#01-01 300日間の宝石
モテ期というものが人生誰しも一度は訪れると聞くが、あの頃がそれに該当するのかもしれない。
でも当時は、青春という、定められた、先の見えない暗がりを進むプロセスのさなかを、もがいて、あがいて、苦しんで。でも、……楽しくて。
思えば、生涯、みんなで、あんなにも純粋な気持ちでひとつのことに打ち込めたのは、あのいっときだけだったのかもしれない。
限られた時間を、ぼくらは、持てる力のすべてを『あのこと』だけに注ぎ込み、テストと大晦日と元旦以外の300日間フル稼働で没頭した。
それは、ひょっとしたら誰しも経験する一般的な過程であり、ひょっとしたら、限られた人間のみが味わえる秘薬でもある。
だから、振り返ろうと思う。
二度と戻らない、あのときを――。
とはいえ。
『きっかけ』は、『苦い』ものであった。
『……ごめんなさい。わたし、……つきおうとるひとおるんよ』
それらの言葉は、一生涯忘れられないかたちで、玉城マイクの胸に刻み込まれた。
さらさらと揺れるセミロングヘア。憂い気な瞳。ほんのりと紅潮とした頬。……ああこのひとは、ひとを振るときにも、こんなにも美しい表情を見せるのかと、どこか他人事のようにマイクは感じ取っていた。そして彼は同時に理解していた。
この辺境、緑川という土地で、こういった行動がどういう余波をもたらすのかについても。
前日の夕方に振られたてのゆえ、いまだ映像は生々しい。生徒玄関で靴を履き替えた辺りからびしばし視線を感じた。覚悟はしていたものの、なんとも形容し難い感覚に襲われる。昨日は祝日だったが体育祭の後片付けがあったゆえ登校。かったるいなー。簡素な校内からには本来そんな空気が蔓延しているはずが、ひとびとの目に好奇が入り交ざって感じられるのは気のせいではない。断じて。
重たい気持ちのまま、一年一組の教室の、ドアが開きっぱなしの入り口から入ると、
「よっ! おめでとさんマイク!」
教室に踏み込んだ途端これだ。万雷の拍手で迎えられるマイクの胸中は複雑そのものだ。
窓際でいつもたむろっている仲間たちのもとへと向かう彼にあからさまな視線が降り注ぐ。何故か彼の通る道の両脇から拍手が起こり。視覚と聴覚を刺激され。割りと、辛い。いや、かなり。
めでたいことなど何一つとて無い。
クラスメイトが作ってくれた、『昨日振られたばっかのかわいそなやつ』に割り当てられた花道を進む道中、マイクは顔から火を噴くかと思った。
「んだよーしけたツラしよって」近づくマイクを小突くのは越知和彦。通称オッチャン。小柄だが眼鏡と巨体が目につく坊主の少年だ。「元気だせぃや。なんも、女は村崎さんだけやないげし」
「そやそや」合いの手を入れるのは金髪が目に眩しい岸まさる。通称、黄サル。「なーな。帰りどっか寄ってかんか? カラオケでも行くか? せぇっかくマイク振られたんやし」
「めでたないやろ……」黄サルに頭を撫でられたまま一同に恨めしげな目線をマイクはよこす。「ったくもー。ぼく、昨日振られたばっかなんやで? 大丈夫? とかあったかい言葉かけてくれるやつおらんがか」
「うじうじしとったってしゃーないやんけ」
「そやそや」と再びオッチャンに同意する黄サル。「マイクやったら、その気になればその辺の女子誰でも付き合えるて」
「無茶ゆうな……」と、クラスメイトの視線が他に向き出すのを確かめると、声を潜め、「……てか村崎さん。彼氏出来たん、みんな知っておったか?」
「知らね」ここで初めて声を発するのが梅村洋平。通称ヨーヘイ。クラス一の美少女の恋愛動向に興味が無いと来た。がっつりリーゼントでキメており、見た目通りの不良だ。彼は、永迂光愚蓮会という、不良集団に所属している。実を言うと黄サル、オッチャンの三人共が。
マイクは、この緑川――日本海に突き出た能登半島の先端にある田舎町――に、元々住んでいたわけではなかった。母親の仕事の都合で一時外国に住んでおり。マイクの高校進学、それに父方の祖母の世話をする目的もあって帰国したかたちだ。マイクたちが通う、この緑川高校――通称・緑高――は、入学者の六割が緑川市在住の人間。玉城家は元々祖母の住んでいた一戸建てを改築して住んでおり、ゆえに、ヨーヘイたちとは馴染みがなかった。だが。同じクラスになり、ヨーヘイとオッチャンと黄サルとつるむ仲間に何故か……入れられ。いつもマイクはいじられる側だ。
いじられるのはそれほど好きでは無い。だが、ヨーヘイたちの態度にはどこかしら『愛』が感じられる。よって、マイクはそれをよしとして受け止めた。
それに、ヨーヘイたちと出会えていなければ、ひとりぼっちだったかもしれない。
――自分は、みんなとは違う。それが理由で。
ヨーヘイたちが居なければ、あいつ振られたんだぜーと闇のスポットライトを浴びつつ、ひそひそと噂の種になる……。そんなのは、まっぴらごめんだ。だったらいっそ、美少女に告白して果敢に玉砕した勇気を称える拍手で迎えられるほうがマシ……、というものだ。
いつものように、オッチャンと黄サルがマイクをいじりだす。おめ、また髪染めた? 地毛やわ! カラコン? 地目やわいね! てか地目ってなんやね。聞いたこたぁ無いわ。……
この三人の談笑を、穏やかな目で見守るのがヨーヘイの役割化……、
していたのだが。
先ず、黄サルが、寸時、険しい視線を投げた。
次に、教室の入口方向に背を向けていたはずのオッチャンがからだの向きを変えた。小太りの彼だがこういうときの動作は機敏だ。
そして、入り口から悠然とやってくる存在に、ヨーヘイは笑いかける。「よう、児島くん。てかこう言い換えたほうがええか?」
余裕たっぷりに、こちらへやってくる児島を見つめ返し、
「村崎さんの、……彼氏さん」
……!
