005. 闘争の時
スポーツショップは開店後に騒ぎが起きたようで、店内はライトで明るく照らされており、呑気にBGMまで流れていた。
店内は入り口前から野球、サッカー、テニス、バスケットボールとメジャーなスポーツ用品が飾られており、奥に行くにつれ段々とマイナーなスポーツの商品を置く陳列となっている。
多くのスポーツ用品を扱えるようにするためか、店内はかなりの奥行きがあり、最奥部の方は何を扱っているのか見えないくらい入り口から遠い。
建物中央にある階段から行ける2階はスポーツウェアを扱うフロアになっており、ランニングウェアやポロシャツ、ジャージはおろか、気の早い水着まで取り扱っている。
悠気は店内に逃げ込んだ人が居る可能性を危惧して、注意深く観察しながら中へと進んでいく。
入り口近くの野球コーナーでバットだけ本数が少なくなっており、多くの人間が騒動後にこの店のバットを持ち出していったことを察し、人生初めてバットのフルスイングで殴られた衝撃を思い出していた。
……最も、人としての人生はとっくに終わっているのだが。
店内を見渡し、ひとまず人の気配は感じなかったため、悠気は近くのレジカウンターの裏へと周って、身を伏せ隠れた。
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このままやり過ごせれば、とりあえずこの場は助かる。
外の戦いで人間側が勝ったとしても、暗くなるまで隠れていれば安全に脱出する機会を窺えるだろう。
あわよくば、あの男が周りのゾンビ達にやられてしまうことを切実に願う。
だが、その先のことは……。
俺はふいに冷静になり、自分の身体も既に人間ではないことを思い出した。
ここで助かったとしても、もう今までの生活は送れない。
そして、既に人を一人食い殺してしまったことに対して、今さら罪悪感が沸々と沸いてきた。
今までの人生で生きる理由なんて無かった男が、いま、人を殺してまで生きている。
この事実が、俺には到底納得できないものだった。
今までは"死ぬ理由"がないから"生きていた"が、今はもう"生きている"ことが"死ぬべき理由"になっている。
先ほどまでは無意識の内に生きるための選択を選んでいたが、それが本当に良かったことなのか、それとも悪かったことだったのか、それすら判断がつかなくなっていた。
いっそ、最初のバス事故で死んでいれば、ここまで悩むことも無かっただろう……。
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悠気は、心の中で生への執着が急速に無くなっていくのを感じていた。
元々、生への執着心が乏しかったのもあるが、ゾンビになった身体と、人を殺したという事実が更に拍車をかけていた。
(せめてもの詫びとして、あの男に殺されてしまった方が良いかもしれない)
悠気の頭の中には次第にそんな考えが大きくなり、心の中で葛藤する。
(この場で助かったところで、どうせ別のところで殺されるだけだ。それならば、いっそ……)
死への思いは止めどなく溢れてしまい、悠気は重い腰をゆっくりと少しずつ上げていった。
上半身がレジカウンターの高さを超えた辺りで悠気は入り口の方に目を向けると、ちょうどタイミングを合わせたかのように店内に入ってくる人影があった。
悠気は、咄嗟に再びレジカウンターの裏に伏せ、レジカウンターの端から、入り口の方をゆっくりと覗き込んだ。
入り口の前には、直斗が立っていた。
怪我をしたのかゾンビ達の返り血を浴びたのかわからないが、上半身は赤く血まみれになっていた。顔面も血だらけだったが、眼と口だけははっきりと開き、白い部分が浮いているように見えた。
手に持った金属バットはボコボコにへこんでおり、胴体部分の途中で少し曲がっている。肩で息をし、疲労しているようだが、とても弱っているようには見えなかった。
その姿を悠気は、"バケモノ"を見るような目で見ていた。
直斗は店内を軽く見渡し、まだ新品のバットが残っているのを見つけると、手に持っていた金属バットを放り捨てて、新品のバットを手にする。
新しい武器を手にしてそのまま出ていくのかと思われたが、直斗はどんどん店内に入っていく。
