#01-02 おんなじかもしれん【SIDE:夕向京歌】
夕向京歌にとって、『音楽』とは文字通り、『音を楽しむ』ものであった。
それが間違いだと知ったのは、緑川高校吹奏楽部に入部して間もなくのことである。――
ぴぃいいーっ。……
場所は空き部屋の多い三年生の校舎の二階。放課後ゆえ勉強する三年生も多いがそこは譲り合い。音楽室が同じ棟にあるゆえこちら側の事情を優先させて貰っている。
玉城マイクは、はっちゃん先輩に誘われてすぐに音楽室に来た。一二年生とは別棟の、三階にある、吹奏楽部の実質的な部室だ。音楽室に続く専用の部室には吹奏楽部の楽器や楽譜が棚いっぱいに詰め込んである。
そして、マイクは緑高吹奏楽部の『独自』の練習方法を見学し、――手すきの部員がガイド役を務め。各楽器のマウスピースを用意し、それぞれマイクに吹いてもらった。マイク自身は、カナダでトランペットを吹いたことがあり、ただしその腕前は褒められたものではなく――本人も苦い思い出があるらしく。気分を変えて木管楽器を吹いてみたいと志願した。
サックスは、笑ってしまうほどに音が出なかった。空気音、のみ……。下唇を内側に折り込み、言うなれば縦笛の上の部分みたいなかたちのマウスピースを口に入れる、その行動原理はクラリネットとまるで同じはずなのだが。
ところが、クラリネットは――気持ちいいくらいに伸びやかな音が出た。即決。全員が同じジャッジを下した。
そして現在、一年生でマイクのクラスメイトであり、クラリネットを受け持つ京歌が、マイクの面倒を見ている。初日からいろいろ詰め込むのも大変だし、雰囲気に慣れてもらうことを重視した。
といっても、リードという、葦を長方形に整えた板を口に含み、唾で湿らすことに先ずマイクは驚いたし(彼自身驚愕したというわけではないが、明らかに驚いた顔をしていた)。え。これみんな共有するもん……なんですよねと。
リードは、部費で購入している。なかには何年使っているのか分からないものも。先を行く諸先輩方の唾液が染み込みまくった財産だ。なお、マウスピース、通称マッピは基本、自腹。他にも買い揃えるものがあるので、明日の放課後にでもマイクと買い物に行こうと思っている。
部費で購入したたくさんのリードから、それぞれがマッピに装着し、気に入ったものだけを取っておく。そうだリードケースも必要だ。と、プラスチックケースに入れられただけのリードを三枚揃えたマイクを見て京歌は思う。
「そうそ。いいねいいね」
基礎練習とは、基本、地味なものだ。――吹奏楽はステージ上では華やかに見える世界だが、『あれ』を生み出すためにどれほどの努力を積み重ねているのか。
地道で、地味な、反復。同じ練習の――繰り返し。
ともすれば退屈や誘惑に負けそうな自分と、誰もが戦っている。
金管楽器は、割りと、ある程度マッピさえ慣れてしまえば、すぐに楽器本体を装着することが多い。それに対し、クラリネットは、マッピの直下には、バレルという、樽に似たかたちをしたパーツ。キイのついた上管。下管。そしてベル。五つもの部位から構成されており。ベル部分を装着するまでには、かなりの肺活量が必要となり、必然、最初はマッピのみから始め、クラリネット独自の呼吸法及び音色を出すことに慣れ、すこしずつすこしずつパーツを増やしていき、最後にようやくベルを装着できるのである。そういった練習法が一般的だ。ベル装着まで一週間かかることも珍しくない。
しかしながら、こちらのクラリネットパートの部屋では、――ツインテで茶髪でツンツンしたはっちゃん先輩。爆乳でものすごい恥ずかしがり屋さんの深キョー先輩。二人の奏でる色とりどりの音色が満杯の室内にて、甲高いマッピの音は、まるきし浮いている。
が。
そんな状況を目に留めぬくらいにマイクは必死だ。食らいつこうと、あがいている。
たかが、マッピ。
されど、マッピ。――基礎をないがしろにする人間には、永久に、ゆずの歌い上げる栄光の架橋など掴めない。それは絶対だ。
「……ちょっと、休憩しよか」周りを見回し声を発するのははっちゃん先輩。「マイクにこの部のこと説明する時間作って、ほんで、あとからみんなで交流する時間作ろか」
「あれですよね先輩」と、理解した京歌は腰を浮かす。「部室にありますよね。取ってきます」
「うん。お願い」京歌はひとりで行くつもりだったのだが……、
「ぼくも行きます」
え? と京歌は戸惑うのだが、視線を受け止めてマイクは柔和な笑みを見せる。「ぼくのためになんかしてくれようとしとるんでしょ。やったら、ぼくも行くんが筋やない?」