マイクの背筋に衝撃が走る。……よりによって。昨日マイクが告白した相手である村崎さんの彼氏では無いか。別のクラスゆえ、児島とは面識は無い。だが、美少年と、聞いている。
振り返るマイクの目に映るのは――確かに。同性のマイクでも正直に、見惚れるくらいの美貌だ。やや長めに切り揃えられた前髪。シャープにカットされたサイドの髪。憂い気な漆黒の瞳に、長い睫――。
口を開けたまま、凝視するマイクをさておき、
「おまえが用あるん、誰?」
「聞くまでもないことを」高身長の美青年はヨーヘイを一瞥すると軽く小首を傾げ、「きみだよ。玉城くん」
「――ぼ。ぼく……?」
「そ」
呆気に取られるマイクだが。でも児島という少年は、おれの女になに告ってやがると怒鳴りにきた雰囲気でもなさそうだ。なんとなく、彼からは理性と知性が感じられる。
しかし、マイクとて昨日『振られた』ばかりだ。当事者でありマイクのクラスメイトの村崎さんはまだ教室に来ていない(だからこそのあの拍手だったのだと思うが)。傷が生々しいゆえ、触れずに頂きたい……、のだが。
児島の黒い瞳を見てマイクは悟る。
(『違う』……、ようやな)
ふっ、と目を眇め、マイクは自ら問いかける。「それで? きみがぼくに聞きたいのは、村崎さんとのこと? ……ご安心ください」と、マイクはここで気取ってお辞儀をし、
「ぼくは、綺麗さっぱり、村崎さんのことを諦めるとするよ。なんせ、付き合いたてホヤホヤの彼氏が居るんだからね。ひとの恋路を邪魔する趣味なんか無いよ。……ぼくは、こう見えても平和的思考の持ち主なのさ」
「おめー真面目な話すっときだけ標準語なるよな」
と、外部者たる黄サルの突っ込み。うるさい、と目配せをするとマイクは、
「だから、安心して。……ぼくは、児島くんたちの、邪魔を、しない」
「きみは帰宅部だと聞いているが」
……うん?
思わぬ質問に、マイクは肩透かしを食らう。てっきり、村崎さん絡みのことで、なにか言われると思ったのに……。
目でマイクの疑問を読み取り、児島は「違うよ」と笑って否定する。「……実咲から、きみが帰宅部だと聞いており。かつ、きみは歌が美味いと絶賛していた。あの実咲がだ。そこでぼくは提案をする。
――吹奏楽部に、入らないか?」
振られた男と今彼。この二人がバチバチやり合うのではないかと全員が固唾を飲んで見守る教室中、児島の声は、大きく響いた。――は?
真っ先に反応したのは、マイクだ。「それ……、言うためだけに、わざわざ、朝っぱらからこの教室……」
「善は急げと言うだろう」と、しれっとした顔でこちらをガン見する一同を見回し、「それに」と付け加える。
「なんだ?」と凄むのはヨーヘイ。なんとなく、……展開が読める。マイクはポジション取りを意識した。それでも、児島の勢いは、止まらない。
「なにか他に打ち込めるものが必要だと思ってな」
続く言葉は――言葉にはならなかった。
「きゃあっ!」女子生徒の悲鳴。クリーンヒット。
あっちゃあ……。
と、見事に右ストレートを食らった児島は、床に背中から倒れた。慌ててマイクは駆け寄り、児島を抱き起こすと、「ちょ! やり過ぎやで!」
『スイッチ』が入ってしまったらしい。拳を振るったヨーヘイの顔面は蒼白。怯えている意味ではなく――いまにも誰でも殺しそうな顔をしている。ばき、ぼき。ケンシロウみたく拳を鳴らす様が怖い。
マイクは唾を飛ばして叫ぶ。「おまえら! 落ち着きーや!」
同じくヨーヘイの友達であるオッチャンや黄サルのどちらかが止めてくれればいいものの。ふたりとも、こういうときはヤンキーの血が騒ぐものらしい。
……おれらのマイクを。
こけに、しやがって……!
