#01-04 逃げるな!【SIDE:三島由里子】
荘厳。静謐。真っ暗闇のただなかに居るようであった。世界は、ひとびとのこころを照らす出す。生きるために必要な太陽が隠され――暗黒に、満ちている。
――ぴちゃん。
と、なにか滴り落ちる音がした。洞窟だ。辺りは暗く――なにも、見えない。
雷鳴のようなクラリネットの叫びが轟く。応答するティンパニ。この流れで一気に『彼女』は彼らの織りなす世界観に引きずり込まれた。
手の感覚が、無い。
寒くもないのに――震えを感じる。たかが、音楽で、こんな感覚を味わえるものなのか――?
おどろおどろしい空気が辺りに満ちて――いる。
『彼女』は素早く周りを見回した。みんな――おんなじ感覚に浸っている。それこそ頭っから水をぶっかけられたかのように。目を見ればそれは分かる。
言い知れぬ『焦燥』と『感動』を味わい始める彼女の耳に響く、不吉で、ダークで、陰鬱な旋律。淀んだ、光の、失われた世界を描く。アダージョ。――大栗裕作曲の、天岩戸神話に基づく吹奏楽のオリジナル曲。天照大神は、弟の須佐之男命が悪さを働いたため、怒って、天岩戸と呼ばれる洞窟に隠れてしまう。……
ミュートをつけたトランペットやコルネットが常世の長鳴鳥の鳴き声を奏でる。どんななにをしても天照大神様は出てきてくれない。――ならばと、天鈿女命が踊り出す。ボンゴとコンガが躍動する。曲調が一転。祭りのごとき激しい音楽が奏でられる。
あの世界観では神々はたくさんおり。踊っているうちに衣服のはだけてしまった天鈿女命をほかの神々が囃し立てる。狂乱。狂態。爆笑の渦が起こる――
そこから舞台は一転。
天照大神の内面が、洞察される。――彼女は、孤独で、強くて――力を、持て余していた。なんせ、彼女ひとり閉じこもったくらいで、食べ物が育たなくなったり。病気が蔓延したりと、与える被害のほどは甚大であった。
ひょっとしたら、誰にも理解されない悲しみを抱いているのかもしれない。この会場で、同じ『孤独』を知る人間が居るとしたら……、それは……
はっと息を呑んだ。
――『彼』の姿が、無い。
天照大神の焦りが『彼女』に乗り移ったかのようだった。確か彼は、後ろから見て客席左の最前列に座っていたはず。
クラリネットの奏でる高音のフレーズ。彼女の内面を揺らし、――どこに居るのわたしはどうしたらいいの。と問いを、投げかける。そんなものは。人生、誰しも立ち向かわなければならない問題――
そう『理解』した彼女の耳に、踊りの狂乱が届けられる。――なに?
わたしが居なくなって『世界』は困り果てているのに、どんな騒ぎだ。みんななにをしている……?
引き続き賑やかな踊り。曲のピークで奏でられるドラに続き、我よ我よとあらゆる楽器が咆哮する。トロンボーンの雄叫びに、ぶるりと『彼女』はからだを震わせた。――扉が、開いたのだ。
どんなに手を尽くしても開かなかった扉がいましがた、開けられた。
漏れる一条の光――。
世界は、救われた。手力男命が完全に扉を開いた。
世界は、明るく平和なものに戻る。ここで再び奏でられるキレのある冒頭のフレーズ。『祭り』は終わった……荘厳な日本神話のエンディングに相応しい、終わり方である。
『彼女』の目には、涙が滲んでいた。割れんばかりの拍手が、最高の演奏をした吹奏楽部員に注がれる。……ステージ上を見る限りは、フルメンバーといったところ。夏の大会を終えて引退したはずの三年生も、今日この日のために準備をしてきたのだろう。
(わたし、やっぱし……)
彼女は、改めて自分の胸の底に秘めた想いを確かめた。『聴けば』自分がどうなってしまうか、分かりきっていた。それでも、『知りたい』という欲求のほうが勝った。自分が、いま、向き合うとしたらどんな気持ちになるだろう……。
パイプ椅子に座る彼女は、膝頭のプリーツを握り。ただ、待った。おそらく彼らの演奏をすべて聴き終えた頃には、結論は出ているだろう……。
次の曲は、緑高吹奏楽部の持ち歌ならぬ持ち曲である。演奏会でもたびたび演奏される人気ナンバーだ。メロディが親しみやすいので吹奏楽を分からぬひとにも評判らしい。お年寄りなど。
彼女の知る限りでは。トロンボーン奏者五名のうち、同級生の児島清一郎だけが初心者だったはず。が。
パートは3rdだろう。手足が長く、しかも美形でいい感じに目立つ。
トロンボーンが主旋律を奏でるときは起立するので、より迫力が増す。……なんせ、たった五本のトロンボーンで『76本』を表現せねばならぬ世界観なのだ。部員の苦労が忍ばれる。起立した、五人は、躍動、している。いましかないこのときを、めいっぱい楽しむ――そんな情熱が、伝わった。
「えーたったいまお聴き頂きました曲は、『76本のトロンボーン』ですー。緑高の皆さんにはおなじみのナンバーです!」二曲目終了でようやくMC。前に出てきたのは、息を切らした、ちょっとふっくらした感じの、女の部長さんだ。「それでは、次の曲の準備がありますので、おすこしお待ちください」
途端、ステージ上は慌ただしくなる。1st2ndが入れ替われば席を立つ。このとき、楽譜を持って歩かないのは常識である。予め、互いに譜面を入れ替えておくのだ。
「お待たせしました」といっても、かかったのは数分程度か? 緑高吹奏楽部の実力に『彼女』は驚かされてしまう。「ラストは。みんなが大好きなナンバー。緑高吹奏楽部では初めて演奏します! ……では、スイートな『彼』の歌声に、酔いしれるべし!」
最後はウィンクをして、指揮者の台の隣から自分に割り当てられた席に戻る先輩。ユーフォ。地味ながらも吹奏楽を支える、不可欠な楽器だ。
『彼女』は部長のほうの動きに気を取られており、気づくのが『遅れた』。舞台袖から登場する少年に。
……!
