#01-06 あるかもしらん【SIDE:葉月明日佳】
その夜は、横浜ベイスターズが、三十八年ぶりに二度目のセ・リーグ優勝を決めることとなるのだが。
基本、緑川在住のひとびとが好きなのは巨人だ。
その理由は、チャンネル数が少なく、巨人の中継しか見られないから。
日本テレビやテレビ朝日に相当するローカル放送局が開設されたのは彼女が小学生の頃のこと。ASAYANは深夜に観るもの。TVチャンピオンだったら土曜日の真っ昼間。年間で300日練習に励む彼女がその番組を観ることはない。
皆がみな、大魔神の勇姿に釘付けとなった。
やがて都会を覆う、その夜の喧騒を知らない、その少女は、音楽室前の廊下にて、彼らが包まれる種と別種の喧騒の只中に居た。……
あーもー! そっち行かんといて! ママの傍におって!
……うんち? ええうんちなが!? ちょっとあんた、こっから一番近いトイレてどこにあるが!? はよ! 我慢できるりょうくん?
こら! 大事に使いましね! 振り回さんと! ……
ばたばたと、走り回る子どもの首根っこを掴み、葉月明日佳は大きな声を出す。「こら! みぃんな楽器使っとんねやから、走り回らんと! ママの言うこと聞きんさい!」
はーい。……
「たくもー」と葉月明日佳はママの元へ駆け寄る子どもを見やると腕組みをする。「注意しても注意してもこんなん、きりがないがいね」
「ええんよそんなもんで」いつもにこやかな女の部長。観音様みたいだ。「こーして、めいっぱい楽器に触れてもらうことが、緑川の未来に繋がりんから」
「……」
壁に寄りかかり、子どもとママで溢れた光景を見やる。……
本日、学園祭一日目。毎年、緑高吹奏楽部は、近くの文化会館のステージにて演奏をしている。が今年は、趣向を変えて、二日間、午前中は、『ぼくもわたしもいらっしゃいましー! 楽器に見て触れるわくわくコーナー!』を催すことにした。
きっかけは、春の定期演奏会後のアンケートであった。
『――以下、娘の意見です。
子どもが居るとなかなか演奏会にも行けません。
子どもを預けて夜見に行くわけにはいけませんので……子ども向けチャイルドコンサートのようなものを開いて頂けると、ありがたいです』
『どー思うよおまえら』パソコン部と吹奏楽部は結託している、否、協力しあっている。定演のアンケート結果も、手際よくパソコン部のメンバーがまとめてくれた。それをぱらぱらとめくると恭ちゃん先生は、
『なんかいいアイデア、ないか?
……緑川文化会館は、流石に、子どもは厳しいと思うがな。
客席をオシッコやウンチやミルクまみれにするわけにいかんさけ』
定期的に吹奏楽部部員と話し合う恭ちゃん先生は、その日、吹奏楽部の幹部に対して、
『なんかいい案ないか、おまえらでまとめとけ。頼むわ』
といっても、緑高吹奏楽部は、忙しい。実力テスト。中間。期末。かけるの三学期ぶん。学校の試験だけで年に九回はあるのだ。その合間を縫って、練習、人前で演奏。土日も朝から晩まで演奏漬けだ。
長い間宿題となっていたその問いに対し、答えを提示したのは、この秋に入部したばかりの部員であった。
『二日間午前午後演奏会するんやのうて、例えば。音楽室とその前の廊下つこうて、子どもたちに好きなだけ楽器触らすてどうでしょう』
オタクという呼び名に相応しいだろう、全体にやや長めだった髪を、入部を機にばっさり切ったその少年は、
『おれも途中入部やさけよう分かるんです。吹奏楽て、なんやらよう分からんけどリコーダーみたいな簡単なもんやと誤解されておるんと……違いますか。その偏見。子どもたちがちっさいうちから取り除いてやることも、長い目で見たら、大切かと……』
幹部たちは彼の意見に同意した。
緑高吹奏楽部は、決して部員が多いとは言い難い。毎年、小編成向けの大会に出場できる、三十五人前後のメンバーを揃えるのがやっとで、実力以前に、大編成なんて夢のまた夢。出場メンバーを五十人以内に絞るあの苦労とは無縁である。