ずんずん児島に接近する有り様だ。マイクは上体を起こして座る児島から離れると素早く立ち上がり、両手を広げ、更なる暴行をくれようとするオッチャンと黄サルに通せんぼをする。「まじで! やめいや! 児島くん殴ったかて誰も幸せになれんて! ぼくは嬉しない!」
ざ。ざ。ざーっ。……
お相撲取りが負けるときってこんなだろうか。二人同時に抱きしめているのに、マイクの足は、ずるずると背後の児島のほうへと押し込まれる。マイクは顔を歪めた。万事休す。児島に新たな拳が降りかかる、そう思われたとき――
「ちょっ……! なにこれ、どしたん!?」
噂の彼女登場。迷わず、殴られた頬を押さえ座り込む彼氏の元へとダッシュ。……するさまが、マイクの目には切なく映った。
村崎は、教室前方で繰り広げられるシェークスピアのごとき寸劇に、異常事態を感じたらしい。クラスメイトを見回し、「ねえみんないったいなにがあったん!?」と問うが、答える者は誰一人とて居ない。
そしてマイクに気づいた。「玉城くん……」
あはは、と意識してマイクは頭の後ろに手をやり、声を立てた。「なんもないげん。ただな。ぼくちょいと児島くんに吹奏楽部に誘われて……、そんだけの話やね。気にせんといて」このときにはマイクは気づいていた。背後から殺気が消え去っていることに。『彼女』の登場に、毒気を抜かれたのだろう。
「とにかく。行こ……保健室」気遣わしげに、立ち上がる児島の背に手を添える村崎。「ごめんなぁ。玉城くん。せいくんが変なことゆうたせいで……」
――せいくん。
ファーストネームで呼び合う関係性が、マイクの胸を切りつけた。
だがマイクはその痛みを押し隠し、「ええんよ」と笑った。――が。続いて。凄みのある声音がマイクの背骨を刺す。
「おいてめえ。次。マイクに変なこと言うたらただじゃあおかねえぞ……」
こんなに怒るヨーヘイの声音を初めて聞く。見れば。ヨーヘイから、青い炎が立ち上っているように思えた。
ちゃっかり彼女の手を繋いだ児島は、振り仰ぐと口許だけで笑い、
「――おれは、諦めないよ」
児島と村崎と入れ違いで担任教師が入ってきて。騒ぎは収束せざるを得なくなった。「おーどーしたその顔」「ちょっと弟とやりあって……」「絆創膏でも張っときなー」「先生ちょっとわたし付き添いで行ってきます」「おうよ」担任との呑気な会話が繰り出されるうちに、マイクたちは素早く席に戻る。騒ぎを傍観していたクラスメイトたちも同様。なかには、隣のクラスからやってきたらしく、走って自分のクラスに戻る生徒も居た。……野次馬とは、そういうものだ。逃げ足が速い。
HRが終わると、マイクは迷わず一年三組の教室に向かった。児島のクラスだ。HRのあいだに保健室で手当を済ませていたらしい。
児島は、マイクを見ても超然とした顔を崩さず、だが。
「ちょっと廊下で話そうか。三分くらい」
一限目開始までの貴重な時間を、問題の解消に割り当てることに決めた。
「……実咲に、叱られてしまったよ。昨日今日でそんなデリカシーの無いことする!? って……」
痛むのか。
でかい絆創膏を貼られた部分を擦っているさまに、マイクの胸に同情心のようなものが湧き上がりかけるが、振られたての虚しき自分がそれを押し込めんとする。……惨めだ。
二人は、窓側を向いて肩を並べて話している。背後から、ヨーヘイたちの殺気が感じられるが……、流石にまた殴ったりなどしないだろう。一旦収束した炎を再び燃やすのは難しい。
とはいえ。
以後の会話は聞かれている可能性が高いゆえ、当たり障りのないものにすべきである。
よって、マイクは、質問を選択する。「児島くんが、このタイミングでぼくを吹奏楽部に誘ってくれたんは、なしてなん?」
「清一郎でいいよ」と児島。「おれも、マイクと呼ぶよ」と柔らかな笑みを頬に乗せる。スポーツマンシップ。『ライバル』にそんなものを見せつけられては、マイクは……、複雑な気持ちになる。
「あのさ」と窓枠に手を添えると緑豊かな中庭を見つめ、「おれは、中学のときは水泳部に所属していたんだ。ほら緑高って、プールが無いだろう? で。取り敢えずで吹奏楽部に入って。ほら。入学式のときの演奏、凄かったからさ……」
マイクは記憶している。校歌だったと思う。随分とクオリティの高い演奏をする集団が居るものだと感心したものだった。
マイクの目で同意を読み取り、「だから入ろうと思ったんだ」と児島は口許をほころばせる。
「すごく……、練習はきついけど、面白いから。でも」一転。ここで言葉を詰まらせ、「本当は、勝ち上がれば、十月の大会に出られたのに。おれたちは負けた。来年は……勝ちたい」
その言葉には、重みが感じられた。清一郎は真摯に音楽と向き合っている。そのことが伝わった。
「だから、おれは、出来るだけ多くのひとに、吹奏楽の良さを知って欲しいと思っていてね……。いまからでも入部は歓迎だ。帰宅部のひとで、もし興味のあるひとが居れば、是非入って欲しい。居れば居るほど助かるんだ。コンクールで、そのことがよく分かったよ……」
マイクに横顔を見せていた児島だが、ここで彼はマイクと向き合い、
「……済まなかった」
と、頭を下げた。「え?」と当惑するマイク。
「ぼくは夢中になると、なにも見えなくなってしまうところがあってね。自覚が足りないんだが空気の読めない人間なんだ。……悪気は無かった。どうか、許して欲しい。
きみは、実咲と夏休みじゅう、一緒に過ごしていたんだろう?
そして体育祭が終わったから、暇になるだろうかと思って。
で、せっかく有能な人材が居るんだから、きみのためにも、なにか夢中になれるものがあるといいなと……そう思ってね。
おれは部活や東工の招待演奏で忙しくて、最近あまり、実咲と喋る時間が取れなかったんだが……昨日だったかな。
帰りに、呼び出されてたと聞いて、……彼女は、そのときは、きみを『振った』ことは言わなかった。だから。きみには、本当に、済まないことをしたと思っている……」
頭を下げる児島の姿からは誠実さが感じられた。背後の殺気が消え去るのも伝わった。
「いいよ」とマイクが児島の肩に手を添えると、「いいのかっ!?」と顔を起こし目を剥く児島。
「なら早速! 部長に報告だ! ああどうしよう! いったい何の楽器を担当してもらおうか! フルート! ああいやクラリネットか? きみは見た目が華やかだからトランペットか……間のとり方からしてホルン辺りやらせて見ても面白いかもしれない!」
「いや違う謝罪されたことに対してのリプライ」……なんだか、可笑しく思えるほどの興奮っぷりだった。たまらずマイクは鼻から息を噴く。第一印象はクールな美少年そのものだったのに、音楽のこととなるとこうもひとが変わるのか。吹奏楽のもたらす魔力の片鱗を見せつけられたかたちだ。案の定、
「……そうか」と、村崎さんの彼氏は肩を落とす。
そのあまりにも悄然とした姿が気の毒で、
「けど考えてみっわ。前向きに」
「是非是非是非! 前向きにご検討ください! いつでも歓迎ですよ!」緑川市長選挙に立候補したんですかってお尋ねしたくなるかのにぎにぎ。痛い。何故丁寧語。なんかこの男、冷淡冷酷な印象なのに、本当に、吹奏楽が絡むとひとが変わる……。
ここで、素朴な疑問が頭をもたげる。
(吹奏楽って、んな面白いもんなんか……?)