正直、欧米人には偏見を抱いていた。女を口説き落とすことばっかり考えている、フランクな遊び人ばかりなのではないかと。自分の偏見を改めた京歌は、「ずっと吹いとると口、痛なりんね」とマイクのためにも休憩が必要だと判断した。「ほんなら、一緒に行こ」
「……玉城くんがカナダでやっておった吹奏楽って、どんなもんやったん?」
経験者と聞いた。カナダの吹奏楽と日本のそれには違いがあるのか。そのことに興味が湧いた。「んー」とマイクは階段をのぼりながら頭を掻き、
「『MUSIC』って授業があってな。授業タイトルは『音楽』のくせして、やっとることはもろ吹奏楽」マイクは一息吐くと、「ほんでも、こっちみたくきちーんとオーガナイズなんかされておらんよ? ピッチも音色もめっちゃめちゃ。みぃんな好き勝手にぶぅぶぅ吹いておった。そんだけやった。先生も直す気ぃなかったみたいやなあ」
まーそれでもぼくがやったんは半年足らずやったけど。と、過去を思い返すマイクの声を聞き、京歌はぽつり。
「……おんなじかもしれん」
京歌の通った槍水中学校の吹奏楽部は。弱小部で。大会に出てもいつも銅賞。良くて銀だった。――楽しむこと。それも確かに大切なことなのだが……
するとマイクから質問。「夕向さんも中学んとき吹奏楽しておったん?」
「『ゆうりん』でええよ」と京歌は踊り場の手すりに手をかけて笑う。なんだか……、友達のヨーヘイくんたちと一緒のときだけゆうりんゆうりん言っているくせに。本人を目の前にすると言えなくなるマイクが可愛かった。「あたしもマイクくんて呼ぶさけ。……あでも」
マイクと並んで階段をのぼりながら京歌は、「玉城くんだけあだ名にせんのも変やなあ……。マイク。たままい。マイたま。……うん!」
彼女のこころは決まったらしい。満面の笑みで振り返る京歌は、
「あたし、玉城くんのこと、『マイたま』って呼びたい!」
それでええ? と訊かれるも、……NOという選択肢は無いのだろう。
マイクは、頷いた。きゃー、と叫ぶ、ゆうりんこと京歌。なんか……
(あったかい部活やなあ……吹奏楽部って)
突然入部を決めたマイクをアットホームに出迎えてくれる同級生そして先輩。『浮いている』自分を捨て去ることの出来ないマイクだが、それでも、みんなの、……情の深さがマイクのからだのすみずみにまで行き渡った。
「――いい? 緑川市の人口は約三万人。二十一世紀になったら二万人になるとも言われておる……。
大学はおろか、マックもモスも小洒落たレストランも映画館もショッピングモールもない。
完全、観光客が落とすお金に頼り切った……、観光都市、なんよ。過疎化のごっつ進んだ」
壇上で教師のごとく語るはっちゃん先輩。現時点では黒板を使わないようだ。マイクは先頭で着席して聞く。京歌たちとは別室。この説明、三十分ほど要する内容で、毎年毎年後輩部員に引き継がれているそうだ。
「人間の寿命は……、平均で八十六歳。緑川で生まれ、緑川で死んでいくひとも仰山おる。この、エンタメに飢えた緑川において、『音楽』の持つ意味は、相当……、重いの。
それこそ、沈んでいく船のうえで演奏を続けたタイタニックの演奏家みたいにね。
定演のときにアンケート取るんよ。八十過ぎたおじいちゃんおばあちゃんからも受け取ることが多いんよ。毎年楽しみにしとります。来年も生きていく勇気が湧きました」
ここではっちゃん先輩は、マイクに、矛先を向ける。「あんた……小学中学時代はカナダで過ごしておって。それまでは日本におったん? 日本語ペラペラやし」
壇上のはっちゃん先輩に目を合わせ、マイクは、「町田、ちゅうところにおりました。あっちはそんな方言すごかなかったですね。ほぼ標準語」
隣室の音楽が、止んだ。
続いて、足音。どうやらふたりとも、新入部員の様子が気になるものらしい……。マイクは同じクラリネットパートの二人が両脇に着席するのを見届けると、ひとつ頷き、
「うちの事情のことを話しておいたほうが良さそうですね」
――うちは、ちょっと変わった家庭で。
日本に興味があって日本語猛勉強したおかんが、カナダの銀行の日本支社に勤めておって、そこで、おとんと出会ったんです。
