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⑶『埴谷雄高論』・・・安易な足場から、小説に転落するまで

⑶『埴谷雄高論』


   ・・・安易な足場から、小説に転落するまで



久しぶりに埴谷論を書くにあたって、随分と埴谷の小説を読解していなかったことに気付く。勿論、気にならなかった訳ではない。ただ、あの影のある世界観から、少し離れていただけのことだ。しかし、今、例えば、どの様に埴谷の小説に足を踏み入れたか、と聞かれたら、即座に答えることは到底出来ないだろう。

この、難しい、と言っては、逆説的に、難しいが故、読解したい、と思わせる小説に、自分は明確な意思を持って足を踏み入れた訳ではなかった。ただ、生きている上で、ふと、書店屋で埴谷の小説を手に取った時、読解が始まったのだ。無論、その前から、埴谷の名前は聞いていたのではあるのだが。



この、安易な足場に置いて、埴谷の小説に足を踏み入れたが最後、類まれなる観念性から、脱却不可能になったのは、自分で一番自分のことを分かっている様に、分かり切ったことだった。自分と対極にあるものが、自分の視覚に映る時、その謎を解明しようとする衝動は、多分に常套な現象だろう。

処で、埴谷の小説には、読解不可能な内容が散見されることは、埴谷雄高論でずっと述べてきたが、それがどの様に読解不可能かということには、余り述べてこなかった。これを比喩的に述べるとすれば、安易な足場から、空前絶後の大気圏を突破して、小説に転落する様なものだ、と言えるだろう。



問題は明瞭で在りながら、簡単には解決しない。小説に転落した時、最早逃げ場は与えられない。言葉の渦に埋没して、言葉の在りかを探そうとしたが最後、言葉の何処にも、核心などないのだ。ただ、羅列される言葉たちに、耳を傾けるしかない。しかし、こう言う一種の洗脳も悪くはない。

生きることは、何かを探し、知ることだからだ。今度は、言葉を噛み砕いて、転落した渦から、這い上がっていかなければならない。そして、理論で、はっきりとした足場を作り、山登を目指すのだ。恐らくそして、埴谷も、この様に人生を登って行ったはずなのである。理解した現象しか、執筆出来ないことは、明白であろう。

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