緑高には、毎年、約百六十名の人間が入学する。そのうち、吹奏楽部に入部するのは、十名~どんなに多くとも二十名程度。皆、それぞれにやりたいことがあるのだし、進学校ゆえ、部活に入部せぬ人間も珍しくない。
だが。
それでは駄目なのだ。
「音楽が無くても人間生きていける」喧騒に包まれぽつり。葉月明日佳は言う。「けども……」
独り言のように彼女は言っていたのだが。
「――人生楽しまんと、なあ?」
言葉尻を捉えたときに、切れ長の目を彼女は捉えていた。あまりのどアップに、目の焦点が合わない。
「……わ!」下から顔を覗き込まれ彼女は胸を押さえる。「なにね! 驚かさんといてま!」
ははは、とそのひとは葉月明日佳から離れると喉を鳴らして笑い、
「はっちゃん先輩、驚かすとそんな顔するげな。あーかわい」
……なんて、乙女をときめかす台詞を言ってのけるのだ。――梅村洋平。あんたの、ペースになんか、巻き込まれたない……。
再び壁に寄り掛かると彼女は、きっ、と梅村洋平を睨みつける。「なんやね。マイクなら買い出しに行っておるよ。さっき行ったばっかやさけもすこしかかると思うわ」
「どーもご親切に」マイクの真似か。気取って礼をする梅村洋平。本日もリーゼントがキマっている。
「けどもな」と、梅村洋平は、葉月明日佳に近寄ると、
「――チェックメイト」
彼女の胸元を指す。
「おれが、用があるのは、あんたやで。はっちゃん先輩」
よくよく見ると綺麗な顔立ちをした少年だ。が、リーゼントがすべてを台無しにしている。古今東西、ヒロインの相手役にリーゼントの男が選ばれた少女漫画は、『天使なんかじゃない』、あの一作のみ。少年漫画ではむしろポピュラーな設定ではあるが。『幽☆遊☆白書』然り。『ろくでなしBLUES』然り。ペースに巻き込まれんと、気丈に声を張る葉月明日佳は、
「あたしな。こう見ても忙しいねて」
ぷっ。
と、梅村洋平が噴き出す。笑ったときに目尻に皺が寄るのがキュート……
(――ておおい!)
魅了されかけた自分を吹き飛ばすかのように、葉月明日佳は、「見ての通りやわ! 音楽室に入りきらんで廊下まで使うておる事態やね!」
音楽室内では、部員が交代でアンサンブルの演奏をしている。客席は、入退室自由、騒ぐ子どもウェルカム。音楽室に続く部室は開放しておむつ交換用のベッドやごみ箱まで完備している。だが、……
ちらり。と葉月明日佳は思う。
最前列で、毎年緑高の演奏会を楽しみにしているご老人には気の毒な事態かもしれない。
子どもが居ると全く音楽を聴きに行けない。
悲痛な、母の叫びに呼応したのが今回の催し、なのである……
そして、子どもたちにもっと吹奏楽に触れてもらいたい。
ということで、長机を音楽室の入り口付近や廊下に置き、その上に予備のマウスピースや楽器本体を用意。各楽器の担当者がついており、興味を持った子どもに吹き方を指導する。
お兄ちゃんお姉ちゃんのいる赤ちゃんも居れば、小学校高学年と思われるすらっとした子どもも、みんながみんな、きゃっきゃと楽器に触れている。
ぺたぺた。触れるもみじのような手を見て葉月明日佳は思う。――ああ、あとでクロスで磨かな……。と。
その日初めて楽器を持つ子でも吹けるような楽譜も用意した。チューリップ。ぞうさん。うみ。……
トランペットがダントツ。次点。
フルート。その次がホルン。
何故かクラリネットは人気が無く、葉月明日佳は、手持ち無沙汰である。……吹き方、が難しいのかもしれない。
ひとりぼっちで寂しそうなマッピを手に、思い切って葉月明日佳は提案する。「あんた吹いてみる? 暇やったら……」
と、ここで気づいた。
「……ひとり?」
「ん」と梅村洋平は頷く。
……
(たぶん)いつも一緒に居る、小太りで坊主の少年と、金髪でしかもパンチパーマの少年はどちらへ? ……不良って、いっつも、同じ仲間とつるんでおるもんやないの……?
