⑵『埴谷雄高論』・・・空前の位置
⑵『埴谷雄高論』
・・・空前の位置
㈠
埴谷雄高が日本文学史上、どの様な位置にいたかは、以前少し述べた。安倍公房を後継者に認めたとした内容も、記載したが、それでは、自己主観的に見て、埴谷がどの様な場所から、文学を見ていたかは、まさに計り知れない苦悩と共に思考すれば、自ずと見えてくると思っている。
埴谷の作品論を執筆するのは、ともかく、観念が擦り切れる程の苦痛を自己に齎す。それは、我々が日常生活で生きている位置とは、全く異なる位置に、埴谷が居るからである。文章を抜粋しても、簡単な図式に収めても、やはり足りない位置に埴谷は居る。述べてしまえば、空前の位置である。
㈡
こういった位置を、高みの位置だとすれば、宇宙論にしばしば発展する埴谷の小説からは、無限の領域での仕事が感じられるのである。つまり、宇宙論を書いている埴谷は、宇宙に(メタファとしての)居る訳であって、宇宙から執筆しているのだから、我々は宇宙へと急がなければならない。
しかし、人類が到達したのは、月、のみである。太陽系という、それでもまだ小さい領域を認知しているにも関わらず、月のみがテリトリーになったのみだ。だから、月から述べることのできる宇宙論ならまだしも、埴谷はもっと遠い、銀河系をも凌駕する位置にいる。つまり、空前の位置である。
㈢
ならば、せめて空想論での観念の切り替えだけでも、我々読者は宇宙へと行かなければいけない。そうでもしないと、埴谷の小説が読解出来ない訳である。遠い宇宙の果てから、埴谷は語りかけてくる。何故その様なことが出来るのか、実は、その事を思考せねばなるまい。
結局、その思考の謎を解き明かした者だけが、埴谷の宇宙論を理解出来るのであろう。宇宙での実在、それは夢と地続きかもしれない。まだ未到達な場所への接近、それこそが、埴谷に到達することの出来る、最大限の理解方法である。やはり、読者が目指すのは、空前の位置である。