009. Hunting time. (1)
既に部屋内の照明を消す者もいなくなったビルは、夜になった今でも周りを煌々と照らしている。しかし、4階だけは一室を除いてどの部屋も暗いままで、残った一室だけが、明るく外を照らし続けていた。
その明かりを悠気は、外で雨に打たれながらじっくりと眺めていた。
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思ったとおり、あの二人は今晩、4階で寝泊まりするようだ。
ビル内はどこの階の部屋にも大体セキュリティドアになっている。部外者が容易に入れる部屋なんて、4階の会議室くらいしかないのは知っていた。
オマケに、あの階はセミナーや会議が無ければ人は少ない。きっとゾンビも少なかったんだろう。もし、俺があの二人の立場だったら、今晩は安全確保した4階で休む判断をしたはずだ。
つまり、今晩いっぱい、あの二人を襲うチャンスがあるということだ。だが、単純に寝込みを襲ったとしても、あの背の高い方に返り討ちにされるのは目に見えている。
如何にして要領よく襲うか、じっくりと考えなければ。
と、その前に、まずは……。
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悠気は緩やかな足取りで、自社のあるビルの中へと入っていった。
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夜が更け、しばらくして4階一室の明かりが消え、4階全体は真っ暗になっていた。
再び外に出ていた悠気がそれを確認すると、悠気の眼は赤くギラつき始めた。
(そろそろ、狩りを始めようか……)
悠気は、手に持った小さなプラスチック容器に雨水を貯め始めた。少しずつだが、容器に雨水が貯まっていく。
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途中で水をこぼす可能性を考えれば、最低でも4、5個分の水が必要だ。ビル内の水道が使えれば良かったんだが、流しやトイレにある水道をいくら捻っても水が出なかった。
水が出ない原因も少し気になったが、そんなことで時間を使っても仕方がないので、目の前にいくらでもある雨水を使うことにした。
ドラッグストアにまだ置いてあったジュースやコーヒーでも代用できないかとも思ったが、流石に『薬品』に使う水にそれは不味いだろうという考えに至った。
多少面倒だが、こうやって雨水を使う方が無難だ。
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しばらくして、悠気の持っているプラスチック容器に雨水が十分貯まり、準備が整った。悠気は、雨水をこぼさないよう慎重に歩き、ビル内に運んでいく。
ロビーに入った後、床には悠気があらかじめ準備していた小さな筒状の物がいくつか置かれていた。
悠気は、その小さな筒状の物に対して、可能な限り慎重に雨水を注いでいく。多少こぼしつつも、決して入れすぎないよう注意しながら作業を進めていった。
("コレ"が店にあって、本当にちょうどよかったな。ドラッグストアなだけはある)
悠気がニヤつきながら次々と雨水を注いでいき、床に置いていた小さな筒状の物すべてに注ぎ終わった後、そのまま急ぎ足でエレベーターの方へと向かっていった。
(とりあえずは5階だな。後は待つだけ……)
1階での準備が完了した悠気は、指だけで突くようにエレベーターのボタンを操作して、上の階へと上っていった。
悠気が上の階に向かった後しばらくすると、複数の小さな筒状の物からは白煙が吹き出してきた。煙の勢いは強く、瞬く間に1階ロビー全体に充満していく。
そして……。
『ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!!!』
火災報知器に白煙が到達し、大きな音がビル内に鳴り響いた。
4階で眠り始めていた二人は、予期しない突然の大音に驚き目を覚ました。
「えっ!? 何? 何の音!?」
寝耳に水の出来事に慌てる樹が辺りを見回したが、4階の部屋内では何も変わったところは無い。
「落ち着いて樹、……音は下の方から聞こえてるみたい」
内心では、樹と同じように突然の出来事で驚いていた歌乃だったが、慌てる樹を見て、自分だけでも冷静にならないと、と気を引き締めた。
「何かの警報音みたいだけど、……この音はマズいね、ビル近くに居るゾンビが寄ってきているかも」
そう言いながら歌乃は部屋の明かりを点け、急いでワンショルダーを背負ってヘルメットを被り、スコップを手に取った。