その眼は、何か使えるものがないか物色するような目ではなく、明らかに獲物を追う目をしていた。
直斗のあまりにも恐ろしい形相に、悠気はレジカウンターの裏で身を屈め、小さく震える。
直斗の殺意が自分にだけ向けられていると思うと、恐怖で身体がすくんでしまっていたが、今の直斗の姿を見て、悠気の中では先ほどとは違った考えが生まれていた。
『いつ死んでも構わないが、殺されるのだけは嫌だ……』
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……あの男が店内を練り歩く姿から、俺がこの建物内に逃げ込んだことはバレている可能性が高い。このレジカウンター裏も、きっと後で調べに来るだろう。
外に繋がる出口は最初の入り口しか見当たらず、窓もないので割って出ることもできない。
仮に、俺がこのまま入り口に向かったとしても、俺の早歩きより、あの男の全力疾走の方が早く、簡単に追いつかれる。
つまり、この場所から助かるためには、もうあの男を倒すしかない。
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悠気は覚悟を決め、今、この状況で出来うる事をひたすら考え、何か利用できる物がないか辺りを見回し始めた。
直斗は周りを注視しながら店内をしらみつぶしに歩いていた。サッカーエリア、テニスエリア、バスケットボールエリア、卓球エリア、ソフトボールエリア……。
入り口から近いエリアを順に回っているが、獲物の姿は見当たらない。
獲物がなかなか見つからないイラつきからか、時折、無意味に近くのマネキン人形やガラスショーケースをバットで殴りつけながら、奥へ奥へと進んでいった。
一方、悠気の方は目を閉じ、顔を下に向けてレジカウンターの裏でうずくまっていた。
まるで、恐怖から現実逃避しているかのような姿勢だった。
直斗は最奥部のゴルフエリア付近までたどり着いたが、そこまで行っても獲物の姿は見当たらない。
「隠れてんじゃねぇぞ!! 出てこいッ!!!!」
店の奥で直斗が吠える。
悠気はその声を聞いて、直斗が入り口から十分離れたと確信し、目を見開いてレジカウンターから飛び出した。
そして、後ろの壁にあったライトのスイッチをすべて切った。
途端に天井のライトがすべて消え、店内は一気に暗闇となった。
突然の暗闇に直斗は少し動揺したが、バットを握り直し、不意に襲われても対応できるよう身構える。
悠気の方は、ライトを消す前からあらかじめ目を閉じて暗闇に慣らしていたため、暗闇の中でも直斗の姿がしっかりと見えていた。
そのまま、悠気は音を立てないようゆっくりと歩きだす。
しかし、その足取りは直斗の方へではなく、近くの卓球エリアの方へ向かっていた。
卓球エリアにたどり着いた悠気は、ピン球を静かにいくつか手に取り、そのうち一つを最奥部に向かって放り投げた。
『コーーン、コーン、コン……』
ピン球が地面に落ち、周りに音を響かせる。
「そっちかッ!」
直斗は音がした方向に振り向き、バットを全力で振る。
しかし、バットは虚しく空を切るだけだった。
『コーン、コン……』
再び、直斗の近くで音が鳴り響く。
その度に直斗は身構え、音がした方向を睨みつけるが、まだ眼が暗闇に慣れておらず何も見えない。
ピン球を放り投げる度に、悠気は直斗の方へ近づいていく。
少しずつ距離を詰め、時間を見計らってまたピン球を投げる。音に反応して直斗が行動を取るため、その度に早歩きで距離を狭めていった。
とうとう、悠気と直斗の距離が棚一つ分くらいにまで狭まったが、直斗はまだ悠気の居場所について気づいていない。
悠気は最後のピン球を取り出すと、それを天井に向かって放り投げた。
『コンッ!』
天井に当たったピン球は軽い音を放ち、直斗は反射的に上を見る。
(今だっ!)
その隙をついて、悠気は直斗の方へ一気に飛びかかった。
悠気は、開いた喉元を狙っていたが、飛びかかった際の勢いが足りず、直斗の腰辺りにしがみつく。
完全に虚をつかれた直斗は、突然の出来事に何が起きたかも把握できず、対応が追いつかなかった。
(喉元を狙えなかったが……、仕方ない!)