児島に別れを告げ、手のひらに彼のぬくもりの残るうちに、自分の教室に戻る。ひょっこり顔を出して見守っていた親友たちには、「大丈夫やて。そんな心配せんでも」
「……けどおまえ」
「なんやこの超展開。好きな子に振られた次の日にその今彼からブラバンに誘われるて展開」
「……悪いやつじゃ、ねーみてえだな」
最後に言葉を発したのはヨーヘイ。下げた右の拳を見つめつつ、「……次の休み時間、移動教室やないよな三組。おれ、謝りに行くわ」
「おお」マイクはヨーヘイと肩を組む。……ヨーヘイたちの、こういうところが、大好きなのである。仲間思いで、熱くって……。
ヨーヘイを見守りたい気持ちは山々だが(オッチャンと黄サルはそうするだろうが)。自分には次の休み時間、行きたいところがある。
「……なあ。聞いてもええ? 吹奏楽部ってどんな部活なん?」
こないだラジオで聴いたK大のベルキスがどうのと話し合っていた女子三人組は、マイクが声をかけるとピタリと動きを止めた。
そして――振り返る。とかっ、と目を見開き、
「なになになに! やっぱ玉城くんうちの部入る気なん!」
「歓迎やわいね。なにげにちょー嬉しい」
「なあな! なんの楽器希望しとりん? 玉城くんやったらやっぱフルートとか似合うと思うわ! それか、リアルセルゲイ・ナカリャコフ目指してトランペットとか!」
きゃあああ! と身悶えする三人娘……。マイクたちは、こちらの三人娘を、『勇気凛りん三人娘』と呼んでいる。三人の名前の一部を取ったものだ。無論この呼び名は愛と勇気と元気を与えるあの国民的アニメに由来するが、別段彼女たちが例のパンに似ているというわけではない。ごく普通の愛らしい女子高生だ。三人が三人共吹奏楽部に所属しており、休み時間ごとに、なにかしらの音楽ネタで盛り上がっている。――吹奏楽部の様子を聞くには適任の人材だ。
マイクは見てくれが良いのだが、それを自覚しておらず――ひとびとのこうした反応を全部全部好意的に受け止めることが出来ない。どちらかといえば『差別』されるというふうに感じており、よって頭を掻き、戸惑うのが常だ。
すっかり盛り上がっている三人組の会話に、マイクは遠慮がちに割って入る。「あのさあ……ぼく、別に決めたわけやないげけど。けど、部活がどんな様子か知りたくて……ぼく」ここでマイクは、三人の注目が自分に集まるのを確かめたうえで、
「大学進学するつもりで、受験勉強もせなならんし、進学考えとんねやったらブラバンて厳しい?
……なんか、児島くんから、十月に大会があるて聞いたさけ……」
「ちょっともー玉城くん」と、ここで、おさげの『りんりん』こと、皆代凛が頬を膨らませる。「ブラバンと吹奏楽部の違いも知らんのやけ?」
……違う。「てなにが?」言いながらマイクは思い返す。ユアン・マクレガー主演の映画『ブラス!』なら見たことがある。イギリスの炭鉱町を舞台に、バンドが大会での優勝を目指して一丸となる胸の熱くなる話――だったが。確かに、木管楽器は見当たらなかったような……。
すると『ゆうりん』こと夕向京歌が補足を加える。「ブラスバンドは、あくまで金管楽器とパーカッションで編成されたバンドで。吹奏楽部は木管楽器も入りんよ。それからコントラバスや場合によってはエレキギターもね。……まったく」ふう、と息を吐くと眼鏡の縁に触れ、「いまだに吹部がブラバンて呼ばれるんは、わたしたちの営業努力が足りんりんろうねえ……」
「そやねー」と二人も同意。……
この娘たち三人はみな、槍水という、緑川からちょっと離れた場所の出身である。緑川の方言が語尾に『げん』や『ねん』をつけるのに対し、彼女たちは『りん』を使う。「りんりん」言うさまが微笑ましくてヨーヘイが命名した。彼女たちも了承済み。『足りんりん』と言われるとなんだか頭のなかでりんりんハンドベルが鳴り出すマイクである。
「そして本題」ぱん、と手を合わせるのは京歌という美しい名前を持つ『ゆうりん』。三人娘のなかで場を仕切る役割を担っている様子だ。「大学受験との両立は、……可能。勿論、大変やけど。他の帰宅部みたく四六時中勉強なんて出来んわいね。けど、時間絞って集中して勉強することは可能やろ? ――うち」
眼鏡越しの目を、窓の外に向け、
「自主的に朝練もしとりんし、練習は、大会前やったら夜の八時までかかってしまうこともありん。せやけど」
ふっ、とマイクに視線を注ぐと、
「うちの部活やて、難関大学目指しとる先輩いっぱいおりんよ。
不可能なんてこたない。絶対」
語尾に、いままでにない力が込められる。両脇の二人も、うんうんと頷いている。「……それにな」
どうやら、京歌にまとめさせる流れのようだ。マイクがそれには抗わず、相槌を打つと、
「こころを、育てるのが、大事」
とん、と自分の胸を拳で軽く打つ。
マイクは、思わず釘付けになってしまった。薄手のポロシャツ越しの、魅力的で柔らかな女が隠し持つ膨らみに。「……へ?」
されど、邪な目線に気づかず、京歌は、至極真面目な顔を保ち、
「ちゃんとな。自分や周りのことちゃんとしとらんと、綺麗な音楽なんか奏でらりんて。
自分たちが、親とか周りの先生や仲間のお陰で練習出来とるってこと。みんなに対する感謝の気持ち。……そーゆーのを持っとりんとな。てかそれを『育てる』のがうちの部活の目的」
