第十話
【三月一日未明 オーギョルド地方 築城労役場】
尋問が終わってからはノーリはひたすら歩かされ、日付が変わる頃に労役場へと着いた。
しかし、着くや否や兵士に両脇を掴まれ乱暴に牢の中へ投げ込まれた。
牢の中は寝ることすら厳しいほどに人が詰め込まれ、人々は全身いたるところが傷つきあちこちからせき込む声も聞こえてくる環境であった。
さらには寒さをしのぐ物は藁しかなく、まだ冷たい春の風が牢人の身体をさらに冷やしていった。
牢の状況に困惑しているノーリの背後から戸を叩く音がした。
「おいお前。ノーリだったな、大した強運の持ち主だよまったく。聖皇様が居なきゃお前は今頃首なし死体になってただろうよ」
トンバルーを襲った王都の兵士が、ノーリに向かって話していた。
ノーリは急いで戸に近づき、待つように声を発した。
兵士は睨みつけたが、傍にいた小隊長が制止した。
「私と一緒に連行された人々は何処に」
「罪を犯して逃げていた者は処刑上へ、それ以外は奴隷房に入った」
「師匠は、師匠はどうなったのか教えてください!」
小隊長は少しノーリを憐れむような顔を一瞬だけしたが、すぐにいつもの不愛想な顔に戻って言った。
「あの浪人か。お前を司教に預けてからの消息はまだ分かっていない。あの腕の持ち主だ。逃げることも容易かろう。残念だが」
ノーリは言葉を失い、その場に崩れ落ちた。
小隊長は部下を連れてノーリの牢から去っていった。
失意の底にいるノーリは壁に寄りかかり座った。
自分を幼少のころから育ててくれた師匠が助けに来ると信じる心と、未だに助けに来ない現状がノーリの中で闘っていた。
ノーリはそれから夜明けまで、寒さと飢えに苦しみながら昔のことを思い返していた。
最初に思い返した記憶は、六歳の時の師匠との会話だった。
「トンバルーにいる人は皆それぞれ、辛い過去を持っている。世間から見捨てられて虐げられ、心に傷を持った人ばかりだ。国や騎士というものは本来、その人たちも全て守り助けていかねばならない」
ノーリは正座して真剣に師匠の話を聞いていた。
「お前はいつだったか、父と母は何処か、と聞いたな」
その言葉にノーリは小さく何度も頷いた。
師匠は少し外を見て考えた後言葉をつづけた。
「激しい吹雪の夜にお前の父がお前を抱いて、トンバルーの聖堂に来た。お前の母は既に、この世を去った後だった」
神誕歴一一五〇年二月二十日のトンバルーの聖堂。
この頃はまだ聖職者は多くなく、この日の聖堂は司教と師匠の二人だけだった。
二人で吹雪について話していた最中聖堂の扉が勢いよく開き、男性が倒れ込んだ。
腕には赤子を抱いていた男性の顔色は悪く、全身雪にまみれていた。
「もし!どうされた!」
司教が男性を抱き起し、師匠は腕に抱かれていた赤子を預かって抱いた。
司教の顔を見た男性は安心したのか目を閉じ、身体から力が抜けていった。
「しっかりなさい!気をしっかり持つのです!」
師匠に抱かれていた赤子は生まれて間もない子であり、司教が男性に声が掛けている横で泣き出してしまった。
「師匠殿、とりあえず毛布を!それと温かいものを持ってきてください!」
「え、えぇ・・・」
司教と師匠はこの日の夜、不意の来客にてんやわんやした。
「お前の父はとても立派な人だったそうだ。見捨てられた多くの人々を解放するために戦った。これからは、私がお前の親だ。一緒にここでひっそりと暮らしていこう。外の世界は、お前を歓迎してはくれないだろう」
七歳頃からは本格的に山ごもりを始め、師匠と鍛錬を積み重ねていた。
「一ッ!二ッ!」
師匠の声と動きに合わせてノーリも木剣を素振りした。
「ノーリ、武芸と言うものは三ッ!幼い頃から学ぶものだ四ッ!私も幼い頃に始めた、真似しろ五ッ!六ッ!そうだ」
「えいッ!」
「ノーリ、お前に教えている武芸は人を殺すためではなく人を救うために使え。人を活かし生かすための武芸だ。お前は優しい。その優しい心では人を殺した後、耐えられなくなるほどの深い傷を心に残してしまうからな」
