006. One week later.
俺がバス事故に遭ったあの日から、一週間が経った。
この一週間で街中の混乱は鎮静化し、いろいろな場所で起こっていた乱闘騒ぎも、今はもう落ち着いている。
もう梅雨に入ったようで、時折小雨が降りつつも蒸し暑くなる日々が続き、ツバメ達も例年どおり飛来しては人通りの多い場所で巣作りに励んでいるようだ。
毎日、昼の12時に大通り前広場にある時計台のチャイムが鳴ると、近くの建物からは多くの人影が出てきては時計台の周りに集まり騒がしくなる。
街は、あの騒動前のような活気を取り戻しつつあるように思えた。
……だが、時計台の周りに集まってきた人影は、一向にその場から離れようとせず、その場で留まっているばかりだ。
"彼ら"の目的は、コストパフォーマンスの良い昼食や、小洒落たランチが食べられる飲食店ではなく、"チャイムが鳴っただけの時計台"だからだ。
『"彼ら"は音に反応する』
この一週間、俺が"彼ら"を観察して気づいた特性の一つだ。
"彼ら"は付近で音がすると、その音が鳴った場所まで集まってくる。
まるで、音が鳴った近くに"食料"が居ることを期待しているかのような動きだ。
この街で大手を振って歩けるような"食料"……つまり、人間はもう居ない。
この地域一帯で動き回っているのは"彼ら"、つまり、ゾンビだけであり、ここはゾンビが支配する街となっていた。
そんなゾンビだらけの街で俺は今、何をしているのかというと、周りのゾンビ達と一緒に時計台の周りをふらふらしているだけだった。
……まぁ、生きる目的なんてろくに無かった人間がいきなりゾンビにされた挙げ句、既に生活の一部となっていた仕事から開放されてしまえば、これから何をすればいいかなんて一人で決められるはずもなかったわけだ。
自分のことながら情けない話で、現状には何度も泣き言を言いたくなったが、それを言っても何も解決しないことくらいはわかっていたので、泣き言は心の奥で噛み殺す毎日を送っている。
そうこうしているうちに、ゾンビ達は人間が近くに居ないことを悟ったのか、ノロノロと他の場所へと散っていく。
それに併せて、俺もスポーツショップへと帰っていった。
あの死闘を繰り広げたスポーツショップは今、俺の拠点となっている。
あの後、外の騒ぎが収まるまで俺はスポーツショップの中に留まり続けていた。身体が怪我をしていた上に、下手に外に出て人間と鉢合わせするのは自殺行為だと考えたからだ。
外の騒ぎが聞こえなくなるまで丸一晩はかかったが、朝方になって静かになってから恐る恐る外に出ると、周りの景色は昨晩から一変していた。
近場で起きていた戦いは終結しており、もっとゾンビと人間の戦った形跡や、死体がゴロゴロ転がっていることを想像していたが、実際は死体の姿はあまり見当たらず、何人ものゾンビ達がそこら中を歩いていたり、ゾンビが数人がかりで死体前に屈んでモーニングを嗜んでいる風景が広がっていた。
恐らくだが、多くの人間は戦うことより逃げることを選んだようで、いずれにせよ、ゾンビ側が勝ってくれたおかげで、今こうして俺は自由に出歩くことが出来ている。
ただ、人間がどこに隠れているかもしれないこの街中を隅々まで探索する勇気はなく、他のゾンビがいる場所くらいしか歩き回れないが……。
もちろん、この一週間ずっと何もしていなかった訳じゃない。
付近の地図を見つけ、どの道がどこまで繋がっているのかを確認したり、実際に安全そうな広くてゾンビの多い道を歩いて、どこまでこのゾンビ騒ぎが広がっているのかを確認したり、他のゾンビ達と一緒に行動して食料が居ないかを探したりもしていた。
そして、何よりも調べておきたかった俺自身の身体、つまり、このゾンビになった身体についても確認していたところだ。
あの時、ガラスに映った自分の姿を見てゾンビになってしまったと決めつけていたが、少なくとも俺が知っているゾンビは、死体が蘇り、動きが鈍く単純で、ところどころ腐りながらも人間を襲って食べるモンスター、というようなイメージだ。
確かに、見た目や人間を襲うところはゾンビと似ているが、違う部分もある。何が違うのかと言われれば、俺の場合、はっきりと意識や記憶があるということだ。
外に居るゾンビ達は、何も考えていないような顔をしながらその場をふらふらとし、チャイムの音がなれば何度も何度も繰り返し時計台の方へと向かう。
その無意味な行為を繰り返すだけの姿は、とても意識的に動いているようには見えない。
ゾンビの定義については諸説あるだろうが、もし"動く死体"がゾンビの定義だとすれば、俺はまだ自分が死んでいるようには思えないし、胸に手を当てれば心臓も動いているのがわかる。
