第二話
海兎が異世界に来て一日が経った。
休まずオールを漕ぎ続けていたが、島どころか岩場すら見えない。
「にしても、全然疲れないな。あれから、確実に十時間は休まずに漕いでるはずなんだが」
一時間もずっと休まずに漕いでいれば腕に何かしらの違和感を感じるはずだが、海兎にそんな素振りは無い。おかげさまでセンリはぐっすりと休むことができただろう。
「ん……」
「お? お目覚めか」
あれから一度も目覚めることも無く寝ていたセンリは、目を擦りながらぼーっと海兎を見詰める。
「あなた、もしかしてあれからずっと漕いでたの?」
「まあ、うん」
自分でも不思議だと思っているが、こっちに来てからというもの色々とおかしくなっているのは理解しているためさも当然かのように答える。
それが、寝惚けていたセンリを一気に目覚めさせたようだ。
「う、嘘でしょ? どういう体力してるのよ」
「俺にもわからん。でもさぁ、十時間はずっと恋出るのに全然島のひとつも見つからないんだよなぁ。せめて地図とかがあれば……」
そこで、センリと入れ替わった海兎命名地図子のことを思い出す。そして、彼女の能力で表示された巨大な地図。あれはこの辺り一体の地図だったはずだ。
(うーん……でも、あれを見る限り島は地図子が表示した無人島以外に二つだったな。だったら、十時間も漕いだんだから島が見えていいと思うんだけどなぁ)
「ちょっと! 聞いてるの!?」
「え? あ、なんだ? 腹減ったのか? だったら、ほれ。りんご」
大船から持ってきた小さな木箱からりんごを取り出し朝食代わりにセンリへと渡す。
「ありがとう……って、違うわよ!!」
「腹減ってないのか?」
しゃくりとりんごを齧りながら首を傾げる海兎。十時間も飲まず食わず眠っていたんだ。空腹なわけがない。
(身に染みるなぁ。疲労は感じないけど、ちゃんと腹は満たされるんだな)
常人離れした体になったため、食の楽しさを忘れているのかと心配していた。だが、こうしてりんごの甘酸っぱさや食道を通り、胃の中に入っていく瞬間は以前と変わらない。
「へ、減ってないわけじゃないけど。今は、あなたのことよ! デビルクラーケンを倒すほどだから普通じゃないっていうのは知ってたけど。まさか、十時間も休まず漕いでたなんて」
そっぽを向きながら小さくりんごを齧り、海兎を不思議そうに見詰めるセンリ。海兎自身も今の体には不思議だと思っている。
ただ、考えてもどういうことになっているのかなんてわからない。常人離れしているということだけは理解できるが、それは異世界に召喚されたからと勝手に自己解決している。そうでなければ、あんな化け物を倒すなんて一般人にはありえないことだ。
異世界という海兎の常識をも超える不思議な力。それが、いつのまにか身についていたのだろうと。
「だけど、島ひとつ見えない。お前、何か知らないのか?」
「知らない」
「……はあ」
「な、なによ! そのため息!!」
明らかに飽きられたことにセンリは気にしたようで食べていたりんごを口に含まれたまま叫ぶ。それにより海兎の顔にいくつか付着してしまう。
「だってさ、お前この辺りの海域を船で旅してたんだろ? だったら、お前が出てきた島への航路とかそういうのを覚えていないのか?」
付着したりんごの実を払いながら、再び問いかける。
「お、覚えてないけど……」
申し訳なさそうに視線を逸らすも、すぐ海兎に睨みつける。
「しょうがないじゃない!! 私、航海士じゃないんだから!! あ、あなたこそ口より手を動かしなさい!! 十時間も休まず漕げるなら島が見えるまでずっと漕ぐのよ!! ふん!!」
ついに背を向けてしまう。
少し悪いことをしたかと思いながら、彼女の隣にもうひとつのりんごを置きオールを漕ぎ始める。それからしばらく波の音とオールを漕ぐ音。
その二つの音が永遠に鳴り響き続け、早三十分。
「お?」
「島が見えたの?」
「いや……岩場に、なんていうか」
「なによ、岩場に何か居るの?」
オールを漕ぐのを止め、海兎が気になってしまったものは岩場の上に居る生物。アザラシのような顔をしているが、なぜか羊のようなもこもことした毛を身に纏っている。
そのつぶらな瞳で、じっとこちらの様子を伺っていた。
「なんだあの不思議で愛らしい生き物は」
「【モコザラシ】よ。アザラシだけど、羊のような毛が生えているのが特徴よ。でも、あの毛は耐水性で海の中もすいすいと泳げるのよ。地上では普通の羊、水上ではあのモコザラシと分けられてるの。まあ、あのまま枕にしても寝心地は良いみたいだけど」