それからの師匠との厳しくも楽しい生活を思い出して、ノーリは暗い牢の中で一人微笑んだ。
「うぉ、おおおおげほっげほ」
急に隣で寝ていた老人がノーリの肩を掴んで寄りかかってきた。
あまりに急なことでノーリは困惑し老人の方を見た。
老人の顔は傷だらけで服は汚れあちこち切れていた。
「どうされました」
「わ、若いの。ここに送られたってことは、何か重大な罪を犯してきたんだろう。なあいいか、よく聞くんだぞ。とにかく逃げるんだ。どうせ死ぬんなら逃げて死んだ方がましだ」
老人は呼吸をするのも辛そうな声だった。咳を何回も込み、痛みに耐えながらどうにかしゃべった後再び横になった。
老人の言葉にノーリはさらに困惑した。奴隷の労働環境がここまで酷いものなのか。
トンバルーから出たこともないノーリは、世界の事を知らな過ぎた。
【同刻 王都ルナティア ルウンの屋敷】
内務元老としての仕事などで家を空けることが多かったルウンは、久しぶりに妻であるセシールと食事をしていた。
セシールの旧姓はジャネ。この時ノンドルギアの軍を任されていたアドルフ・ジャネ元帥の娘である。
セシールは十四歳と幼いながらも、日々の仕事で疲れるルウンをしっかりと支えていた。
「父の件は、今一体どうなっているのでしょう」
「明日あたり、王都に到着されるだろう。心配はいらない。父上はああいうお人だと思われているが、無茶な殺生はなさらないだろう」
「ですがお義父様の周りは、ビアロ公爵を中心とするアラン様派で固められています。まさかお義父様が貴方の命をアラン様が狙っていることに気づいていないわけがありません」
「お前には関係ない。あまりに心配するとお腹の子に障るぞ。大丈夫だ、いざという時は私が。」
ルウンはセシールの横で屈み、ゆっくりとお腹をさすった。
少し不安げな顔をしていたセシールも、少しずつ顔に笑顔が戻っていた。
「日付も変わった、もう遅いし寝よう。睡眠不足は乙女の敵だろう」
「はい」
セシールと共にいる間だけ、ルウンは心を落ち着かせて休むことができたのである。
ただこの時、ルウンは一抹の不安を覚えていた。
それは義父に関することなのか、それともまた別の事なのか。
そんな不安な顔を見せたルウンに気づいたセシールは、ルウンの腕に捕まりルウンに笑顔を見せた。
ルウンもセシールの気づかいに気づき、不安を消し去って笑顔を返した。
【同刻 王都ルナティア デグロフォン家の屋敷】
デグロフォン家の屋敷には、ビアロと三人の家臣が集まっていた。バグダ、サーガ、そしてこの時はまだ無名の若き策士の三人とビアロは卓を囲んで酒を飲んでいた。
「今回の聖兵の乱は、まさに天の助けと言えるでしょう。これを機にルウン様を窮地に追い込むことが出来ました」
「その通りです。『ケヴィン・トーマン』は実に頭の切れる男でして」
ビアロやバグダ、サーガは愉快に笑っていたが、ケヴィンの表情は硬かった。
ケヴィンは酒には一切手を付けず、ただ三人の話を聞いていた。
「若いとは良いものだ」
「それに急遽使者を送りアドルフ元帥を呼び戻されたのも素晴らしい決断でした。元帥は言われるがままに戻るしかありません」
「きっと呆気に取られているだろう。今後どうなるか楽しみだ」
ビアロはにやりと笑い、バグダとサーガは声を上げて笑った。
「手綱を緩めてはなりません」
その言葉にそれまで愉快な雰囲気だった場の空気が変わった。
それまで一切口を開かなかったケヴィンがビアロの方を向いた。
「陛下は最近さらに気力が落ちております。ご老体故いつ気が変わるか判りません」
ケヴィンの進言にビアロは小さくため息をついた。
「だが、急がば回れと言うだろう。急いては事を仕損じることになる」
「ですが、陛下の側近のイルテ・ギュートと王宮衛士長の『ブノワ・デグロフォン』様は危険です」
ケヴィンの言葉に全員が首を傾げた。