だったら、俺はまだ死んだわけじゃなく、よってゾンビになったわけじゃなく、"事故で人肉が好物になった、ちょっと顔色の悪い人間"ぐらいになったのではないかと、淡い期待を抱いていた。
……だがしかし、外に出て街中を歩いてみたところ、普通なら間違いなく死んでいる頭の割れたゾンビや、足骨を砕かれて這うことしか出来ないながらも人間を食らっているゾンビが俺に対して襲ってくるようなこともなく、まるで同類と居るように振る舞い、例外無く俺と同じような緑がかった肌と赤い目になっているのを見て、その妄想は儚く消えていった。
結局、意識があること以外は他のゾンビ達と変わらないというのが現実なんだろう……。
ゾンビになってしまった事実があり、それでも『死んでも殺されたくはない』と決めた俺は、人間達に殺されないよう少しでもゾンビのことを知っておきたいと思い、この一週間でゾンビ達と俺自身を色々と調べて何がどうなったのかをできる限り把握するよう努めていた。
もっとも、これが現実を受け入れるための現実逃避だったことも否めないが。
ゾンビになって良くなった事についてだが、まず一番は筋力が上がったことだ。
普段から筋トレどころか運動すらろくにしない俺が、あの男相手に力勝ちできたのはゾンビ化のおかげなんだろう。
と言っても、筋力アップは割と現実的なレベルなようで、バットを素手で折り曲げたり、人間に噛みついて肉を食いちぎる程度が限界で、金属で出来た扉をこじ開けたり、車をぶん投げたりするようなスーパーパワーという訳じゃないようだ。
次に、身体の傷が少し治りやすくなったことにも気がついた。
戦いの最中で出来た擦り傷や、骨折していた左腕もいつの間にか治っており、試しにガラスで腕を切りつけたところ、出血はしたがすぐに止まり、翌日には傷跡が少し残っているだけになっていた。
ただ、他のゾンビを見る限り、腕や頭を切断されれば流石に生えてこないようで、殴られれば人間のように骨折したり、脳震盪になるのは経験済みだ。
ゾンビの身体もそこまで不死身というわけではないようだ。
最後に、これは良いかどうかは判断が難しいが、痛みを感じなくなったことだ。
あの男と戦っている最中に薄々気づいていたが、どんなに殴られたり酷い傷ができたりしようが、痛みを感じなかった。
おかげさまで、どんな怪我をしてもそれによって行動を制限されることなく最後まで戦うことができたんだと思う。
痛みがなくなったせいで怪我をしても気づけなかったりするだろうが、前述のとおり傷は治りやすい。
激痛で思うように動けなくなるリスクを考えれば、デメリットよりメリットの方が大きい、と俺は考えていた。
以上が、俺が気づけた、この身体になって良くなった点だ。
こうして並べるとゾンビの身体も悪くはないと思えるが、当然ながら悪くなった点もある。
悪くなった点で特にキツいと思ったのは、身体を器用に動かしたり、細かい作業ができなくなったことだ。
何が原因かはわからない。
神経がおかしくなったのかもしれないし、筋肉が変に動いて邪魔しているのかもしれないが、身体中のあらゆる部分が精密に動かすことができなくなっていた。
手はグーパーするのがやっとで、指ごとに分かれて動かすようなことが上手くできなくなり、足は早歩きするのがやっとで、足を上げて走ろうとすれば二歩目で躓く。
物を掴んだり投げたりすることは出来るが、箸やペンを持って使ったり、指先で摘んで捻ることすら容易にはできず、ペットボトルの蓋を握って力任せに開けることが辛うじてできるのが限界になっていた。
他には……主食が人肉になったことだ。
これも明確な理由はわからないが、いま、人肉以外を食べたいとは全く思わなくなっている。とりあえずは"ゾンビだから"の一言で片付けるしかないだろう。
一応、スポーツショップ内でも少量ながら食料品が置いてあり、ブロック状のバランス栄養食品とパックゼリー飲料が棚に陳列されていたので封を開けて食してみたが、どうも食べた気がしない。
胃の中がずっとムカムカしているような感覚が続き、結局吐いてしまったが、食べていたものは殆ど消化されておらずそのまま出てきていた。
バランス栄養食品やゼリーを食べても消化できないようでは、恐らく何を食べても同じだろう。
人間以外でも生肉であればまだ大丈夫じゃないかとも思うが、それを試せるような機会は今後あるのかどうか……。
ついでに、周りにいくらでもいるゾンビ達を食べられないのかも考えたが、何故か食べたいという気持ちにはなれなかった。
人間だった時もそうだったが、不思議と共食いしたいという気持ちは起きないようだ。
他のゾンビ達も共食いしていないところを見ると、きっと本能レベルで同じ気持ちになっているのだろう。
要するに、生き延びるなら俺は今後も人間を襲い続けなければならないということだ。