「へー、水上の羊か。あっ、見えなくなった」
さすがは異世界だ。あんな不思議な生物も居るんだなと改めて実感しつつ、またオールを漕ぎ始める。
「にしても、十時間半漕いでやっと見つけたのが岩場と不思議アザラシだけとは。肉体的には疲れてないけど、こうも景色が変わらないと精神的になぁ」
「そういうものよ、海なんて。だから私も島から出たくなかったのに……」
「……そうか」
センリの親は、彼女の中にある力のことを知っていた。それなのに逃げ場があまりない海へと出た。それはどうしてだ? 島に居たほうがまだマシなはずだ。
まさか、その島で何かがあったのか? ずっと身を隠していたがついに居場所を知られて、海へと逃走するも追いつかれて……。
「ねえ」
「ん?」
「暇だから、あなたのことを話してよ」
「俺のことか。ま、いいぜ。俺もずっと無言でオールを漕いでるのも飽き飽きしていたところだからな。そうだなぁ、まずは俺の世界についてだけど。俺の世界は地球って言う名前でさ」
いつになったら島に到着するのかわからない中、海兎はセンリに自分の世界について淡々と語るのだった。
・・・・・
「むー、やっぱり海の上だと戦い難いですねぇ」
「にゃはは! 慣れだよ、慣れ。それにしても、思っていたより大きな船を出してくれたね。てっきり小船程度だと思っていたけど」
ジルドンに【デビルクラーケン】の捜索をするように言われ、船を借りて二人は海を進んでいる。アルヴィスはてっきり小さな船だと思っていたが、出されたのは休み場所などがついている大きめの船。ジルドンの大船よりは小さいにしろ、雨風凌げる場所がある。
それだけでも十分なほどいい船だ。
「隊長は、どう思います?」
「どうとは?」
「デビルクラーケンですよ。生きてると思いますか?」
「奴の強さは本物だ。なにせ、何百年もこの海一帯を縄張りにし、西の海王と呼ばれるほどになったのだから」
デビルクラーケンのように、北や東、南などにも同じように海の化け物は存在している。それぞれが出会ったら生存率はゼロに等しいとも言われるほどだ。
「そんな化け物が死んだことで、この海一帯は荒れ始めた、ということですか」
「うむ。デビルクラーケンが居ることで、他の魔物達は無闇に暴れることができなかった。だが、デビルクラーケンが死んだことで」
説明している最中、海から鋭い牙でアルヴィスに襲い掛かってくる魔物。
「こうやって、襲ってくる魔物が大量発生。小船でこの辺りを旅するのは自殺行為だろうね」
魔物のほうを見ることなく短剣で切り裂き、空を見上げた。
「そもそもデビルクラーケンが生きていようが、死んでようが、よほどの実力者じゃない限り小船でなんてこの広大な海なんて航海できませんよ」
「にゃははは! それもそうだね。……おや?」
突然の静寂。
今まで止め処なく魔物が襲ってきたのが、突然止んだ。
「どうしたんですかね?」
「様子見、ということではなさそうだ。感じるか? エスティ」
「……はい。すごい力の波動ですね。魔物達は、これに怯えて逃げたってところでしょうか」
辺りには誰も居ない。しかし、二人は感じていた。計り知れない力の波動を。これまで多くの猛者と戦ってきたが、これほど緊迫するのは久しぶりの気分だ。
いったいどこに居る? どんな相手だ? まさかデビルクラーケンか? 武器に手を添えながら、周囲を警戒しながら見渡す。そして。
「あっちか」
気配を感じ取り、二人同時に振り向く。
そこで目にしたのは。
「へー、やっぱり不思議なところね異世界って」
「俺から言わせればここが異世界なんだけどな。それでさ、こっちに来る時突然海に引きずりこまれて」
のん気に会話をしながら、小船に乗っている少年少女の姿だった。
しかも、少年は上半身裸。少女は、破れたドレスを再利用して来ており、まるで遭難でもしたかのような、そんな格好をしていた。
「た、隊長。どう思います?」
「……慎重に行こう」
明らかに助けるべき存在だが、二人にはわかる。明らかに魔物達が怯えるほどの力の波動は、少年から感じられる。
「ちょっと、船よ! 船が見えるわ!!」
「え? マジか!? お、おーい!! ちょっと! ヘルプ! ヘルプー!!」
こちらに気づいたようで、襲ってくる様子もなく助けを求めてきた。
「助けてと言ってますが」
「嘘を言っているようには見えないね。……助けよう」
「了解です」