「イルテはともかく、ブノワ様は公爵の嫡子だぞ。何故危険と言えるのだ?」
「ブノワ様はルウン様と幼少のころから親交が深く、今でも仲がよろしい様子。ルウン様の方へ流れる危険性があります。警戒は怠れません」
ケヴィンの言葉を聞いたビアロはじっとケヴィンを見た。
「イルテは頃合いを見て早めに始末し、ブノワ様はこちらの仕事に戻すべきです」
ビアロは鼻で笑った後、馬鹿にしたように笑った。
「始末だと?よいかケヴィン」
「はいビアロ様」
「やはり若者は気が短い。二人が危険なのは分かった。急いては事を仕損じると言ったであろう」
「はい。ですが勝負では迅速な決断力が必要です。ルウン様も」
「分かっておる。もうよい」
ビアロ盃を置き、立ち上がって笑った。
「そなたはもう下がれ、客人があるんだ」
「かしこまりました」
ケヴィンは立ち上がってビアロに一礼しその場から去った。
「ケヴィンは賢い男だが、性急で過激だ」
「ですが、此度の件もあの者がおらねば機会を逃したでしょう」
ビアロは頷いて再び笑った。
「それもそうだな、うむ。それはともかく、兜網毬大会もしっかりやれ。結果の及ぼす影響はあまりにも大きい。帝国や周辺国の使節団や官僚たちも見に来るのだからな」
「大会は、このサーガ・ズシム中軍佐が準備しております」
「左様です。お任せくださいませ」
「そなたなら安心だ、任せたぞ」
この日、屋敷には愉快な声が響いたと言う。
【三月一日明朝 オーギョルド地方 築城労役場】
朝早く築城労役場には起床の鐘が鳴り響いた。
兵士が牢人たちを牢から棒で突っつきながら出していく。
「おら起きろ!飯を食ったら開始だぞ!」
「ぐずぐずするんじゃない!出された餌をとっとと食え!」
牢から次々と牢人が広場に出ていく。
ノーリも出ようとしたが、夜に話しかけてきた老人がまだ寝ていたため声を掛けていた。
「ご老人、ご老人。起きてください、朝になりました」
ノーリが老人の身体を揺さぶるが、まったく反応がなかった。
それどころか、その身体に全く力を感じることが出来なかった。
慌てて老人の顔を覗き込んだが、老人の顔からは生気を感じられなかった。
老人は死んでいた。
「あ、あの。待ってください、人が死んでます」
ノーリは出口に向かっている牢人の一人の服を引っ張り止めようとするが、牢人はノーリと老人を見た後手を振りほどいて出ていった。
「おい!まだ中にいるのか!」
出口からやってきた兵士にノーリは声をかけた。
「すみません、来てください!人が、人が死にました。人が死んだんですッ!」
ノーリの言葉に兵士は首を傾げた。
「こいつ、何を言ってる?毎日何人も死んでるだろう。早く来い!」
ノーリに鞭を打った後兵士は出ていった。
唖然としているノーリに後ろから声をかける人物がいた。
ノーリは驚いて振り向くと、牢の中では比較的若い男がそこにいた。
「おい、まずは腹ごしらえからだ。餌みたいに粗末な飯でも食っておくんだ」
そういって男は老人の死体に近づき、身ぐるみを剥ぎ始めた。
「何をするッ!」
ノーリは男を制止しようと手を出したが男は手をはねのけ、剥ぎ取った物をノーリに渡した。
「早くしろ。何も食えなくなる」
男は小声でそう言った後牢から出ていった。
牢に一人になったノーリは、老人の死体を揺らして起こそうとしたが止めた。
老人の死体に手を合わせ一礼し、泣きながら老人の遺品を身に付け牢を出た。
広場の飯の入った樽の前は多くの牢人で混雑していた。
「まずは食うんだ」
男に連れられどうにか飯を食べることが出来た。
広場では順番や飯の量で喧嘩が起き、兵士が鞭を打って取り押さえていた。
注がれた飯は飯と言うよりは餌であった。
穀物や野菜、肉といった具材はなく、米の研ぎ汁のようだった。
これほど酷い食事であったが、山ごもりでの生活である程度の驚きで済んだ。
食後、ノーリたち牢人は整列させられ作業場所へと連行されていった。