「ほら、樹も早く」
「えっ……? 何するの?」
「何って、ここから逃げ出す準備だよ。早くしないとゾンビにビルを囲まれるよ」
「……あっ! うん!!」
樹も急いでリュックサックを背負い、手にハンマーを持って、ヘルメットも忘れず装着した。
「忘れ物も無いね。よし行こう、樹」
「うん、わかった」
二人は部屋から出て、階段の方へと向かっていった。けたたましい音で鳴る警報音は鳴り止んでおらず、二人は周りに注意しながら進んでいく。
階段付近に着くと、警報音はより大きく聞こえるようになった。
「下に行くよ、ついてきて」
歌乃がいつもどおり先頭を歩き、樹がその後をついていく。階段の照明は点いたままだが、階段を降りていく度に警報音が大きくなって、二人の緊張は高まっていった。
3階、2階と降りていき、道中は階段を上った頃と何も変わらないようだったが、2階から1階に行く階段の踊り場までたどり着いた時に、二人はようやく異変を目の当たりした。
1階全体は白い煙で覆われており、1階の階段まで煙が漂っている。白煙は濃く、数メートル先もぼやけて見えない。
原因は不明だが、二人はこの白煙のせいで天井の火災報知器が鳴り響いているのだと見当をつけた。
「……突っ切るよ」
歌乃はそう言うと、煙をなるべく吸わないよう口元を腕で塞ぎながらゆっくりと階段を降りていき、階段の下まで到達すると、目を細めてロビーの正面玄関がある方向を注視する。
煙で少し目がしみるが、下まで降りても何かが焦げるような臭いは無く、少しツンとする刺激臭が鼻を突き上げた。
「火事……ってわけじゃなさそうだね」
後ろから着いてきた樹が、臭いを嗅ぎながら歌乃の疑問について応えた。
「この臭い……、ゴキブリとかダニとか退治する燻煙式の殺虫剤じゃないかな。ゴールデンウィークで部屋を掃除した時に使ったんだけど、その時の臭いに似てると思う」
「……」
歌乃は、樹の回答が恐らくあっているのだろうと納得したが、それよりも別の疑問に意識がいってしまい、無言の回答となってしまった。
しかし、そんなことを考えている状況ではないと自分に言い聞かせ、あらためて樹に声をかける。
「殺虫剤ならゴキブリやダニは死んでも私達なら大丈夫だろう。とりあえず、このビルから出よう。離れないようにね」
今は疑問を解決するよりも安全の確保をするべきだと判断した歌乃は、慎重に煙の中へと入っていく。樹もその後ろからはぐれないよう早歩きで後を追った。
煙が充満しているロビーでも壁や柱は薄っすらと見えており、歌乃は、昼間に少し歩いた記憶を頼りに正面玄関の方へと進んでいく。
樹がはぐれないよう急ぎつつも早まらず、時折、後方を振り返って樹がついて来ていることを確認する。樹の方も煙で歌乃を見失わないよう我慢して目を見開いて、歌乃の後について来ていた。
正面玄関までの道中には障害物らしい障害物はなく、煙の中とはいえゾンビが居るような気配もない。警報音はまだ鳴り響いているが、お陰でわざわざ静かに移動する必要もない。このまま外に出られれば、とりあえずビルから離れて安全確保できる。
二人がそう考え始めた矢先だった。
『……バンッ! バンッ!』
正面玄関の方から火災報知器の警報音とは異なる大きな音が鳴り響き始めた。まるで、何かを叩くような音だった。
その音を聞いて、歌乃がボソリとつぶやいた。
「……遅かったか」
まだ正面玄関までは距離があり、前はまだ煙でよく見えないが、その音の正体が何なのかは、二人とも察した。
叩く音は鳴り止まず、逆に、音が鳴るまでの間隔が狭まって音源も増えているように聞こえていた。
「樹、戻ろう。急いで」
歌乃が階段まで戻るよう樹に促し、樹もそれに従う。二人は足早に階段のある場所に戻り始めた。その間も音は鳴り続け、そして……。
『ガシャァン!!!』
ガラスの割れる音がロビー内に鳴り響き、ガラスの割れた場所から煙が外に吸い込まれていく。そして、煙と入れ替わるように、ゾンビ達の群れがロビー内に侵入してきた。
歌乃は早歩きしつつ後ろを振り向いて確認したが、既に正面玄関の付近には人影が4、5体ほど見えており、正面玄関からの脱出は到底不可能になったことを悟った。
まだ二人が居た辺りの煙は濃かったため、ゾンビ達には気づかれておらず、その隙に二人は1階踊り場まで一気に駆け上がってゾンビ達から逃れることが出来た。
二人が踊り場の角からロビーの方を覗き見ると、まだ警報音を鳴らし続けている天井の火災報知器に対してゾンビ達が届かない手を伸ばし続けているのが煙の中から何となく見えた。
こちらに気づいている様子はないが、1階ロビーから離れる様子もない。