うちの親父、仕事しとるよりも家事やっておるほうが向いておるみたいで、おかんが出世コースに乗ってからは、仕事辞めて主夫になりました。ほんで、おかんに向こうの支店で勤務できるってチャンスが到来して……本店のトロントやのうてオンタリオ州やったんですけど、ぼくがおるからどうしよか? てなってんけど、結局、ぼくのためにも二つの国の文化に触れておくんはプラスになるんやないかと。グランパとグランマ――ぼくのおかんの両親がトロント……車で二時間くらいのところにおったもんで。ほんで。
ぼくは向こうの小学校中学校に行ったんです。――が。
将来どうするってなったときに。――なんかぼく、カナダで働く自分がイメージ出来んかったんです。なんかこう、向こうの自由奔放な教育システムも合わんかったんかもしれんですね。向こうやと授業は全部選択制で、受けたい授業だけ受けるもんですから……嫌いなもんは一切やらんで、視野が狭うなっとる気がして。――日本やと、そーゆーことせんで。担任っつう先生がおってがっつり面倒見てくれる――そのシステムが、どんなもんか確かめとうなる自分がおりました。
それに、おかん、銀行の仕事しながら、ウェブ開発の仕事もしておったんですよ。最初は趣味でしたが。うち、おとんが緑川出身なもんで。おかんが、隣接する海野緑川とかの紹介をHPでするようになったら結構評判で。そのうち、旅館や漆芸屋さんから、HP作って欲しいって依頼も来るようになって――。
ぼくのもう一人のグランマ――ばーちゃんは夫を亡くしてから十年ひとりで住んでおって。向こうからゆわれたわけはないですけど、おかん自身そろそろ同居したいって思っとったみたいですね。ほやし。おかんは、ウェブのほうを専門にしてぼくを緑川の高校に通わせる――それを望んでおったんです。
ぼく自身、大賛成でした。ぼくね、『ハブアナイスウィークエンド』って言われるんが、まじ嫌いで。友達そんな出来なかったんですよ。でも特に、セカンダリースクール時代は、毎週末、知り合い程度の人間に対しても会うたび会うたびそれゆわれるんで、まっじで……苦痛でした。
週末なんて遊ぶ相手おらんし、おかんは仕事。親父はハウスキーパーしとるんに、……自分だけでなにしろと。そやのに、いい週末送れってゆー……悪気は無いんでしょうけど、そうせなならん概念を押し付けるその考え方に、ぼくは、抵抗を持ったんです。……ひょっとしたらぼく、日本人気質なんかもしれませんね。
玉城マイクの話は興味深く。クラリネットパートの全員が集中して聞いていた。
マイクから、向こうでの『MUSIC』なる授業がどんなものかを聞き終えたはっちゃん先輩は、
「全然違う。――うちの部は、協調性と主体性。周囲への感謝の気持ち。そういうのを、大事にしとんのよ」
京歌が部室から持ってきた『あれ』はまだ使わないようだ。彼女は着席したまま、壇上に立つ先輩の弁に聞き入る。
「……吹奏楽に対するアプローチは様々やわ」と、引き続き壇上からマイクへと目をくれるはっちゃん先輩。「きっちーんとピッチ合わせた、統制の取れた演奏をする学校。
それぞれが、ものすごい頑張れば自然と『揃う』と考える学校。
どっちも『あり』やねんけど……」
と、窓の外に目を向けるはっちゃん先輩。ツインテの艷やかな髪が揺れる。一二年生の校舎では、放課後という余暇を談笑に費やす生徒の姿もちらほら。――自分たちは。『違う道』にマイクを巻き込もうとしている。入部を決断したならば『覚悟』が必要だと、はっちゃん先輩は自分を戒める。
「うちの、部活は、『過渡期』」
と、内情を明かす。
「ダブル指揮者体制なんよ。三年前に、ずぅっと吹奏楽の指揮を受け持っておった先生が別の学校に異動になって。そっから。音楽の先生も声楽専門なもんで。英語教師の新島先生が指導しておったんよ」専門外やのに吹奏楽のこと猛勉強して。と付け足す。新島の顔ならマイクも知っている。東京の一流大学を出たエリート教師で、長身ですらっとした先生だ。
「今年の四月に恭ちゃん先生が赴任して――ガラリ。練習法が変わったんよ。
新島先生が指揮することもあるけどま、基本、うちらの面倒をメインで見ておるんは恭ちゃん先生」
マイクは思い返す。向こうではロングトーンなんてしない。パート練習もない。個人練習をぽつぽつ。時間が限られているのでいきなり合奏。
ところがだ。
緑高吹奏楽部は、『ソルフェージュ』を重視している。
ソルフェージュとは、楽譜を読むことを中心とした基礎練習のことである。
例えば、楽譜を見て(演奏をせずに)ドレミでいきなり歌い出すこと。聴いた音楽をドレミ変換すること――なんかも、含まれる。