「なんか社会に出てもそーゆーの役に立つらしいねえ」
おとなしめの『しょこりん』がここで初めて言葉を発す。「恭ちゃんがよくゆうとりん」
恭ちゃんとは、おそらく、吹奏楽部の顧問のことであろう。今年から緑高に赴任したと聞く。音楽の先生だ。
「なんとなく……、分かったわ。ありがと」マイクは頷いた。なんとなしに、惹かれるものを感じた。吹奏楽という圧倒的なエネルギーが、彼女たちを突き動かしているのが分かった。それは、言葉の節々から感じ取れる。
厳しい道筋。だが、彼女らはそれを『楽しんで』いる……。
事実、勇気凛りん三人娘は、いつもいつも楽しそうだ。三人できゃっきゃきゃっきゃ。そんなに喋っていて飽きないのかと思えるくらい、常に夢中。Y高の86年のアルメニが神がかっとりんね。同じ年やったらやっぱしS高のダフクロ! ……
見知らぬエネルギーに魅せられる自分も居る。出来れば、練習見学もしてみたいところだが、……それをすると最早入部確定。そこまでは踏み切れないマイクである。
だが、放課後を迎える前に、思ってもない事態がマイクを迎え撃つ。
「悩んどるよーやなあ?」
昼休み中、食の進まないマイクを見てヨーヘイが助け舟を出す。「悩んでねやったらなんでもおれたちに相談してみ? なあ?」
後ろの、窓際で、月曜日に発売された週刊少年漫画を木曜のいまとなっても貪り読む黄サルとオッチャンに声をかける。目を上げると二人はうんうんと頷く。その様子を見届けると、マイクはいまだ着席したまま、
「うーん」お気に入りのあんこコッペパンを持て余しつつ、「……惹かれる気持ちはあんねけど。正直。ついてけるかが不安……ほら、ぼくはさ」
がぶり。パンをひと噛みし、「普通の日本人が送る学生生活ってのを送っておらんもんで。絶対周りから『浮く』ねや。……清一郎」児島くんのことな。とマイクは補足を加え、「清一郎が、自分のこと空気読めんとかなんとか言うとったけど、おれのほうがよっぽどや。
カナダと学校のシステムが違いすぎて正直、……ついてけん。
おまえらが友達になってくれたさけ、どーにかなっとるけど、ほんでも秋になってよーやくやで。入学したての頃は、自分がどこでなにしたらいいかまったく分からんかった。
『クラス』つーもんがあって『担任』があるっつーのがなんでか。
授業ごとに。なして教室を移動せんもんなのか。ロッカーに、『ロッカー』っつう、鍵がない理由も……。セキュリティどうなってんのやて」
「入学したての頃のおまえ、確かに、キョドっとったもんなあ」思い出し、声を立ててて笑うのは金髪にパンチパーマの黄サル。目立つ者同士シンパシーを感じるものらしい。「マイク初めて見たとき、留学生来た思うたもん」
「実際、留学生やったわいね……」と頭を掻くマイク。「向こうでグレードナイン終わって夏前に帰国して。そっから半年足らずで高校受験したんやで。……いま考えたら無茶苦茶やったわあれは。ぼく、緑川の方言すら喋れんかったしなあ。
そもそもな。向こうやと、テストんときでも教科書持ち込めるから、物理とか数学で公式覚える必要ないねて。んでも、はよ終わらせられるよーに、大体の記載箇所覚えとかなならんけどな。ほやし、『公式』を覚える……この概念を叩き込むところからぼくの受験勉強は始まってんて」
「よー緑高合格出来たよなあマイク」と感心したようにオッチャンが言う。緑高は、毎年難関大学への合格を果たす人間が二十名以上は現れる、そこそこの進学校である。「塾とか行ったんやけ?」
「通信教育と塾のダブル。起きてる時間全部勉強。あんなんもー懲り懲りや……」
肩を落とすマイクに対し、「でも大学進学希望すんねやったら、また勉強漬けやでえ? もっとキツいで? 部活との両立云々カンケーなしに」
「ほやし」残ったパンを一息に飲み込み、「……迷っておんのや。ハーフのぼくが、日本のくそ真面目な部活に馴染めんのか。ほんで、大学進学も果たせるのか……」
ここで、マイクに合わせて座っていたヨーヘイが立ち上がり、窓に寄り掛かると、「ほんでもマイク。
おまえが体育祭の準備に夢中になっとるん、傍から見とると、むっちゃ楽しそうやったわ。……なんかおまえ。帰宅部しとるよりかは、どっかキツい部活入部するほうが、合っとると思う」
「同感」「そやなー。いくら村崎さんと一緒っつう、恋の力の魔力があったにしても、準備頑張っとるときのおまえむっちゃ生き生きしとったで」黄サルとオッチャンも大きく頷く。
児島清一郎の言うことにあながし間違いは無い。自分は確かに、夏休み中。応援旗や、四十名分の鉢巻。横断幕の制作など、体育祭の準備にかかりきりで、夏休み中も毎日登校していた。別に係りに決まっていたわけではないが、――
『玉城くんも、手ぇ空いとったら、準備手伝うてくれんけ?』
可憐な美少女に誘われたのも大きかった。
せっせと手縫いで鉢巻を作ったり、廊下に大きな布を広げて絵の具で横断幕に色をつけたりと。思いのほか作業は大掛かりだった。
準備をするのは女子が多く。ヨーヘイたちは族の集まりを優先するゆえ夏休み中、学校にはたまに顔を出す程度。少数の男子たるマイクはウハウハだった。同じクラスの非モテ系の男子から、「あいつ女とばっかおんねな」と嫌味を言われたくらいだった。発言者は、あとからヨーヘイにガン飛ばされて萎縮していたが。