会場がどよめいた。まさか『彼』が登場するだなんて誰も思わなかった。服装は、ラフな真っ白のTシャツにブルージーンズ。髪は、オールバック。輝かしいプラチナブロンドを後ろに撫で付けた凛々しい姿――に、会場の全女性が『持って行かれた』。
『きゃああ! 玉城くん! かっこいー!』……『マイたま』呼称は、この時点ではまだ吹奏楽部員以外に浸透していない。
明らかに、トレンディドラマ出演時の吉田栄作を意識した服装。『彼女』の予感が正しければこれは、……
歓声のなかを、無表情で突っ切って歩く美少年。
指揮者の横で立ち止まる。……さっき、部長が『美声』と言っていた。
隣に立つ指揮者が黒のタキシードで。色彩効果も、抜群だ。白と黒の青のコントラストが、美しい。
一瞬。
指揮者が顔を左に傾け、本日の主役と目を合わせると、『彼』はマイクに手をやり、睫毛を伏せた切なげな顔で、
――あいらー、びゅー……。
ずぎゅううううん!
会場のあちこちで、ハートが撃ち抜かれる音を聞いた。幻聴では無い。実際彼女自身もウッと胸を押さえた。これはあれだ。ほんとは駄目だがR18で読んだことがある。あいつ。玉城マイクは。
色魔獣……!
女を籠絡するためにやってきた地球外生命体。恐ろしいほどのフェロモンでそこらじゅうの女を骨抜きにする。
よりによって、尾崎豊の『I love you』と来たか。愛し合う男女が。狭い寒い室内でぬくもりを確かめ合う繊細な歌詞で……なんど聞いても胸がキュッと締め付けられる。セックスを彷彿させる描写がなかなかに刺激的な名曲。
それにしても。
と、彼女は『玉城マイク』を見やる。……入部して二週間と聞く。確か、村崎実咲に振られた次の日にその今彼に誘われたんだとか。そんな彼を、『気の毒』に思う人間が居るとしたら、……そっちのほうが気の毒だ。
だって。
壇上で、髪をきらめかせ、切なげに恋を歌い上げる玉城マイクの本質を、なにも理解していないことに他ならないのだから。
「おい! チリひとつ残らんようにせいや! 分かっとるげろ! バレー部とバスケ部の皆さんが使うんやからのう!」
体育館内に緊張が走る。すこしでも喋っている部員が居ればすかさず指揮台に乗ったままの佐藤恭吾先生から檄が飛ぶ。はよせい! おいそこ、くっちゃべっとんな! ……
観客席のパイプ椅子は既にオール撤去されている。一部の部員がご丁寧にもモップがけまでしている有り様だ。どうせすぐ使うんだから、掃除なんかしなくていいのに。……
――帰ればいいのに。
たったひとり。そんな吹奏楽部の様子を眺めている自分が居る。
「三島……さん?」ぽつねんと、残っている彼女の様子が気になったらしい。モップをかけながら玉城マイクが近寄ってくる。クラスは別で面識も無いはずだが……。「どしたん? 具合でも悪いん?」
具合というか。
「ちょっと、熱気に、当てられてもうて……」
さきほどの、ステージ上の玉城マイクを思い出すだけで赤面してしまう。妄執にとらわれる彼女は咳払いをし、
「すごかったわ。さっきの玉城くん……」と本音を告白する。「カラオケで尾崎聴いたことあるげけどあんときと比べもんにならんくらいの迫力やったわ。いつ練習したん?」
玉城マイクが、ちらと、後方のステージ上の佐藤先生を見やった。怒られないか気にしているのだ。
ならば。
自分に出来ることは、ただひとつ。
「吹奏楽部に、入りたい」
あの感動を。興奮を、『与えられる』側になりたい。自分は。
いましがた自分の想いを確かめた三島由里子は、こみあげるものを抑えられなかった。涙を流し、「ほんでも」と首を振り、
「万年3rdなんよ、わたし……」
え? とマイクが当惑の面持ち。吹奏楽初心者の彼は、『理解していない』。と、そこへ、二年生と思われる女の先輩が近づき、
「三島さん……やよね」ツインテールが可愛らしいその先輩は、目を眇め、「一中の『俗謡』、ほんとに凄かったわ。あんな演奏したんやったら、胸張りましね」
