#01-07 ――嫉妬か?【SIDE:児島清一郎】
正直言って、村崎実咲にベタ惚れというわけではない。
何故なら、女の子は常に、彼に対してほとんど常に、やさしく接してくれる存在だから。
美男子であるゆえに、例えば彼には、橋本文也のような人間の気持ちが分からない。
劣等感を抱いて、他人を妬み、そねむ――努力の果てにたどり着いた三島由里子の挫折とも無縁。
彼は、大概のことは、他人よりもうまくこなせた。
一部の理系科目は確かに苦手だが、それでも、一度躓けば転び方が分かるというもの。ミニテストや試験で赤点台を数回マークしたものの、それ以降は気球のようにぐんぐん上昇。不得意な科目でも平均点以上を叩き出せるようになった。
学園祭直後に中間試験。進学校の部活というものは大概ハードだ。彼は、試験勉強の恩恵で寝不足の血走った目である場所へと向かう。――この一週間、ろくに楽器なんか触れてねえ。……
蘇る顧問の肉声。
『おっまえら! 絶対赤点取んなや! おれが怒られんねぞ。それにな。分かっとる思うけど、大会直前の試験で赤点三つ以上取ってもうたら大会出られんねんぞ。
緑高生は、勉学と部活を両立すること! ほやさけ、歌合奏もほどほどにして、毎日、一時間でも二時間でも勉強すんねぞー』
緑川高校吹奏楽部部員は、練習熱心なあまり、テスト期間中に、楽器に触ろうとする者が毎年必ず現れる。先輩方に注意されていても、だ。
学校サイドは、進学校という名目上、テスト期間中の部活動を禁止している。楽器を持つなど論外。
『禁止』されれば生徒は必ず抜け道を探す。この法則は、今回のケースにおいても例外ではなく―― 彼らは時間を見つけ、早朝や昼休みに、空き教室などで『歌合奏』をしているとのこと。
これで成績がダダ下がりならば新たに禁止事項が増えるところであろうが。
テストの結果が、悪くないと来た。
然れども、それは、『試験中の部活動禁止』という重たい障壁を取っ払うところまでは行き着かず。おそらく、顧問の佐藤恭吾先生辺りは板挟みになっているのかもしれない。生徒に、思い切り部活動をやらせてやりたいという気持ちと、将来のために出来るだけ勉強をさせてやりたいという気持ちと。
人間、『両立』するのは常に難しい。日本人などは特に、二つの物事を並行して行う人間を、『器用貧乏』などと揶揄しがちだ。
然れども。
やろうと思って出来ないことなど無い――。
そう信じる彼は、中間試験の最終日の放課後。責務から解き放たれた開放感で和気あいあいとする同級生のあいだを縫って歩く。――階段を降り、渡り廊下を抜け、向かう先は、……
音を立てて職員室の扉を彼は開いた。「――失礼します」
「おー来たか児島」来客用の革張りのソファに座る先生は鷹揚に笑い、「まーそこ座れや」
ガラステーブルを挟んで正面のソファを指差す。
おとなしく児島清一郎は応じる。――
それにしてもだ。
と、改めて真正面から吹奏楽部顧問の佐藤恭吾を見て思う。……髭。ちゃんと剃れよ。だいたいなんだその長髪は。生徒たちに示しがつかないんじゃないのか?
今回、児島清一郎が佐藤恭吾に呼び出されたのは、いわゆる個人面談――顧問として生徒たちの生の声を聞く目的あってのことだ。ぱりぽり頭を掻き、キングファイルに目を落とし、先生は尋ねる。「児島ぁ。おまえからなんかおれにゆうことあっか?」
「――無いです」
本当は、テスト期間中の部活動を許可して欲しいところだが、それは、一教師の一存では無理であろう。他の部活の生徒が同じように言いだしたらそれこそ――支障が出る。
なにか言いたいことがあるであろうことを目で読み取った佐藤恭吾は、
「ほしたら今度はおれからな」
――『あいつ』誘うたんは、
「――嫉妬からか?」
黒曜のような瞳が語っていた。おれにはなんでもお見通しだと。それは、児島清一郎が初めて味わう感覚であった。自分に『追いつける』。自分よりも『先をゆく』人間の優越。
怖気すら覚えつつ、彼は笑った。「違います。――いえ。
ぼくのなかの、三パーセントくらいが、『そう』思っていたかもしれませんがね――」
児島清一郎は、あくまで余裕を保つ。「『おれ』ねえ。『あいつ』のことが、すっごい好きなんです。常に、なにかに、一生懸命で無邪気で――ひとを殺そうとか絶対に考えたことのない、彼自身、自覚している通りの、平和主義者です」
ぼくとは大違いのね。
と、彼は、付け足す。
そんな彼を見て、佐藤恭吾は、
「……ゆりっぺが入部したいきさつとか、聞いておる?」
「勿論です」と児島は頷く。「結局、『彼女』を動かしたのはマイクだ。橋本を入部に導いたのも、マイク。あいつね。……無自覚だけれど、ひとを動かす力が、あるんです」
そう。
児島清一郎が玉城マイクに興味を持つ正体は、それだ。
自分にないものをあいつは持っている。だから、あいつに、こんなにも……!
