第一話
(うさぎ……美少女……)
気がつくと、どこまでも広々とした草原に海兎は経っていた。そして、目の前には兎耳を生やした長髪の少女らしき人物を視界に捉えていた。
「なあ」
声をかけようとするが、少女は突然走り出してしまう。
「ちょっと!! 待ってくれ!!」
どう見てもコスプレ少女。いや、後姿なので、少女かもわからない。もしかすると女装をしているのかもしれない。しかし、それでもなぜか気になってしまう。だからこそ、なんとか追いつこうと走り出す海兎であったが。
「ごばっ!?」
突如として、息苦しくなる。まるで、溺れているかのように。だが、周りは草原。水などどこにもない。目覚める前に溺れたことは覚えているが、まさかここは夢の中? 自分はまだ溺れている最中なのか?
(待ってくれ! せめて、顔だけでも!!)
それでもどんどん離れていく少女のことが気になってしょうがない。理由は、全然わからないが、どうしても気になってしまう。だからこそ、せめてどんな顔をしているのかを確かめたい。
息苦しい中、必死に手を伸ばす。
(待って……!)
もうだめだ。視界が、ぼやけていく。息も、もう限界だ。早く目覚めて息を吸わなくては窒息死してしまう。
(くそっ! もう限界……!)
一度目を閉じ、再び開く。すると、草原が広がっていたはずが、一面の青。いや、茶色も混ざっている。しかし、濁っているというわけではない。これは、なにか木箱のようなものに入っているのだろうか?
(考えるのは後だ! 早く息継ぎをしないと!!)
木箱ならば、蹴り破れば出ることができるだろうが、少し狭い。
(……って、上のほうが開いてるじゃんか)
壊す必要はなかった。蓋が閉じていなかったようで、立ち上がればすぐ息継ぎができる。
「ぷはぁっ!! はあ……はあ……けど、なんで木箱に」
ゆっくりと呼吸を整えながら、周りを見渡し、自分の入っていた木箱を確認した。どうやら、ただの木箱ではなく樽だったようだ。写真やテレビなどで見たことはあるが、本物を見るのは初めてだ。身長の半分はある。
「結構頑丈そうだな」
興味ありげに樽を叩くも、すぐに立ち上がり半開きしているドアを見詰める。風が入ってくる。しかもただの風じゃない。これは潮風だ。
「……なんだこれ」
潮風に混ざって何か変な臭いが漂うドアの向こうへと足を踏み入れる。そこで見たのは、まるで激しい戦後のような光景だ。
甲板はボロボロで、大きな帆はびりびりに破けている。
「これって血か? いやいや、これはペンキだ」
ドアを潜った後に壁や床を見ると、そこには真っ赤な何かが付着していることに気づく。最初は、血だと思った海とだったが、これほどの血が付着しているのを考えると相当の生き物が殺害されたことになる。そんなところに、自分が居るなんてありあえない。もしそうだとしたら、ここに居るのは非常に危険だ。だからこそ、ペンキだと現実逃避をするもその鉄臭さに現実に戻されそうになる。
「ふふ……」
「誰だ!?」
声が響いた。まさか、この惨状を起こした犯人か? すぐにここから離れなければ! とはいえ、周りを見渡しても一面の海。
どういうわけか、海兎は大きな船の上に居るようだ。
「またきたのね」
「また?」
声の主は、海兎よりも幼い少女だ。金色の長い髪の毛に、西洋のドレスのようなものを身につけている。しかし、そのドレスはところどころ破けており、少女の身なりはボロボロだ。何よりも、どこか精神が不安定そうな雰囲気がある。
「私から家族も、友達も奪って……諦めたかと思ったら……やっぱり、私が生きていると気づいて、命を奪いにきたのね!!」
「い、いやいや! 待てって! 俺は別にそんな」
どうやら彼女は、被害者のようだ。そして、話をいい玖限り家族も、友達も奪われたようだ。ならば、精神が不安定になるのも頷ける。左目が髪で隠れており、攣りあがった口から発せられる声は狂気の色がある。目の前で殺されたのか? それもかなりひどい殺され方をされたのか……。
「さあ、奪えばいいわ! もう私に生きていく理由がない! もう命も欲しくない!!」
「だから、落ち着けって! 俺は、ただの迷い子っていうかさ。俺も、どうしてここに居るのかわからない状況で」
海兎もよくわからない展開になっているので、頭の整理がしたかった。とはいえ、彼女は今にも自殺しそうなほどに精神が不安定だ。どうやら海兎を自分から全てを奪った犯人だと思っているようだ。自分のことも大事だが、目の前で壊れかけている幼き少女を放っておくことはできない。
(とはいえ、ただの一般人の俺に何ができるんだ)
医学的な知識は無い。こうして落ち着くように話しかけても、聞く耳持たない状態だ。
「そうだ。あなた、下着一枚で準備万端みたいね。だったら、あなたに私の初めてをあげるわ! もう私に失うものと言ったらこの命と! 女としての大事なものだけ!!」
などと言って、ボロボロに破けたドレスを必要ないものかのように破り捨てた。まるで、恥ずかしくもなく。ボロ雑巾かのようにドレスは床に落ちる。
その露になった肌は、穢れもない純白の色。まだ幼さが残る体には大きめの山が二つ見える。
「ば、馬鹿! 女の子がそんな恥ずかしくもなく肌を見せるもんじゃない!!」
下着一枚の少女に、手で顔を隠しつつ目線を逸らして叫ぶ海兎。相手が、年下だろうと女の子は女の子だ。
(くぅ……! 女子の裸に耐性がないせいなのか。声が上ずってしまった)
海兎のはっきりとした記憶にある女子の裸など、一年生の頃の亜美のものだけだ。そんな亜美も、二年生になり早くも兄離れをしてしまった。まだ小学二年だというのに無駄に大人びて、いつものように一緒に風呂に入ろうと言っても断られてしまう。
(いや、そもそも妹の裸で耐性がつくって考えがおかしい……いやいや! 今はそうじゃない!!)