「あーあいつらは」目で葉月明日佳の疑問を悟り、梅村洋平は、「三年一組猫カフェに入り浸りや。猫やのうて宮沢先輩に癒やされとる」
「……あんたは?」
にかっ。
と音が出るくらい、白い歯を見せて梅村洋平は笑い、
「おれ、どっちかっつーと大きさよかかたちを重視しとるもんで」
……
葉月明日佳は『理解』した。
「セクハラ」と言ってのけ、咄嗟に腕を組み、そのパーツを隠すようにする。「そんなとこ見とんねやねあんた。サイテー」
かはは。
と開けっぴろげた感じで笑うと、梅村洋平は、「男なら誰でも見とるて。女のパーツでいっちゃんさき見るんはそこやで」
「うっわー」
若干引きつつも、葉月明日佳は、梅村洋平のためにリードを湿らせ。慣れた手つきで装着する。「……はい」
ども。と頭を下げる梅村洋平。いちいち礼儀正しいんだなこの男。と思った葉月明日佳の耳に、……
ぴぃいーーー。
「ちょ。一発で出せるてなんやねあんた」たまらず苦笑いを漏らす。「吹き方なんかどこで教わったん?」
「ときどきマイク、廊下で練習しとるさけ」ぴぃー。ぴぃー。ぴー。……タンギングも上手いと来た。嫌味だなこの男。「見とればだいたい、分かりますよ」
試しにバレルを手渡すと自力で装着できると来た。――うわ。
眉間に皺を寄せるはっちゃん先輩を見て、梅村洋平は可笑しげに息をこぼした。「そんな顔せんでも――急にマイクほど上手くはなれんです」
「わ。分かっとるわいねっ」……
どんどんパーツを付け足して行って。結局、梅村洋平は、チューリップを、演奏できるところまで上達した。恐ろしい子。クラリネットに触ったのは今日が初めてだろうに……。
「しばらくしたら」と使用済みの楽器を受け取る葉月明日佳。「下唇の裏。下の歯で思いっきし噛んでおったとこ、痛なるかもしらんけど、別に病気やないさけ。心配せんでえーよ」
「よう分かりました」流石にベル装着まではきつかったのか。下唇を擦る梅村洋平を見て、自然、葉月明日佳の口許から笑みがこぼれる。――ん?
「言わんのですかあれ」
なにを?
と、目で葉月明日佳が問うと、「ほらあれ」と彼は笑う。――べ。別に。
『あんたのこと心配して言うておるわけやないからね』――
はっちゃん先輩の口癖。楽しげに。されど、大切な家族を思うかのように語る、玉城マイクを思い返してのことだった。
「言わんわいね!」大声を出す葉月明日佳を見てくつくつと梅村洋平が笑う。
「んとに。はっちゃん先輩て面白いげな……」
すると笑みを消した真顔で、はっちゃん先輩は、「心配せんでも、あいつはうまくやっとるわいね」
「うん?」
「――玉城マイク」と、はっちゃん先輩は補足を加える。「あんた。あいつんこと気になって、あたしんとこ、様子聞きに来たげろ……?」
「お見通しっちゅうわけですな」リーゼントに手をやる梅村洋平を見て、はっちゃん先輩は、
「――また。気が向いたら、いつでも、吹きに来ましね」分かっていた。
梅村洋平が、もうここに来ることは無いということを。彼は、『この道』を『選ばなかった』人間なのだ。最後にと、
「――ん」
手を差し出せば。「うん」
くいっと引き寄せられ、――頭をぽんぽん。
「また来るわ」
――明日佳。
なに!?
耳元に名前を囁かれたときには、彼はもう明日佳から離れていた。「なんやの! ほんとあんた、意味分から……」
ははは、と梅村洋平は明日佳を遮って手を振り、「んとにおもろいのな明日佳って。――また来るわ」
別に、来んでいいわいね。……! ……
廊下に明日佳の声が響いた頃にようやく、みんなのランチでいっぱいの袋を両手にぶら下げた玉城マイクが帰ってきた。「あり? ヨーヘイ?」
消えていく梅村洋平の後ろ姿。続いて、顔を真っ赤にして突っ立っているはっちゃん先輩を見て、
「――なぁに。はっちゃん先輩、熱、あるとですか……?」
彼女は口許を押さえ、
「……あるかもしらん」
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