#02-06 道【SIDE:吉原里香】
「『上手くなれる方法』だあぁ? ……なこたてめえで考えろ」
恭ちゃん先生のファーストインプレッションは『最悪』だった。去年の四月、吉原里香が高校三年生に進級した年に赴任してきた音楽教師。
顎下の長髪。ワイルドな風貌。
公立高校の教師のくせして、ノータイで、第三ボタンまで解禁。――誰がおまえの胸元なんか見るものか。
とはいえ。
恭ちゃん先生は、吹奏楽部員のみならずみんなに慕われている。厳しい教え方もするけれど、基本は面倒見が良く。冒頭の里香の発言についても、「おれはチューバだから専門外だ」とか言いつつも、地元の吹奏楽団でフルートをしている女性を連れてきたり。当時の吹奏楽部に勤しむ人間になら必須のバンドジャーナルにバンドピープルを読み漁り、指南してくれた。
――なんだ。結局、教えてくれんじゃん。
それなら、何故突き放すようなことを言うのだろう……『彼』自身、迷っているからだ。
生徒が自分で答えを出せるようにしなければ意味がない。だが。その一方で、時間は、あまりに限られている。
真夏のコンクールが本番。それまでに、たった三ヶ月以内に、入部したての一年生含めて『音』を作り込まなければならないのだ。ゆえに、恭ちゃん先生は、積極的に指導をした。みんなを引っ張っていった。――おいおまえら。おれにおんぶに抱っこだと育たねえからな。てめえで考えろよ。
部員は、必死だった。なんせ恭ちゃん先生の指導が一年目だ。彼は、過去に、別の学校の吹奏楽部の指導をしたことがあるとはいえ、……お互いにどんな人間だか、腹を割って話し合う時間すら無いのだ。――彼らは、『音』を通して、対話をした。恭ちゃん曰く、『合奏をすれば、機嫌が悪いかどうかすぐ分かる』――そうな。
そんな恭ちゃん先生の姿をこの場所から拝めるのは、今日が最後。
緑川高校吹奏楽部定期演奏会のアンコール曲の最後は、いつもこの曲。『思い出がいっぱい』。――実際。
吹奏楽以外の思い出なんか作る暇もないくらい、勉強と部活とで瞬く間に三年間が過ぎていった。
他の子のように。緑川のメインストリートでアイスを買い食いなんか、したこともない。テスト期間だけは部活が無いからその隙にこっそり。思えば、都倉真咲を、彼女が転校して早々に連れ出したことなんかもあった。
いま、吉原里香の胸のうちには、すべての思い出が凝縮され、鮮明に、蘇る。――
きつかった、厳しかった練習。
音楽に挑む道の険しさ。……それでも。
この三年間は、大きな財産だった。
いくらお金をかけても手に入れられないものを彼女は手に入れた。
仲間。かけがえのない音楽への愛情。周囲への感謝。……
思い出と共に、彼女は音を紡ぎ出す。この曲は、ほとんどすべての楽器に見せ所があり。ああコジのトランペット……深キョーのクラ。泣ける。が。
ここは、『舞台』。
『演じきる』義務があるのだ……。
ゆえに、里香は、音の世界に集中し。極限まで、自分の感覚を磨き上げ、いま出来うる最大限の音を作り出すよう、努力した。……胸のうちにあふれる、思い出たちとともに。
恭ちゃん先生の動きが止まる。万雷の拍手。幕が――降りる。
と。
どこからともなく沸き起こる泣き声。せんぱーいぃいい……! わああああ! ううう! ……
幕の降りたステージ上は、号泣の嵐。さよならなんてやだよおおお! 緑高吹部にずっと居たいよおおお! ……
まだお客さんも、完全には帰っていないだろうに。――が。
『プロ意識が足らん』と、責める気にはなれなかった。彼らは、みんな、一心同体でステージを作りあげた仲間だ。だが。
今日この瞬間から、残酷なほどに『道』が別れる。……緑川市には大学がないゆえ、国公立の畑中大学に行くとなると、車で三時間。とても通える距離ではなく、一人暮らしをみんな始める。
それから、北陸圏内以外だと、関西方面への進学も多い。続いて東京。
勿論、地元に残って就職する人間も居る。緑高生のなかでは少数派だが……。
本日、三月十三日。既に卒業式は済ませてはいるが、演奏が終わるまでは緑高生……。
指揮台のうえに立ったまま。佐藤恭吾は一同の様子をしばし見守り。
泣き叫びがすこしずつ落ち着き始めたタイミングを見計らい、声を、発した。――おい。おまえら。
「おれたちは、この緑川市文化会館という場所を借りて演奏させて頂いている。