「1階から逃げるのは無理だね……。ビル周りにもゾンビが居るだろうから非常階段も危ない……。どうする歌乃……?」
ゾンビ達に聞こえないよう小声にしているのか、それともゾンビ達に怯えているのか、樹は囁くような、か細い声で歌乃に話を振った。
「ここに居ても安全じゃないし、とりあえず4階の部屋に戻ろう。そこから先は……、戻ってから考えよう」
「……うん、わかった」
歌乃でさえ、今の状況で明確な方針を決められなかったことに樹は不安でたまらない気持ちになったが、それで歌乃の方にまで不安にさせないよう何とか体裁を整えるよう心がけると決め込んだ。
ただ、そういう部分を含めて樹の気持ちを、歌乃は察していることまでは気づけていなかった。
とりあえず4階に行くことが決まり、再び歌乃が先頭に立って階段を上り始める。その道程は、階段を降りてきた時よりも重くなることは確実だった。
二人が重い足を上げて、まず2階近くまで階段を上った、その時だった。
突然、2階の角からゾンビが現れ、歌乃に襲いかかってきた。
「ッ!?」
まったく警戒してなかった場所でいきなりゾンビに襲われた歌乃は、一瞬身体が硬直したが、手の持ったスコップですんでのところでゾンビの襲撃を防ぎ、そのまま階段へと落下するよう往なした。
ゾンビは階段の方へと誘引され、そのまま受け身を取ることも無く踊り場まで転がり落ちていく。
「歌乃っ! 大丈夫!?」
樹が慌てて歌乃の元へと駆け寄り、歌乃を心配する。
「今のは危なかった……。大丈夫、怪我はしてないよ」
ギリギリのところでゾンビを撃退できた歌乃は、額の冷や汗を拭いながら平静そうに応えた。
「こんな所にもゾンビが来てるんだ……。上の階に行くのも気をつけないと」
「……そうだね」
樹の言葉に生返事で応えた歌乃は、また別のことについて考え始めていた。
何かが"おかしい"と直感的に感じていたが、先のゾンビ襲撃で動揺しているのもあり、その"おかしい"と感じた理由が頭の中で整理できていなかった。
「歌乃、何かあったの?」
「…………あぁ、ごめん。考え事してた」
樹の呼びかけで、歌乃は我に返る。
「まだ下のゾンビが生きてるよ! 早くトドメをささないと……!」
踊り場のゾンビは倒れたままだったが、この程度でゾンビが死なないことは二人ともわかっていた。
ゾンビはまだ立ち上がろうともしていないが、ゾンビを確実に行動不能にして殺すには首元、つまり頚椎に致命打を与えるか、脳を潰す必要がある。
だが、焦る樹を尻目に、階段の踊り場で倒れているゾンビを見て、ふと、ある事に気づいた歌乃は、ゾンビを無視してそのまま階段を上り始めた。
「行くよ、樹」
「……え? 放っておくの?」
「うん、放っておこう。それよりも早く4階に戻ろう」
「…………」
少しでもゾンビを減らしておきたい状況の中でゾンビを倒すチャンスを見過ごす歌乃に対し、樹は納得いかない顔をしながら歌乃の後ろを追いかけていった。
二人は急いで階段を駆け上がっていく。
再び出会い頭でゾンビに襲われないよう階段を上った先の確認はしっかり行っていたが、道中はゾンビに遭わず4階にまでたどり着いた。
そのまま二人は4階の元いた部屋に滑り込むように入り、すぐにドアを閉めて鍵をかける。
樹は少し息を切らしながら、先程の件について歌乃に問いただした。
「ハァ、ハァ……、なんで、あのゾンビを放置したの? 少しでも数を減らしておかないと厄介だけど……」
歌乃はゆっくりと深呼吸をし、呼吸を整えてから樹の方に向き直して、そっと答えた。
「さっきのあのゾンビ、服が濡れていたんだよ」
「服が……、濡れていた?」
樹は一瞬意味がわからなかったが、すぐにある事実に気がついた。
「服が濡れている……雨で。ってことは、外から来たゾンビ?」
歌乃が軽く頷く。
「そういうこと。最初はどこかのフロアに隠れていたゾンビが出てきただけだと思ったんだけどね」
「僕もそう思った。でも、外からどうやって……」
歌乃は険しい表情になり、視線を外した。
「それが見当つかないんだよ……。屋上にゾンビは居なかったし、仮に屋上で見逃していたとしても、あの金属扉を破るなんて想像できない。非常階段からも考えたけど、警報音は1階で鳴っているのだから、わざわざ上の階に来るのも理屈に合わないんだ……」
いつになく真剣に悩む歌乃を心配そうに見つめる樹だったが、樹自身も何故ゾンビが居たのかまったく思いつかない様子だった。
「まぁとにかく、何が起きているのかわからない状況だったから、あの場であれ以上留まるのも危険だと思って避難を優先したんだよ。あの場はたまたま倒せたけど、次も階段で襲われていれば、無事な保証はなかったしね」
