屋のすみっこに転がったちいさな機械から、きよら、きよら、とママの声が聞こえてきて、あたしは耳をふさいだ。

ママは、あたしの花を踏みつけたんだ。だいじにだいじに守ってきた、ちいさな花を。

あたしの、誇りを。

 涙と鼻水があふれてきて、止まらなくて、ひとり、暗い部屋でタオルケットをかぶって嗚咽した。くるしい。ママなんて嫌い。大嫌い。壊さないで。あたしのなかに、入ってこないで。

「楓くん……」

 もう、取り戻せないの?

 後ろから、ふわっと、ほそい腕が伸びてきてあたしを包む。白地に朱い花もようの、浴衣の袖に顔を押し当てて、泣いた。

「清良には、更紗がいる。いつもそばに、いるよ」

 耳元でささやく、甘いやさしい声。あたしはそのまま、更紗にくるまれるようにして、眠りに落ちた。



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