#03-03 自由【SIDE:児島清一郎】
「――なあ。洋平」
呼ばれたときに、ちょうどマヨネーズパンをばくついているところだった。「なんよ?」ともごもご梅村洋平が答えると、既にランチを終えていたらしい。児島清一郎は、眼鏡越しの視線を譲らぬまま、
「――惚れた女とセックスするってどんな感じだ? ……やはり、最高か?」
あまりにストレートで、刺激的な質問に。隣の黄サルが鼻から牛乳を噴いた。
「TPOってもんを考えれや、おっまえ」
すまん、と隣の美少年は詫びるものの。きっと、こころから悪いだなんて思っちゃいない。……こいつは。マイクと違って。異様に、飲み込みが早いくせに、変に、空気を読めないところがあるのだ。
窓枠にかけた手に顎を預けると、洋平は流し目をくれ、「……んな質問したら、村崎さんがバージンやてみんなにバレるやないか。ええんか? それで」
細い、指先が動く。
窓枠の線をなぞり、「……そのほうがいいと思っている。少なくとも、マイクにとっては、な」
その一言で洋平は『理解』した。
「……おまえ。『それ』でいいんか……ほんまに」洋平の言葉は震えた。身を起こす彼に対し、努めて冷静に、児島清一郎は、
「――これが、考えられるうちで、ベストの選択だ」
……と、結論付ける。
ひとが決めたことなら仕方がない。
梅村洋平は、基本、他人に干渉しない主義なのだが。それは、あくまで、『他人』の場合において限定だ。
――セイチロは、『他人』なんかじゃ、ない。
一瞬、からだをわななかせた彼だが、瞬時にそれを落ち着かせ。元通りのポーズに戻ると、ぽつり。
「……不憫だな。おっまえ、蒔田一臣かよ」……蒔田とは、今年の三月に、緑高を卒業したばかりの先輩だ。洋平は、別に面識は無いが、……ひとの口を介して彼の情報を得ている。……彼は、『親友』と同じ女を想い。……親友に『譲り』。親友と最愛の女が結ばれたのを見届けると、自分の想いを押し殺し、大学進学のために、彼女と一緒に上京し、彼女のその後を見届ける……いまどきの昼ドラでもびっくりの女々しい展開だ。
悲劇のヒーローなのだが、本人は至って『満足』しているらしい。……目の前の清一郎にも、同じ感情が流れていると、いいのだが……。
気遣わしげな目線をよこすと、「そんな顔をするな」とセイチロは手を振る。「もう、『決めた』んだ。そのほうが、みんなにとっていいんだから……まああいつらが。
おれのことを差し置いて好き好き言うタイプには思えないが……でも、この、蛇の生殺し状態よりかマシだ」
目の前の麗しい少年は語る。悲壮な決意を固めたにも関わらず、「いいんだよこれで」と胸を張る。
清一郎と並んで、中庭で、呑気に談笑する男女を見やり、洋平は、
「……いつ。言うつもりなが」
「『今日』。部活が早めに終わるみたいだからな。一緒に帰るつもりだ」
「セイチロは。それで、後悔せんがか?」……それは、ダメ押しの一言だった。だが、清一郎は、動じない。「……実咲に無理に気持ちを抑え込ませるこの現状を維持するほうが、将来、おれは後悔する。絶対に」このフレーズを聞いて理解する。
本人、無自覚だが……それはもう、『恋』なのだと。……願わくば、そんな彼の想いを汲み取って、最後に、彼女が彼を選んでくれたらいいのだが……みんな、ドラマにはハッピーエンドを期待する。根拠。現実があまりにむごたらしいものだから。
話は終わりと言いたげに。清一郎が目を向ける。……みんなが、一所懸命に努力しているあの場所に。「さあ。教室に戻ろう。歌合奏がおれたちを待っている」
「おうよ」肩に手を添え、ぐるんぐるんと回してからいざ行かん。「今日もビシバシ行くぜ」
はは、と恭ちゃん先生の口真似を聞いた清一郎が笑みをこぼした。「クオリティたけえ」
洋平は、黙って清一郎の紺色のブレザーに包まれた背中を見つつ、彼に従う。