応用として、実際の曲に出てくる和音なんかも長音で吹いてみる。長三和音(ドミソの和音)ならばミの音程を低めに、といった単純な話ではなく。ピッチが狂っていると和音が『うねる』。……それを耳で聴いて腹筋を使い呼吸で自分の音程をコントロールすること。
そういったことも、大事な基礎練のひとつである。
「いっきなりラジオ体操なんかするから驚いたかもしらんけど……」ちょっと笑うはっちゃん先輩。マイクの当惑した顔を思い返しているのだろう。「あれも大事。演奏前にからだほぐしとくこともなあ。ほんで、緑高では。歌合奏や、声でのロングトーンを、実際に楽器で演奏する前に必ず行う。理由は、――音を取れるようになるんが大事やから」
ぴん。と指を立て、「そっから耳を鍛え上げるのもなあ」と、マイクに目を向けると、
「初心者含めて入部して三ヶ月で夏の大事なコンクール迎えっしみぃんなめっちゃ必死で聴覚鍛え上げるんよ。あんたは五ヶ月も遅れとるから、先ずは、同級生に追いつかんとなあ。気張れや」
「はい」力強くマイクは頷く。この先輩についていけば。いままでと違う何かが得られる。そのことを、確信したからだ。
「……結論ゆうと」とはっちゃん先輩は目を細め、「全員が、毎日が本番やと思って力いっぱい練習すること。かつ、みぃんな揃った『音』を出すこと。
それを、重視しとるんよ。あのなあ」
話を元に戻すとな。と先輩は前置きを入れ、「人間の時間は限られておる。誰しも、必ず、死ぬ。ましてや音楽は、生きていくうえで、絶対摂取せなならんもんとも違う。――けどもな」
ここで、後ろの黒板に目をやる。京歌は、その動きだけで『見抜いた』。あるものを持って壇上へと向かう。
「緑川のおじーちゃんおばあちゃんとかが、どれだけ、うちらの演奏を楽しみにしておるか。
うちらみたいなガキンチョを学校に通わせるために、おとんにおかんがどれだけ頑張ってくれておるか。
そーゆー状況に、『感謝』の気持ちを持てんと、いっくら演奏が上手くても『駄目』やわいね。……深みのある音、奏でられんのよ。独りよがりなもんになってまう。やさけ」
ここで、京歌は『貼り終えた』。
黒板いっぱいに広がる――緑高吹奏楽部の一年間の行事予定。
「いままで育ててくれたひとたちに感謝を込めて、めいっぱい、そのひとたちのこころを揺さぶる――演奏を、するんよ。それが、緑高吹奏楽部の、使命」
マイクは、京歌の貼り出してくれた年間行事表を見た。
春夏秋冬。……二三ヶ月に一回は、なにかしらのイベントがあるという計算だ。
「ひとのこころを揺さぶるにはどうすればええか?」目を見張り、年間行事表を凝視するマイクを見やり、先輩は、「――努力や。一二三四努力。五六も努力。とにかく、練習が必要。自分だけうまくなるんやのうて。みぃんなで、きっちーんと音程の揃った、かつ、強弱をつけた、コントロールの取れた演奏をせなならん。努力が足りんと、ひとのこころには届かんのよ……」
ちょっと悲しげに言うはっちゃん先輩の顔を見てマイクは思い出した。
――『物足りない』と思った原因は、これだ。
全員が好き勝手に演奏し。合わせることも一切ない、下手っぴなバンド。決してそれ自体が悪いということでは無いが。しかし。
「『オナニープレイ』やったもんなあ、ぼくらの演奏……」
ぽつり。
青少年には刺激的な単語をチョイスしたマイクに、ぐわっとみんなの視線が集まる。「……ああぼく。前の学校のことを思い出しただけです。他意はありません……」
「そんで」と、はっちゃん先輩が段を降りてマイクに近寄る。「どーする? 引き返すんならいまのうちやけど。因みにうちの部活。スポ根のくせして、どーゆーわけか、私大進学志望が多いんよ。
国公立目指すんならちょっつきついかもしらん。夏に大会があるし、勝ち進めば十月まで。……三月には定演があるさけ」
「ぼく、私大一本なつもりなんで、問題無いっす」と、頭に手をやるマイク。「英語だけ飛び抜けてよくって、理系がからきし駄目なんで、国公立って選択肢は無いんす。親も了承済み、っす……」
ここでマイクは立ち上がり、改めて先輩に礼をした。
「――よろしくお願いします」
「マイたま。ビシバシしごいたるわー」
そう言って思い切って京歌がマイクをハグしてみると。――ハグなんて慣れっこのはずのマイクが顔を赤くして、
「……お手柔らかに頼んます」
その場にいる全員がどっと笑い、京歌は、思った。ああこれでマイたまも、志を持つ、立派な吹奏楽部の一員になれたのだと、そう感じていた。
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