そんな児島清一郎の内部を洞察してか知らずか、「プライベートなこと聞いてもええ?」と佐藤恭吾。答えられる範囲であれば、と児島が返事をすると、そのな。と佐藤恭吾は視線を彷徨わせて頬を掻き、
「……どこまで進んでおるんや。おまえたち」
ふ。
と、児島清一郎は息をこぼした。「『ぼく』は、高校生のあいだは、男女交際を、清い淡い種に留めておく方針です。
電話は頻繁にしますが。スキンシップは握手する程度のものですよ」――だいたい。
村崎実咲とは、キスすらしていない。
「それを聞いて先生は安心した」ぱたん。と佐藤恭吾はキングファイルを閉じると、「吹奏楽部の男子生徒が同級生の女の子妊娠させたとか。おれそんなん勘弁やわ」
「ご心配なく」と、児島は応じる。――『ぼく』が、いま、最も興味があるのは。
『あいつ』以外に、ない。
あんなにもひとびとを魅了し。されど、劣等コンプレックスから抜けきれない存在――。
村崎実咲のことは大切だ。自分から告白したのは、きっと本心で自分がそれを望んだから。
だが。
出会った順番が逆だったら、どうなっていたか――?
かくして、彼は、求められる自身の像を保ち、自身の道を突き進む。「話はそれだけですか?」と席を立つ。
「おう。サンキュな」
彼は佐藤恭吾に背を向けるのだが、
「児島」
と、先生の声が呼び止める。――おまえな。
「どっかで本心ぶちまけな、ストレス溜まるで?
言いたいことあんねやったら、おれが暇んとき、いつでも聞いたるさけ」
――暇なときなんか無いくせに。
いつもいつも、授業の準備や後始末、それ以外の時間はすべて吹奏楽のことに忙殺されているくせに。
と、内心毒づきつつも、児島清一郎は「分かりました」と殊勝に答えた。
廊下に出ると、三島由里子の姿があった。次の面談は彼女のようだ。彼は彼女に「どうぞ」と道を譲った。
『ゆりっぺ』というニックネームのつけられた彼女であるが、彼が彼女をその呼び名で呼ぶことは無い。
『ニックネーム』は、純粋に、『彼』を慕う人間だけに許された専売特許。
職員室のある校舎は、一階に三年生の教室のある校舎で。合理的な配置だ。三年生は、職員室にちょくちょく行く用があるから。
椿の咲き乱れる中庭をつと見やり、児島清一郎は思う。二年後、おれは、どんな気持ちで、この場所に居るのだろう……。
先のことなど誰にも分からない。明日自分が死ぬ可能性だってゼロでは無い。
不慮の事故。突然死。どうしてひとは、明日自分が生きているだろうことを確信しているのだろう。
そんな疑問に身を任せつつ、受験勉強の追い込みに追われる三年生の教室の前を通り、廊下を奥へと進み、階段をのぼる。
迷いのない足取りへ向かうは三階。彼は、久方ぶりに。生で吹奏楽曲を聴けるだろうことを期待していたのだが。
聞こえるのは、ピアノの伴奏。そして歌声。確かに、今月下旬に学校は合唱コンクールを予定しているが、今日はその練習に使われることは無いはず……。
いつものように。音楽室に入る前に、立ち止まり、必ず礼をする。吹奏楽部に所属する人間が守る、絶対的なルール。――音楽室は、『聖地』。わたしたちは、場所を借りて練習させて頂いている。細かなところにまで、その意識を走らせている、その意志の現れである。
「おーセイチロ!」ピアノの周りに十数名の同じ部の部員が居るであろうか。真っ先に反応したのはマイクであった。「えらい早かったな! どやった面談!」
「取り立てて報告することはなにも無いさ」入り口の、学生カバンを置く場所に置く。因みに、置き方は、特に教わったわけではないが、きちんと整列させる。これも、吹奏楽部の徹底されたルール。「佐藤先生の、ちょいと伸びた髭を見てきた」
「ぐだぐだ言っておらんとはよ来ましね」手招きをするのは葉月明日佳先輩。「男性パート。足りんさけ手伝うて」
……『空も飛べるはず』。おそらく、葉月先輩のクラスが、この曲を歌うと見た。合唱コンクールで。
「でも」と段を降り、近寄りつつ児島丈一郎は言う。いつ見てもこの部屋は綺麗に掃除されている。部員の努力だ。「テスト明けなんですし、一刻も早く練習すべきじゃ……」
「息抜きも大事やわいね」と手招きをするのは女の部長。――とか言って。これも。
吹奏楽部の練習の一環。
声で歌できちんと音程を取れないと、楽器を吹いたとて音が取れるはずが――無い。
「はよ、はよ」せっついて腕を引く玉城マイク。彼はどんなに、自分が必要とされているのかを、知らない。どんなふうに、児島清一郎に想われているのかを――知らない。知ったら。
(いったいどう思うのだろうなあ……?)
児島清一郎は、ほくそ笑む。
人当たりの良い人間ほど、冷酷な裏の顔を隠す。外でいい顔をするツケが裏に出るのだ。
DV男は、暴力を振るったあと、別人のように謝り、許しを乞う。……そうすることで、自分が『許されたい』のだ。本来であれば罪は自分で自覚し自力で償うべきものなのだが、相手に許されることで自分が一刻も罪から逃れたいという、極めて自己中心的な行為である。
誰かに暴力を振るうわけではないが。裏の顔を隠し持つ、児島清一郎は今日も自覚する。――ああ。
今日も、おれは、村崎実咲が好きで。玉城マイクのことが――
大好きなのだと。
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