マイクに絡んできたときは、本気で頭に来た。ぶっ殺してやろうかと思った。他人にあんな殺意を抱いたのは生まれて初めてのことだった。
……が。
関わってみれば――特に、同じ二年一組に進級してからは、休み時間も一緒に過ごし、親友と言えるくらいに仲良くなった。交流を通じて、洋平は。清一郎が、常に、『悪意』を持たずして他人に接していることが分かった……。
仮に、清一郎が、誰かを傷つける発言をしているとしたら、それは、『無自覚』のゆえ。……他人のことを、自分に置き換えるのが苦手な男なのである。彼は、他人にどう噂されたとて、『ぶれない』し、『傷つかない』とまでは言わないが、どちらかといえば面の皮が厚いタイプの人間だ。
思いやりは、むしろ、あるほうだ。
猜疑心を、持たない。
洋平は、いま、清一郎から聞いた話をマイクに話そうか迷ったのだが……『彼』に任せよう。そう決めて、「なにごともなかったかのように、輪に加わるのだった。「おーい。廊下で聞いておったけど危機感足りねーぞ。特にゆうりん」
「え!? わたし!?」
「……そ」ヨーヘイはゆうりんの楽譜を覗き込み、「なんか、気になることあんねやったらはっきりさせておくほうがええで。のちのちのために」……洋平はふと思う。仮に、みんなのマイたまが、想い人の村崎実咲と結ばれたら、どう思うことだろう……?
人間関係は、常に、複雑だ。複雑に絡まるみんなの心情を追い、誰にとっても幸せな道を模索する。青春時代などは特にその作業に没頭しがちだ。だが。
全員がパーフェクトに幸せになれる道など、存在しないのである。――必ずや、誰かが、涙を飲んでいる……さきほどの蒔田先輩然り。セイチロ然り。
ゆうりんにとっても、これから、出来るだけ不幸な展開は勘弁やで、運命の女神さんよお。……と。
遠い、白い雲のかかった空を見やり。洋平はもはや常備品となったストップウォッチを手に、開始の合図をした。「……始めっぞ」
「別れよう。おれたち……」
吹奏楽部の帰りは遅い。が。本日、六時半にあがれるというので、村崎実咲は玄関で待っていた。そこからは、いつも、手つなぎコースなのだが、それをしなかったことが、彼女に、悪い予感を抱かせた。
足を止めた彼を実咲は振り返る。「……なして」
自分でも驚くほどに、顔が強張っているのが分かる。真冬の極寒の寒さにいるみたいに。
徐々に顔を起こす実咲と目を合わせ、清一郎は、切なげに瞳を揺らし、
「……『分かる』だろ?」
――実咲の、胸中。
みんなのマイたまとはクラスが別になってしまったが……一年のときの、急ごしらえの演奏会で美声をお披露目したこと。体育祭学祭の準備に走り回った姿。吹奏楽部に入ってから、受験生も驚きの猛練習を開始したこと。
らー。らー。らー。……と。
勇気凛りん三人娘と、廊下で発声練習している姿は、親に従う雛鳥みたいで――愛らしかった。この一連の感情を、胸に仕舞い込んでおけるほど――実咲は、不器用ではない。
事実、揺れている。……中学時代、あれほど惚れ込んだ存在と。目の前で、宝石のようにかがやく存在……。
「ごめん、なさい……」静かに、実咲は、涙を流した。それで清一郎は悟る。帰宅時間関係なしに、二人きりで帰るのは、これが最後だろう、と……。「わたし。ほんとは。ほんとは……」
「決めていいんだよ、実咲が。おまえは、もう――自由だ」
フランス革命で暴動を起こした民が、喉から手が出るほど欲したもの。
尊厳の獲得、及び、ほとばしる自由。発言の自由。誰の顔色も気にせずに、自分らしい主張を堂々と行えること――。
実咲は、清一郎が『与えて』くれたものを、胸に、抱きしめた。……宝物のような、感情だった。彼が実咲に無関心であったら、間違いなく、こんな行動は、出来ない。――与えられた愛が、いつか、誰かの胸に息づいていく……。
吹奏楽部部員は、音楽以前に、最初にそのことを叩き込まれるそうだ。思いやりの伝播。誰のおかげで自分は滞りなく生活を送れており。裏で誰が努力しているから――