村崎実咲に告白したのは、体育祭が終わって、後片付けが落ち着いた頃。――これを逃すと、もう、村崎さんと関われないのではないかと……そして、誘ってくれたことへのお礼。それを素直に伝えたかったのだ。
だが、村崎さんは、直前の週末に、児島清一郎に告白を受けており、OKしたとのこと。……タイミングを逃したのか、と思うと、切ない。もっと早く自分の気持ちに気づいていれば。
とはいえ。
村崎さんは、本気で好きでもない相手と付き合うような女の子ではない。接すればそのことは分かる。……だから、仮に、マイクが児島清一郎よりも先に動いたとて、結果は同じであったろう。
思いあぐね、肩を落とすマイクに対し、クラスメイトのサバケた女の子が呼びかける。
「なあ玉城。なんかあんたおるかさっき訊かれてんけど。二年の先輩。廊下で突っ立っとる」
「――へ?」
「……………………」
えっ、とぉおお……。
こちらの先輩。赤くなってもじもじして自分の長い髪をいじるばっかりだ。なんで? ――ぼくに、用があると違うん?
しかしながらマイクは気がついていた。こちらの先輩――
爆乳。
まさに、彼の世代向けの猥本辺りに出てくる、お注射したらこんなサイズになっちゃいました的な。
ポロシャツの胸がはちきれんばかりで、サイズ選び大変だろうなと思う。からだは細い方だが、バストのせいでLサイズを着ているんじゃないだろうか。そんな印象だ。
よって。
ぶらさがる長い髪の二房を片手で一本ずつ持つ挙動は、……だっちゅーの。あいだに佇むありあまるおっぱいを強調しており。健全なる青少年には目の毒だ。なので、早めに会話を打ち切りたいところ、……なのだが。
顔を赤らめたまま、目を合わせることなく、俯く先輩。……なにが、したいんだ?
「あの」と、マイクは口火を切った。「ぼくに、なんか、用あるんですよね……?」
背を屈め、目線の高さを合わそうとすると、ひゃあっ! と叫ばれる。
なんだか自分がすごく悪いことした気分。マイクは眉を歪めた。
「あの」と再びマイク。周りを気にして声を潜め、「昼休み、残り十分切ってますんで。用あるんなら早めにゆうてくれると助か――」
そこまでしか言えなかった。視線が絡まった瞬間、
「――ひゃあああああん!」
廊下中に響き渡る絶叫。廊下にて昼休みを謳歌する人間は勿論、他のクラスの窓から覗き込む人間も現れるさまだ。頭を抱え込む先輩を見てマイクは……頭痛がした。
「ぼく、……いじめとるわけやないげし。怒っとるわけでもないですよ?」なんでこちらから譲歩せねばならぬのだろう。用件があるのはそっちなのだし。と思いつつもマイクは口を動かす。「とにかく。先輩がなにを思うてぼくんとこ来てくれたか教えてくれな、なんも始まら……」
「あたし。男のひとが、……」
――小さすぎてよく聞こえない。
マイクは身を屈め、女の先輩の口許に耳を寄せる。――と。
「知らん男のひとが怖いんよ。……ほんでも。これから入部する男のひとがどんなやか、確かめとう、て……」
「つーことは、先輩は吹奏楽部所属なんですね?」引き続き抑えめの声で言ってみると、うんうん、と涙目でその先輩は頷く。可愛いほうだ。なら。
「……ぼくと同じクラスの、夕向さんと皆代さんと林道さん連れてきたほうが、話、しやすいっすかね。……つってもぼく、まだ、入部するて決めておらんのですけど……」
すると先輩は涙目のまま、気丈に首を振る。「ほんでも。玉城くんがどんなひとやか確かめみな……児島くんが勧めとる子やったら間違いないって思った……けど、……悪いひとに入られたぁないし」
「じゃあ先輩は」と身を屈めたままマイク。「入部希望者のぼくがどんな人間かを見定めるために、単身、一年一組の教室に乗り込んできた。そーゆー事情で、合ってます……?」
「う、うん……」見定めるなんて大げさなもんやないけど。と、か細い声で頷くものの。相も変わらず警戒されている。いちいち顔を赤くされ、目すら合わせてくれない。――マイクは。
ちょっと、苛立ちを覚えた。「あの。先輩」
「なん……ですか」顔を背け髪をいじりだす。だからおっぱい! 潰れとるて! 一介のチェリー男子高生にそんなん見せんなや! ……マイクは内心で絶叫をする。
そんな妄執めいた代物を提示するわけには行かぬので、質問をチョイス。「ひとんとこ訪れるんなら、自分から名乗るんが筋やないすか?」
「あ……」盲点だったようだ。「そ……だね。ごめんなさい。あたし二年二組の、深見恭子ってゆいます……」
「おお」とマイクは声をあげた。「深キョンと一字違いっすか?」22日にあのドラマが最終回を迎えたばかりゆえ、いまだ記憶は真新しい。先輩は、深キョンに似ているというよりは、グラビアアイドル辺りで居そうな雰囲気だが……清楚系の。
赤くなった頬を押さえたままの恭子先輩にマイクは問いかける。「……したらぼく。先輩のこと、深キョー先輩て呼んだらいいすか?」ドーは童貞のドー。キョーは巨乳のキョー。彼女は意味を知らなくていい。
「だ……め」声が弱々しい。「駄目やわいね絶対。あたしなんかあたしなんか……そんな。絶対、無理……」