「……理由があってなら、まぁわかったよ」
歌乃の説明で逃げた理由について樹は納得したが、既に樹の意識はゾンビが居た原因に向いていた。
その樹の思いをよそに、歌乃は"もう1つの疑問"についても、樹に話しだした。
「それよりも更にわからなかったのは、あの1階の白煙の方だよ……」
「……なんで殺虫剤が焚かれていたかってこと?」
「殺虫剤なんてゾンビが使う訳がないし、たまたま殺虫剤の封が開いていて、そこに水がかかったなんて、……もっとあり得ない」
「…………」
樹は黙って歌乃の考察をじっと聞き続ける。
「ゾンビでもない、たまたま封が開いていた訳でもない。となると、今の状況下で殺虫剤が使われる可能性があり得るとすれば……」
「あり得るとすれば……?」
「……私達以外の"人間"が近くに居て、殺虫剤をこのビルに仕掛けていった、としか思いつかないよ」
歌乃の発言に、樹は固まって唖然とする。
「…………えっ? 他の人が? 何のために……?」
「それはもちろん、このビル内にゾンビ達をおびき寄せるためだろうね。非常ベルを直接鳴らさず、わざわざ火災報知器を使ったのも、逃げる時間を稼ぐためだと考えれば合点がいくよ」
「……それって、つまり、その僕達以外の"誰か"が、ゾンビを使って僕達を殺そうとしたってこと?」
「その"誰か"がいた事前提のお話で言えばそうなるね。それが故意か、私達に気づかず過失だったのかまではわからないけど」
歌乃は淡々と意見を述べていたが、樹は動揺を隠せなかった。
ゾンビ達に命を常に狙われて、ゾンビとの殺し殺されの状況には次第に慣れつつあったが、どういう事情があったにせよ、人間にまで殺されそうになっているという事が、樹にとっては衝撃的だった。
人々がゾンビ達に無差別に襲われている状況であれば、なおさら生き延びた人同士で協力しあうべきだと思っていたが、それを根本から否定された気持ちになった。
それを察した歌乃は、やんわりとフォローする。
「樹、これは今考えつく中での仮定の話だよ。実際がどうなのかまではわからない」
「……だけど、歌乃の話を聞けば一番あり得そうなのって……」
「まぁ、そうなんだけど……。とりあえず、今はその事より、このビルから脱出する方法を考えよう。この部屋だっていつまで安全かはわからないし」
歌乃は無理矢理話題を逸らし、脱出方法について考え始めた。樹も不安を残しつつも、一緒に脱出方法について考えることにした。
その頃、1階踊り場で倒れていたゾンビはようやく立ち上がったが、立ったまま、その場で固まっていた。
大抵のゾンビは虚ろな表情をしているが、その立ちながら固まっているゾンビ、つまり、悠気は他のゾンビより更に深い空虚感を醸し出していた。
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……見事に失敗した。
1階で発煙するよう仕掛け、エレベーターを使って5階まで移動する。
その後、火災報知器が鳴るまで4階の様子を伺い続け、あの二人が下の階に行けば、その後を追いかける。
そして、スポーツショップの時のように階段の角で待ち伏せして、背の高い方が階段を上ってきたら出会い頭に襲う。
いくら背の高い方の戦闘力が高くても、全く用心していない所をいきなり襲えば、不意を突けて簡単に倒せると考えていた。
もう一人の背の低い方は、一人で逃げるならそれで良し、背の高い方を助けるために向かってきても、あの程度なら返り討ちにできる自信は十分あった。
内容は単純だが、独りでも実行できて、かつ、相手の不意をついて一気に勝負を決められる、割と良い作戦だと内心自画自賛していた。
……が、俺が思っていた以上に、あの背の高い方は反射神経も用心深さも鋭かったようで、この作戦は失敗してしまい、結局、あの二人が油断している最初で最後のチャンスを失ってしまっただけであった。
そのままトドメを刺されなかっただけまだマシだったが、食料が手に入らなかったことに変わりはない。
結局のところ、俺が欲張って独りであの二人を襲い、食料を独り占めする考えだったのが間違いだった。やはり、ゾンビはゾンビらしく、数の暴力で襲うのが一番だろう。
幸い、あの二人は上の階へと逃げた。つまり、まだこのビル内で襲うチャンスがあるということだ。作戦を一から考え直す必要があるが、俺の"仲間"は、今このビル内に集まっている。
まずは、1階のゾンビ達を集めないと……。
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そうして、作戦失敗に落胆しつつも、悠気はすぐに気持ちを切り替えて、1階までの階段をゆっくりと降りていった。