人間の時であれば残酷な運命に悲観して泣き喚いたかも知れないが、ゾンビになったせいなのか、その現実も素直に直視できている。
今まで散々、豚や牛を食べてきたのが人間になっただけで、今までもこれかれも命を奪いながら生き続けてきたことに変わりはない。
そう割り切るしかないと、俺は考えた。
それに……俺はもう既に二人もこの手にかけている。今さら殺したくないなんて日和った意見を持つほど稚くはなれないだろう。
後は、相変わらず喋れないということもあった。
ゾンビらしい「あ~……」だとか、「うぅ……」だとかは声が出るが、どんなに頑張っても喋ることができない。
まぁ話す相手もいないので実害は無いに等しいが、今後ずっと話せないとなると少し寂しい気持ちにはなった。
他にも肌が緑っぽくなったとか、シャワーに入れなくて恐らく臭いとかがあるが、悪くなった点は挙げればキリがないのでここまでにしておく。
以上が、今まで調べてわかったことだ。
もっと時間をかけて調べてみたかったが、残念ながらそれよりも抜き差しならない事態に直面したため、そちらを優先せざるを得なくなってしまった。
それは──。
俺がスポーツショップに入り2階の方に登っていくと、突然、目の前に黒い人影が現れた。
その人影は、血で汚れた紺のジャケットに、太ももの部分にいくつか小さな穴が開いているデニムを穿いた格好をしており、白色に緑がかったその顔から、生気を失ったような眼でこちらを見ている。
あの日、俺と死闘を繰り広げた男だった。
俺は、男を一瞥すると軽く会釈して、横を通り過ぎる。男の方は何の反応もなく、そのまま何も無い空間を見続けているだけだ。
あの日勝利した後、男をそのまま食おうとしたが腹は減っておらず、それに"男が男を食う"というのも何か絵面的に嫌な思いを抱いたため、一口だけかじった後、『ごちそうさま』と心の中でつぶやき、翌日以降に腹が空いてから食べるつもりでそのまま放置してしまった。
だが、その判断が裏目に出た……。
翌日、気づくと男は立ち上がって俺の方を向いていた。息を吹き返したのかと思い、俺は再び戦闘を覚悟したが、一向に襲ってくる気配がない。
注意しながらそっと近くに寄って男を観察してみると、男は俺と同じようにゾンビになっていた。
ただ、生前の意識があるようではなく、俺が目の前まで近づいたり、後ろから軽くこついたりしても特に襲ってくるようなことはなかった。
生き返っても襲ってこないのであれば側にいても大丈夫だろうし、おまけに俺の中の罪悪感も少しは紛れる気がする。
そして、この男が生き返ったことによりゾンビの特性がもう1つ判明した。
『ゾンビ化は感染する』ということだ。
少なくとも、この男と出会った時はゾンビ化しているような兆候はまったく見られなかった。
この男はどのタイミングで感染したのか、死んだからゾンビになったのか、そもそも俺はどうやって感染・発病したのか、まだまだわからないことだらけではあるが、わかったのはいま人間である奴でもゾンビになる可能性があるということだ。
これは、長い目で見れば、時間が経つにつれゾンビがどんどん増えていくということであり、その分だけ人間がどんどん減っていくということになる。
……つまり、食料確保が難しくなるということだ。
そして、この出来事のせいで抜き差しならない事態となっている。
この男がゾンビ化してしまったせいで、当分食べようとしていた"食料"が無くなってしまったからだ。
つまり、食料確保しなければならなくなったわけだ。
ゾンビになっても腹は減る。
餓死するかどうかは判らないが、一度味わったあの飢餓感はまともな判断もできなくなるほど苦しいものだった。
あの感覚は二度と味わいたいものじゃないし、あんな状態で人間と出会えば安々と殺されるだろう。だからこそ、殺されないためにも食料確保は重要な課題であった。
今までも近くを歩き回って生きている人間を探してみたが、一向に見当たらず、たまたま見つけたゾンビ達の食べ残しで食い凌いでいたが、それももう近場では見当たらなくなり限界だった。
本格的にどこかへ行って、食料確保しなければならない。
だが、まったく知らない土地まで行ってハンティングをするほど無謀なことはしたくない。
となると、見知った土地で行うのが一番だが、ここ最近の俺の記憶で見知った土地は自宅周りか、会社周りしか無い。
自宅と会社を往復するだけの期間があまりにも長過ぎたと後悔する……。
自宅はここからだと数十キロは移動しなければならず、遠い上に、今はどうなっているのか見当もつかない。
それと比べれば、会社の方は数キロも歩けば着くはずで、行けなくない距離だ。
……こんな身体になってまでとは思うが、俺は会社に出社することに決めた。