今度はぽろぽろ涙を流す有り様。いったいなんなんだこの先輩。取扱注意にもほどがある。マイクに刺さる周囲の目線も必然、冷ややかなものとなる。なんだあいつ。振られた翌日にかわいそーと思えば女の先輩呼びつけて泣かすぅ? ……そんな悪名、もっともゴメンだ。
と。
廊下は走らないもの。
とエレメンタリースクール卒のマイクでも教わっているのに。時折それを破る輩がいる。
そいつらは喋りながら走るのに夢中で廊下の真ん中に立つ恭子先輩のほうに突っ込まん勢いだ。壁側に突き飛ばせば着実に守れる。――が、それだと先輩が可哀想だ。痛い思いなんか絶対に女の子にさせたくない。それはマイクの信念だ。
よって、『引き寄せる』ほうをマイクは選択する。
「ひぎゃあっ……!」
「えらいすいません」ひし、とマイクは恭子の背に回す手に力を込める。――華奢だ。「ちょっとだけ、我慢してください。ぼくのこと嫌いなん、よう分かりましたから」……
むぎゅ。
押し付けられる魔性の感触。――うおお! 男細胞が蕩けてしまいそうだこのままでは。
走り去る音を聞き、ゆっくりとマイクは先輩を開放した。――が。
しゅる。しゅるしゅるしゅる……。
湯気を出したまま深キョー先輩はうずくまってしまった。すると。
今度は素早く立ち上がり。きっ、ときつい目でマイクを睨むと、直後、泣きそうな顔に変わり、
「あたしもうお嫁に行けないぃいいいい!」
……走り去ってしまった。
教室の戸口から顔だけを出して見守っていたヨーヘイ黄サルオッチャンも呆然としている。「なんやねあれ」「マイクに気ぃあるんか?」「まさか」教室のなかの様子を確かめる。半数がそれぞれの会話に夢中で、残りが廊下の騒ぎに着目していたよう。勇気凛りん三人娘が、前者のようだったので、マイクはホッとした。
しかしながら、マイクの受難は、まだ続く。
「玉城マイクぅうううう!」
今度は放課後。
髪のいろは明るい茶でツインテ。キツい感じの美人だが、先程の深キョー先輩に比べると見劣りがする。……おっぱいが。
闖入者を出迎えるのは本日で三回目。箒を手に、掃除当番のマイクは「はい。ぼくですが」と慣れたもの。
息を荒げるこの先輩は、二年生だろうか。上の階から走り込んできたらしい。肩で息をする有り様だ。
――そしてどうせこの先輩も吹奏楽部に違いない。
マイクは目だけであらゆる情報を読み取った。が、そのあと出て来る言葉は、マイクの予想もつかないものであった。
先輩は、マイクをきつい眼差しで見据えたまま、怒りかなにかの感情にわなわなとからだを震わせ、
「あんった……」
はい、とマイク。
「恭子のおっぱいもみもみさわさわしたってまじか! ほんっとサイテー!」
……
あまりの台詞に、教室中がざわめく。えー。お昼に来ておった先輩? 見た? おれ見てね……
ぷちり。
音を立ててマイクのなかでなにかが切れた。
失恋。恋敵からの勧誘。よくも分からぬ爆乳恥じらい女の襲来。挙句四人目の見知らぬカワイイ娘にはサイテー呼ばわりされると来た。
「いい加減、……限界、です」
おいマイク。と後ろでヨーヘイが声をかけるが知ったことか。こめかみの血管を浮かせたマイクは、
「まじで……どーゆー部活なんすか。吹奏楽部。いい加減にしてくださいよ。だいたいぼくは、昨日失恋したばっかりで、まだ、気持ちの整理がついておらんのですよ? ――なのに」
村崎実咲は不在。部活に行っているに違いない。ということを目で確かめるとお腹を押さえてふう、と息を吐き、
「好きやった子の彼氏に吹奏楽部に誘われたと思うたら、昼には自分でろくすっぱ用件も伝えられん先輩がやって来て。廊下走る危ないやつが来たからかぼうただけやがに、……もみもみさわさわ?」
はん。とマイクは鼻を鳴らすと、先輩の視線を受け止めて妖艶に笑い、
「ぼくねー。このビジュアルでよぉーく誤解されるんですよ。経験人数半端ねーとかやりちんとか桜井二世とか。
でも。――ご安心ください」
プラチナブロンドに碧眼の持ち主たるマイクは気取って本日二度目のお辞儀をし、
「正真正銘のチェリーです。女のおっぱいなんか。
なんか。なんか。
触ったこともないわああああああ!」
びく。っ、とその先輩が反応する。マイクの怒気に当てられたかたちだ。おい落ち着け、と後ろからヨーヘイに肩を掴まれるが、マイクは前に出る動きでそれを払った。「――だいたい、この田舎の。噂の回りの速さにはうんざりしています。みんな他に――考えることとかすることとか無いんですかね? 自分がされるのが嫌だから。ぼくは、積極的に他人の噂話なんか――しないんですよ……」
いままで一度たりとも明かさなかった本音をこぼすマイクに、その場に居る全員から、同情の入り混じった目線が降り注ぐ。それは本日、彼が初めて味わう感覚であった。
「ごめん」と、マイクの言い分を聞き終えたそのツインテの先輩は済まなさそうに頭を下げた。「あたしな。……玉城くんの顔は知っておってん。ほんで。午後ずっと恭子が熱でもあるよーな顔しとるさけ……本人から話聞いたらハグされた? てゆうたやろ。ほんで。かぁーって頭に血ぃのぼってしもて……。ほらあの子。話して分かった思うけど。誰かに迷惑かけられたかて自分から文句ゆえん子やろ……?