と、晴れがましい演奏をいましがた終えたばかりのその先輩は、涙の止まらない三島由里子の肩に手を添え、
「言っとくけど。うちの部は、定演では絶対パートバラけさすんよ。
五人で十二曲演奏すんねやったら1st四曲2nd四曲3rd四曲くらいの割り振りにせんねや。せやし、『万年3rd』なんて、起こりえんのよ。うちの部では……」
すると先輩は黙って二人のやり取りを見守るマイクに顔を向け、「ついでやからあんたにも説明しとく。……べ。別に。
あんたのため思うて言うんやないからね……」
唇を尖らせる様が愛らしく映ることに気づいていない、無自覚な美人さん。そんな美人な先輩は、「コンクールは経験値の差でな。自然。三年生が1st担当することが多いんよ……。やっぱ一年の差はでかいかんね」
と、唇に手を添え、「そんでも例外はある」と言い切る。
「一年でも上手ければ1stはあり得る。損得や引退の時期カンケーなしに。緑高吹奏楽部にとって、誰がどのパートをするんがベストか、考えたうえで、選択する」
オーディション制にした時期もあったらしいけどね。と肩を竦めると、「結局、みんなの総合評価――話しおうた結果とおんなじやから廃止されたらしいわ。
そんでな」
と、優しい感じの先輩は、三島由里子に目を向けると、
「3rdって大事やよ。
メロディ奏でてばっかの1stが美味しい思い出来んのは、3rdの支えがあってこそ、なんよ。
吹奏楽におけるチューバの役割とおんなじで」
「はい……」と三島由里子は頷いた。けど、彼女のなかで、まだ消化できないわだかまりが存在している。「でも。でも……。
惹かれる気持ちはあんねけど、怖いんです。わたし……。
おんなじパートの、ずっとずっと上手い子がおって。……合同練習んときに先輩、顔合わせたと思います。知っとるかもしれんです。
その子はずぅっと1stやっとったんです。ほんで、……
その子に『勝ちたく』て。
バンジャにバンピ読み漁って。口、痛なるまで吹いて。ほかの子がおうちでこたつでぬくぬくみかん食べとる時期に、凍えそうな教室んなかで何度も何度も同じフレーズを練習して。『聴く』と音色良くなるて聴いたモーツアルトのCD、毎朝、毎晩聴いて。
努力して努力して努力したつもりなんに、……最後まで、――勝てんかったんです。
わたしのしてきたことなんやろて」と、三島由里子は濡れた頬を拭い、「こんな田舎の中学校の。たったひとり。たったひとりの女の子に勝てんわたしに、いったいなにが出来るやろて。
ほんで。
その子を『憎む』自分がいやでいやでたまらんくて。……」そう。
あれは。生まれてはじめて味わった感情だった。
どす黒い嫉妬の渦。
あんなものにまた、巻き込まれるなんて。
誰のことも、嫌いになりたくなんか、ない。
なのに。
自分の才能のなさに嘆き。
光り輝く他人を――妬み。
そねみ。
「苦しむんが怖くて……」ひっく。と彼女は泣きじゃくりをあげ、「さっきの、先輩たちの演奏聴いて、またやりたい! って自分がおるんに。
嫉妬する醜い自分に向き合うんが、怖ぅて。……また比べて。
自分のが下やて分かって。苦しんで。その連鎖で……。
自分がどうにかなってしもうんやないかって……」
うう、と顔を覆う三島由里子を、母のような眼差しではっちゃん先輩は見守っていた。……分かる。分かりすぎる。けれど。それは、彼女が、自分で立ち向かわなければならない問題なのだ。
「『あなた』やったらいつでも歓迎よ」
由里子の肩が動く。「こころが『決まった』ら、いつでもいらっしゃい。……さ」
はっちゃん先輩はマイクの腕に手を添え、「行くわよ」と促す。
泣いている女の子をたった一人置いていくなんて。……
マイクの辞書には、そんな言葉なんか載っていない。
「――ゆりっぺ!」
体育館中に、玉城マイクの言葉が響き渡った。
驚きに三島由里子は顔をあげる。……ろくに喋ったことのない男子なのに、何故、ファーストネームまで把握している……?