自分たちが、安心して演奏しているのか……。
吹奏楽は、高校デビューと聞くが。緑高吹奏楽部スピリッツは、確実に、彼のなかで生きているようだ……。
立ちすくむ実咲に、清一郎は一歩近づき、頭を――撫でた。最後だから。
(どんな言葉で、彼女を送り出すのが、『正しい』だろうか――)
滅多に笑わない清一郎だが。ここ一番。あかるい笑顔を作った。――なあ。
「自分の思うままに行動しろよ。残りの高校生活は、もう、二年を切った。……あいつは、部活動で忙しい。おれと同じでな。だが……惚れた女の想いを受け止めるくらいの余裕は、持っているさ」
ここで。
「すまなかった」
と、清一郎が頭を下げた。――何故。
目で実咲の疑問を読み取った清一郎は、
「……おれがあのタイミングで告白しなかったら、結果は、全然違ったろうに……おまえたちは。大手を振って、大通りを闊歩出来ただろうに……」いや。
手は繋いでだろうな。――と。
言い足したのがなんとも清一郎らしくて、こんな場面にも関わらず、実咲の口許は緩んでしまった。「――せいくん。ううん」
清一郎、くん……。
呼称はすなわち、呼び手が相手にどんな感情を抱いているのか。関係性の象徴である。『彼女』の立場から道を譲った実咲は、
「これからも、友達として、仲良うしてくれると、嬉しい……」
握り返される手は。熱っぽくて、大きかった。実咲は、最後だからと、
「……キス。して……?」
上目遣いで懇願する。受ける――男の、なまあたたかくて、かさついた感触。それは、二人が、恋人同士で居られた期間の幸せや重みを、改めて感じさせるものだった……。
もう、二人きりで帰るのは、最後。
涙を拭うと、吹っ切れた。後悔なんか――していない。初恋のひとに。告白されたこと……。それから、プラチナのあのひとに、恋い焦がれたこと……。
実咲の家の前まで送ると。珍しくも清一郎が切迫した表情で。……なあ。
「最後に、抱きしめても、かまわないか」
断る理由など、どこにも、見つからなかった。「……わたし」
彼の、たくましい精神と肉体を感じながら、この場にふさわしい言葉を実咲は探す。「……短いあいだだったけれど。せいくんの彼女で居られてほんとに……幸せだった」――分かっている。
どうして、彼が、この道を、選択するのか。――愛する女を、解き放つため――。仮に、実咲が、清一郎の与えてくれた自由を味わい、羽ばたくそのときが、ずっとずっと先のことであっても――ううん。
そんな自由が訪れなくとも。彼女は――幸せだった。
最後は笑顔で手を振った。「じゃあね。清一郎くん。また学校で会ったら、絡んでな」
「おうよ」ハイタッチを交わすと、「……マイクは、休み時間でも吹奏楽トークばかりしているが。一組には必ず居るから。たまには顔を出せ」
そうするかは未定だったが。「分かった」と、実咲は答えた。
かしゃん。
門扉を通り、鍵をかけると、……薄闇に紛れていく、かつて、愛した男の姿……。『自由』を与えるために、自ら身を引いた、潔い男の姿。……
涙なしではもう、見れなかった。門扉に手をかけ、崩れ落ち、口許を押さえ、実咲は、泣いた。……嗚咽なんか漏らして。彼に『負担』なんかかけられない。……彼は、『与えて』くれた側なのだ。『罪悪』など、感じさせてはいけない。
実咲の唇には、あの男の与えてくれた、甘い、感触が残っていた。……だが。
いま、実咲の脳を支配するのは……
はにかむような笑顔。きらめくその髪。照れて目を伏せたときの長いまつげ。手足がやたら長くて、自己評価が低くて……でも頑張りやで。
あの『彼』の姿を除いて、ほかに、無いのである。
すると、頭のなかから別の声が聞こえる。
――しっかりしろ。実咲。
こんなところでヒロインぶってなんか居たら。新たな道を指し示してくれた清一郎くんに、『失礼』じゃない?