……すまんかった」
両膝に手を添え、許しを乞う。――ところで深キョー先輩もこちらの先輩もだけれど、吹奏楽部の女の子はみんなスカートが長い。膝下10センチくらいか? 一介の男子高校生たるマイク的には、もうすこし短いほうが美味しいのだが……。
謝られたことで彼の気持ちはすこし落ち着いた。「いえ。ぼくのほうこそ言い過ぎました。八つ当たりでしたね。噂の広まりの速さのこととかは、あなたには関係ないのに……」
マイクとヨーヘイ以外は全員、掃除を再開する。元通りに機能しだす教室を見やると、その美人な先輩は、怪訝な目をよこし、「――やけどな。ハグするってのは、やりすぎ違うん?」
そこか……。
マイクは額に手をやった。咄嗟のことだ。仕方がないではないか。だいたい、深キョー先輩自ら、納得が行かず、ここに来るのなら意味が分かる。
だがこの先輩は、部外者だ。個人的感情の鬱積を元に、ここにやって来ている。第一、こちらの先輩の名前すら聞いていないではないか……。
「あなたたち吹奏楽部のなかでは。相手が後輩とはいえ、自分から名乗りもせず、真っ先に相手を詰問するのが常識なのですか」
「あっ」腕組をし、冷たく言い放つマイクの挙動を目にし、先輩は慌てて頭に手をやり、「……すまんな。二年の葉月明日佳ゆいます。恭子と同じクラスで同じパートの……」
貧乳先輩。
……と呼ぶのは失礼に当たる。そこで提案。「『はっちゃん先輩』で、いいすか」
「なしてあだ名なん」と不可思議な面持ちのはっちゃん先輩。「つか、あだ名つけるときふつー下の名前から取らんか?」
「こいつ。ひとにあだ名つけるのが好きなんす」と後ろから笑ってフォローするヨーヘイ。リーゼントで一見怖い印象だが、やさしい性格の持ち主だ。「こいつ、高校入る前はカナダにおったもんで。向こうやとファーストネームで呼び捨てするんが当たり前で、やさけお互い苗字とか下の名前でいじり倒すニッポンのカルチャーが興味深いみたいで。こいつにもあだ名つけてやると喜びますよ?」
「ぼくは、別に……」
「それに」と後ろからマイクの両肩を支えたままヨーヘイ。「向こうやとハグなんて誰でもして当たり前の挨拶なんすよ。おれ。こいつがハグしておったん見ておりましたが、なんも、別に変質者が無理くりぎゅー抱き締めるようなもんでもなく。背中にそっと手ぇ回してかばう程度のもんでしたよ。深キョー先輩、男慣れしておらんもんで、ほんで、どきどきしてしもうたん違いますかね……ましてやこいつ、こーゆービジュアルなもんで」
なんの感情も交えず、マイクが、はっちゃん先輩を見つめ返すと、何故か、うっ、と先輩は頭を抱えた。「……確かに。破壊力バツグンやわ……」と一度は認めたものの、
「べ。べっつに玉城くんがかっこいいとかあたしそんなことゆうとらんからね!」
背けた顔を真っ赤にして叫ぶさまがなんとも愛らしい。
「顔面偏差値あげるためにこいつ入部させんのもありじゃないっすかねー」と、先輩の反応を面白がるヨーヘイの気配。「児島もこいつも相当のもんですから」
「……梅村くん、やったっけ?」マイクそっちのけで二人の会話が展開されている。マイクはそれには気を留めず傍観し、「会なんか抜けて、あんたも、うちの部活入ってくれればいいがに……」
「無理です」きっぱりとヨーヘイ。「憧れておるひとがおるもんで。おれは『そっち』へは行けません。おれのダチの、黄サルもオッチャンもおんなじです」
「そっか。残念」ここで。ヨーヘイとトークをしていたはっちゃん先輩がマイクに目を向け、「……玉城くん。きみの気持ちは、どうなん?
――べ。
別に、無理にとは言わんけど……」
ツンツンした感じだが、思いのほか、そうしゅんとした声音で言われてしまっては。マイクは、困ってしまう。――『気になってしまう』自分に。
日本の部活は、一度入部すると、抜けないのが普通だと聞く……。
リスキーな選択だ。おまけに。
本日出会った吹奏楽部の面々はそれぞれがそれぞれに『変』。ノットノーマルなひとたちばかりではないか……。だが。
マイクは、入学式で聞いた吹奏楽部の演奏を思い返す。彼には――吹奏楽部、向こうで言う『ウインドアンサンブル』に対して、苦い思い出がある。それを払拭するのは、新しい経験で『上書き』するほかない。そのことは、分かっていた。
だから、マイクは、意を決し、
「――ぼく。吹奏楽部に、入ります」
大きく響き渡った声に、本日二回目の拍手がマイクに与えられた。その拍手のたぐいは。今朝方彼が受けたものとは、まったく違うたぐいのものであった。
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