いまだ涙に濡れる三島由里子をまっすぐ見据え、マイクは、
「――逃げるな!」
再び、絶叫。
唖然と見守る一同を尻目に、彼は、彼の論の展開を開始する。「――そんなん、誰かてあるわ。
おれかてセイチロのことが、羨ましくてたまらんわ。……あいつ。人望もあって、才能もあって……見た目もパーフェクトでこのド田舎で喋るのが標準語?」
はん。とマイクは鼻で笑い、「いまどきラノベでも出てこんくらいの超人設定やわ」
一歩。
マイクは三島由里子のほうへと踏み込むと、
「ゆりっぺが言うとるんのは。……なんかに夢中になったらなあ、絶対避けれん道やねん。どんな道に進んだかて。かんならず、自分よりも上手いひとがおる。……ほんで、比べてまう。それが、普通や」
おれの話をするとな。とマイクは三島由里子の目線を受け止めるといたずらな感じで笑い、
「こっちやとカナダ人。
向こうやとニッポンジンの自分感じてしもて……なんやろな。国民アイデンティティってゆうの? そーゆーのがブレッブレやねん。ほんでな、緑高入ったばっかんとき、右も左も分からんでまごついておったら、『……大丈夫か?』って声かけてくれる仲間が、おってん……」
腕組みをして見守るはっちゃん先輩は『理解』する。梅村洋平たちのことを言っているに違いない、と。
「あいつらがおらんかったら、おれの学園生活、まるきし違うたと思うわ」
マイクの声色の響く三島由里子の胸に、やさしい、感情が、流れ出す。そう、これは……
「ゆりっぺ」とうとう、マイクが膝に手を添えた中腰姿勢で、三島由里子の目を覗き込む。「あのなあ、おれ、入ってまだ二週間やけど。……吹奏楽。むっちゃ楽しいねん。いままでの吹奏楽の概念なんやったってくらい、衝撃受けておって……。
ひょっとしたら、ゆりっぺのおった一中とはまるきし違う練習方法かもしれんな?」
にか。
と、白い歯を見せる。――ふと。
はっちゃん先輩のほうを見やると、『当たり前よ』と目が語っていた。マイクは、前に戻ると、「ほやし。
――おいで」
かつて。ハーフということで孤独という寒さに震えていた少年は、手を伸ばす。――ひとのぬくもりを知りたいという少女に向かって。
人生は、選択の連続。
人間。もしあのときあれをしていたらと――あとから後悔にさいなまれる日も珍しくない。
だが。
三島由里子は、その道を選ばなかった。
胸のうちから湧いてくる、清流のような、素直な情熱に従い、……一件落着。と。思いきや。……ちょ。マイたまったら手ぇ早すぎ! なにそれ! もーあんた彼女出来たん! 違うわ今日初めて喋った女の子やで! ちょっといい加減手ぇ離しましね三島さんが困っておるがいね! ……
「ゆりっぺってのは」腹筋の鍛えられた人間に特有のよく通る声でマイクに話しかけるはっちゃん先輩。「『ゆりっぺ』ってのはどーゆー? 『みっちゃん』とか『ユリリン』とかじゃあ、駄目なん?」……
素朴な質問を投げかけるはっちゃん先輩に対し、けろりとマイクは、
「えーだって可愛いもん」
「……な」
――なにそれー!
一同大合唱。ちょっとたまマイ、あたしが可愛くないから苗字からもじったって言いたいが! あんたは! はっちゃん先輩動揺して呼称変わっとるがいね。……てかマイたまなして『おれ』呼称? しかも関西弁風味? よーしダークサイドマイクと命名しよう。ライフストリームに落ち込んでうああて彷徨う超展開。えーなにそれ。……
「おっっまえらあああッ!」ッを付けたがるのは某先生の特権だがここは話が別。「いっっつまで喋っとるんじゃああ! ケツひっぱたくぞお!」
ものすごい勢いで『恭ちゃん』先生がやって来て、事態は収束せざるを得なくなる。けれど――
もうバレー部員がネットを張っている。バスケ部員もボールを取りに行く様。……女の部長さんがみんなに手招きをすると、一斉に。素早く一同は一列に並び、――バレー部バスケ部の皆さん!
「体育館を使わせて頂いてありがとうございました!」
顔をあげたときに、恭ちゃん先生が笑いかけてくれた。ニヒルな感じのいい笑みだ。由里子の目線に気づくと先生は、「――おいおまえ。
本気で鍛えてやるからな。ついてこいよ」
答えるゆりっぺの声音は溌剌としたものだった。
「――はい!」
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