清一郎の姿が見えなくなると、実咲は立ち上がり、自分を鼓舞するべく、頬を叩いた。――よし。
『伝える』のなんか、ずっとずっと先でも。もしかしたら『伝えず』じまいで、卒業を終えてしまっても……。どんなかたちであっても。わたしは、彼を、『支える』側に、回りたい。……それは、例えば、愛する葉月明日佳に、梅村洋平が示した献身。それは例えば、かつて惚れた女を『解放』してくれたあの『彼』のように。……それでも。
玄関のドアを開くときには、明日の数IIの宿題で当てられる問題のほうへと……気が回っていた。
翌朝、各自、朝練を始める前に。――児島清一郎は、音楽室に隣接する狭めの部室に入ると。玉城マイクを手招きで招き入れた。
「――おれな。昨日。実咲と、別れた」
――どんな反応をするだろう。
喜び? それとも……
「セイチロ……大丈夫なんか?」下から清一郎の顔を覗き込み、こころから心配しているといった目を向ける、マイクに心底驚かされてしまった。――おいおい。惚れた女がフリーになったんだぞ。喜べよ。このお人好しが――。
一切の声を、言語化はせず、「平気さ」と清一郎は首を振る。「……おれな。実咲への感情は、恋、というよりは、友情に近かった。……だからこの状態で。彼女と付き合い続けることは、彼女に対して、失礼だと、……!?」
なんと。
マイクに、真正面から、抱きつかれていた。「ちょ。待て……」あまり『動じない』タイプの清一郎だが、流石にこれには慌てた。「おれには、男に抱きつかれる趣味なんか無いぞ」
清一郎の胸に顔を埋めたまま、マイクは首を振る。……泣いて、いるのか? ……?
「セイチロ。嘘ついても駄目や。……セイチロは、おれに、遠慮して道、引いてんろ……?」
清一郎は、マイクの純粋な言葉を受けて、内心で頭をかかえた。……やっぱ。こうなってしまう。どいつもこいつも。てめえのことで精一杯ってのに。他人の心配ばかりしやがって。たく。ちったあ、てめーが幸せにあることを、考えろよ……。
この時点で、児島清一郎は、自己矛盾に気づいていない。真に村崎を愛しているからこそ、彼は、マイクに、実咲を、譲った。「……おれなあ」
涙声のマイクが、清一郎のポロシャツに顔を埋めたまま言葉を発す。「村崎さんのことが気にならんくらい……部活に集中しておるんやで? 前は。家におるときは、ずぅっとずぅっと村崎さんでいっぱいやったがに……いまはさっぱりや。やのに。
んな男に、惚れた女譲るてセイチロおまえ……アホか」
「アホかもしれんな」と、清一郎はマイクの肩を抱いた。「そうだな。せっかくフリーになったんだから、おれとおまえでBL物語の開幕なんてどうだ? ……そこら中の女子が喜ぶぞ?」
「びーえるて、なに」
純粋無垢なマイクに、清一郎は敢えて過激な表現を用いた。「男が男の穴に抽挿してあんあんよがらせる驚愕の展開」『掘る』って表現使うんだってな、あれ。
ど。ひえー!
頭を抱え込むマイクに、「……女子には割りと人気のジャンルらしいぞ? 現実で妄想するやつが居るかどうか知らんが……例えば蔵馬が『受け』で飛影が『攻め』ってのが、定番ジャンルらしい……コミケだと」
コスプレでコミケに向かうのが趣味の姉から、どん引きしつつも得た情報を、お披露目すると、清一郎は、艶っぽく笑い、マイクの、顎先に手をかけ……たところで、部員その一登場。
薔薇の舞う、ビーエル世界を見せつけられ、……「お邪魔しました!」
出ていった様を見ても、余裕の清一郎。肩を落とす、……マイク。
この後の展開は、決まっていた。……
彼女を振った児島清一郎は、実は男色の趣味があった。……相手は玉城マイク。
学校トップツーの美青年同士のまさかの色恋沙汰に、すくなくとも、緑川は、泣いた。……反応は、泣く女子が八割。残りの二割は、えー! 面白そう。
……の一言で片付けられる。この噂に、もっとも翻弄されたのが……
村崎実咲だ。
清一郎は、あとでちゃんとフォローを入れておいた。おれもマイクも、そっちの趣味は、無い。……彼に貸したその手の雑誌まで見せつけて弁明するのは流石に……恥ずかしさを伴った。
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