目の前の少女が恥ずかしくもなく、自分の肌を晒したのは精神が不安定だからだ。そして、彼女は自分の初めてを捧げると言っていた。このままではだめだ。自分に何ができるのかはわからないが、出会ってしまったからにはどうにかしなければならない。
今後の彼女のためにも。
「……」
いったい自分に何ができるのか。それを考えながら、海兎は一歩また一歩と少女に近づいていく。
(そういえば、こういう場面。どこかで見たような……そうだ、あれは母さんの漫画で)
海兎の母親は、今年で三十七歳になるが、まだまだ少女のように恋愛に狂気心身。既婚者であるが、いつも少女漫画を読んではきゃーきゃー言っている。海兎も、母親に進められるがまま何度か読んだことがあり、その内の一冊で今の状況のような場面を見たことがあったのだ。
「ふふふ。そう、そうだよ。私の初めてを」
(って、あれは漫画だ! そんで、これは現実!!)
漫画では、男が少女の唇を無理やり奪って黙らせるというものだった。医学的にどうにかできないのであれば、その方法も可能性のひとつだろう。
(とはいえ、他の方法っていえば首裏に打撃をして気絶させる? いや、あの方法は現実的じゃない。下手をすればただ相手を傷つけるだけのものだ……あれは、空想の世界だからこそできることだ)
「私は! もう!!」
目の前で見ると目の下にくまができており、瞳は虚ろだ。体は穢れの無い純白だが、顔は掌はボロボロだ。
このまま少女を放置していたら、精神がさらに磨り減ってしまう。なによりも、もう見ていられない。
(くそ! 考えてる場合じゃない!!!)
意を決し、海兎は少女の腕を掴み取り抱き寄せる。
「ちょっと静かにしててくれ」
「むぐっ!?」
聞くに堪えない。もう喋らせない。これが、自分にできる少女を黙らせる唯一の方法だ。
だから、唇を奪った。
普通に手で塞げばいいのだが、それだけでは振り払われてまた喋るんじゃないかと思った。海兎自身も恥ずかしいが、ここでやらなければ男じゃない。男だったら、悲しんでいる女の子を意地でも止めてやらなければ。
(死んだじいちゃんもよく言ってたな。涙はなくとも、悲しんでいるとわかったら男として何が何でも止めろって)
「むー! むー!?」
突然唇を奪われ、さすがの少女も動揺している。虚ろだった瞳も徐々に戻っている。頬も赤くなり、身がぷるぷると震える。
(とはいえ、涙を流していないのに悲しんでいるってどういう状況なんだよって思ったけど……まさか、本当にそういう状況に出会ってしまうなんて)
「むっ!? むむっ!!」
恥ずかしさのあまり意識が遠のいていく。へにゃりと力が抜けていく。だが、海兎はそれに気づいていない。
(あっ)
やっと気づいた時には、もう茹蛸のように赤くなっていた。息苦しいのだと思い、すぐ唇を離す。意識はなく、作戦通り静かになったが……海兎自身も急に恥ずかしくなり顔を逸らす。
「……血の味」
そして、気になったのが血の味だ。抵抗して、海兎の唇を噛んだわけじゃない。彼女の口に元から血があったのだ。
(まさか、ファーストキスで血の味を経験するなんてな……)
とはいえ、これで静かになった。気を失った少女をゆっくりと床に寝かせ、破り捨てられた彼女のドレスを毛布のようにかけた。