……辛いのは、分かるが、出てってからにしような。おれたちは、ダッシュで後片付けを済ませて。きっちーんと客席のごみまで拾って。そっから、ぴっかぴかにして借りた皆さんにこの場をお返しするんだ。……分かるよな?」
はい! といまだ頬を濡らした部員全員が顔をあげて返事をする。恭ちゃん先生はその様子に満足げな笑みを浮かべると、やや腰を低くし、……
「悪いんですが。今日ご出演のOBOGそれから緑川吹奏楽団の皆さんも、撤収のご協力を頂けると、大変、助かります」
と、頭を下げた。
「ああーん里香せんぱーい!」
吹奏楽部部員は、ハケるのが遅い。
裏口からトラックに楽器を搬出し、徒歩圏内の現在真っ暗な緑川高校校舎の近くに移動しても。そこからなかなかみんな帰ろうとしないのだ。ましてや――このメンバーが揃うのは、今日で最後と来た。
三年生のほとんどが、間もなく緑川を発つ……。
後輩にひしと抱きしめられ、背中に手を回しながら、「ありがとね」と吉原里香は鼻をすすった。その目に、銀髪が映り込む。夜闇に随分と映える。迷子になんかなっても一発で見つかりそうだ。――彼女は、『彼』にも、挨拶をした。……パートも学年も違うゆえ、あまり話したことはないが、同じ吹奏楽に邁進した、大切な仲間だ。
彼女は、握手を求めた。「マイたま。緑高吹奏楽部を、よろしくなあ」
なかなかにプレッシャーのかかる発言だったと思うが。
少年は、受けて立つぞ、というような、強気な顔を見せ、
「里香ちん先輩こそ。立命館、……でしたっけ? 今度教えてくださいよ。どーやったら受かるんか」
その言葉を受けて吉原里香はちょっと笑った。「マイたまやったら、二科目入試にすりゃええやん。英語出来んねから、私大に絞ればどこやって入れるわ」
「ぼくなにげに……」と、銀髪に手をやる少年。「長文は行けるんですが、発音記号の問題。あれで蹴躓くんです……」
「古墳とおんなじやわ」ふん、と里香は鼻を鳴らす。「記憶あるのみ」
「ですかぁー……」はーっ、と項垂れる少年。
と、そこへ。
「里香先輩!」「明日から先輩おらん部活どーしたらいいんですか」「せんぱーい!」
……クラリネット四人娘が登場。
違うパートなのだから、そこはそこでなんとかしてもらうほか無いのだが、思いのほか、全員、エモーショナルになっている。里香とて気持ちを抑えられない。
先輩としては、苦言を呈せなければならない。
「来年のアンコンは、奥能登で金取りなね」
「代表取らせます!」と、真っ先に挙手した葉月明日佳は後輩を振り返り、「なあ。今年はクラリネット部員が結構増えたから、一年三人入れて、八重奏とか行ってみたくない?」
部員に笑いかけると、『序奏とロンド』とかいいねー……四四に別れて『クローバー・ファンタジー』……
みんな、未来への希望に満ち溢れている。
吉原里香だって、それは、同じだ。……里香の入学する大学には吹奏楽部がある。事前に調べ、それ含めて大学の候補にした。野球やアメフトの応援も熱心にしているらしく、……思い切って金管楽器に転向してみようか。そんな野望も膨らむ。フルートでは、虹の音を出せる、柴村稜子という、絶対的な存在には、叶わなかった……。
自分の努力が無駄だったとまでは言わない。プロとアマとの違いだ。だが。
頑張ったことへの財産は、これから先、自分の人生を、いつまでも輝かせてくれるであろう……。
そのことを知るみんなは。電車組の終電ぎりぎりまで、限られた時間を。いつまでも。恭ちゃん先生がおまえらまじでそろそろ引けー! 親御さんが心配すっぞ! と絶叫して止めるところまで続いた。
帰宅する吉原里香の胸のうちは、ほんのり、冬の寒さを残す春の風を感じながらも、それでもあたたかかった。
限られた人生。命。
燃やし尽くすことに――意味があるのだと。それが分かっただけでも、収穫だ。きっとこれからの人生、想像したこともないような、辛いことが、待ち受けている。
けれども、里香は、『武器』を得た。どんなことがあっても。努力して立ち向かい、最後まで戦い抜く――その術を知ったから。
いまの、彼女は、なにも怖くない。
帰宅すると、玄関のドアを開くなり、母がやって来た。「里ー香。遅かったなあ。ごめんなあ、演奏聴きに行けんで。……三年間、お疲れさま」
あたたかな室内に迎えられ、抱きしめられると、里香は、母の胸で涙した。
お母さんありがとう……と。
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