悠気は口を大きく開け、そして、そのまま目の前にあった直斗の太ももに力強く噛みついた。
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太ももの動脈を切れれば失血死させられる。
ネットで聞きかじっただけの情報を思い出し、どこに動脈があるかも知らないが、もうこれしか無い。
俺はありったけの力を込めて顎を絞めた。
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だが、この噛んでいる最中に、一つ重大な見落としをしていたと悠気は気づかされた。
「ぐぅッ!!」
いきなり太ももに痛みが走った直斗はその場で転倒した。しかし、転倒しても悠気は太ももから口を離さない。
ゾンビとなった悠気の噛む力はすさまじく、直斗は、太ももの肉がそのまま食いちぎられることを覚悟した。
しかし、穿いていた生地の厚いデニムのおかげで、悠気の歯は十分には食い込んでおらず、すんでのところで食いちぎられないままとなっていた。
直斗は痛みを堪え、手に持っていたバットを悠気の頭があるらしき辺りに向かって、おもいっきり振り払った。
『ガッン!』
バットからの鈍い感触とともに、太ももからの痛みの更新が止まる。
悠気の側頭部にバットが直撃し、その勢いで悠気は引き剥がされてしまった。
悠気から解放された直斗は、近くの棚に掴まって、なんとか立ち上がろうとする。
眼も暗闇に慣れ始め、目の前で何かがうごめいているのがうっすらと見える。それが目当ての獲物であることに気づくのに時間はかからなかった。
「こいつが……、陽菜を……!」
直斗は太ももの痛みを忘れるほど自分の気持ちが高ぶっていることを感じていた。
近くの棚に掴まりながら、目の前の悠気に少しずつ近づく。
悠気もゆっくりと立ち上がろうとする。
二人の距離がだいぶ近づいたところで、直斗は棚に掴まりながら悠気めがけて片手でバットを振るった。
再び殴られた悠気は大きくよろけ、後ろの壁にもたれかかるような形でぶつかる。
「あと少しで仇を取れるぞ、陽菜……」
そうつぶやきながら、直斗は片足を引きずりつつ悠気の元へと近づいていった。
脚を引きずりながら、ゆっくりと近づいてくる直斗を前にして、悠気はどうすればよいのかを必死に考える。
しかし、その考えを目の前の男が待つはずもなく、直斗はバットを構えて、今度は横に薙ぎ払った。
バットは悠気の左上腕に当たり、「ミシッ」という鈍い音とともに、悠気は再び地面へと倒れた。
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……完全に形勢逆転された。致命傷を負わすことに失敗し、逆にバットで三度も殴られ、ついには追い詰められている……。
素手同士であれば、まだ戦いようがあったかもしれないが、バットによるリーチ差は大きく、左腕も使えなくなった俺が勝てる見込みは、もう微塵もない。
遠くに見える出口の光を見て、やはり最初から逃げるべきだったと今更ながら後悔する。
あの男が近づいてくる気配がする。
もう終わりかと覚悟し始めた時、俺の目の前で何か光っているのが見えた。
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悠気はそれが何かハッと気づき、右腕だけで這ってその光る物の方に向かっていく。
その後ろからは直斗が無言のまま、どんどん近づいていく。
直斗のバットが届く範囲まで距離が近づき、バットを構えて振り下ろそうとした瞬間、悠気は光る物に右手が届き、それを掴んでそのまま直斗に投げつけた。
落ちて光っていたものは、直斗が割ったガラスショーケースの破片だった。
薄暗い中飛んでいくガラス片はまったく見えず、直斗は防ぐ術もなく顔面にガラス片が直撃した。
「ぐッ!」
思いがけない反撃に、直斗は怯んでふらつく。
さらに、細かなガラス粒子が眼に入ったのか、直斗はまぶたも開けられなくなった。
眼は再び見えなくなった直斗は、追撃を喰らわないためにバットをがむしゃらに振り回す。
バットが当たるとは思っていないが、眼をこすってガラス粒子を取り除くまでの時間を稼くためだった。
その間に悠気はなんとか立ち上がり、直斗には近づかず距離を取った。
このまま出口に向かえば逃げ切れるかもしれない。悠気は、そう一瞬考えたが、ここでこの男を倒すと決めたことを思い出す。
悠気は出口には向かわず、その場で少し考え、何かを思いついたように、近くにあった階段の方へと向かった。
しばらくして、直斗は眼のガラス粒子を取り除き、ようやく目が見えるようになった。すかさず周りを見渡して、階段の方へと歩く悠気を見つける。
「これ以上は、もう逃さねぇ…ッ!」
決意を新たに、直斗も後を追って片脚を引きずりながら階段へと向かっていった。
直斗が階段の下まで到着すると、悠気は既に2階までたどり着いていた。直斗も階段の手すりに掴まりながら一段ずつ登っていく。
時間をかけて階段の踊り場まで上り、続いて残りの2階までの階段を上り始める。ゆっくりだが、バットも杖代わりにして確実に一段、また一段と上がる。
「あと少しだ……」
残りの階段もあと四段となり、直斗の身体には、より力が入る。
どうせまた隠れているだろうが、絶対に見つけ出して殺す。
そう心に決めていた直斗は階段の上を睨みつけながら、さらにもう一段と上がっていった。
残り三段、2階フロアも少し見えるようになってきたと思っていた最中、階段上の端から悠気がゆっくりと出てきた。
その動きは、だいぶふらつきながらの登場で、左腕は力なくゆっくりとぶらついている。
しかし、顔はしっかりと直斗の方を向いており、そして、一際目立つ赤い眼と口は、まるで笑っているように見えた。
次の瞬間、
悠気は、階段の中程にいる直斗めがけて、階段上から飛びかかった。
「なッ!?」
両手は手すりとバットに掴まっており、怪我で素早く動くこともできない直斗は、そのまま悠気の体当たりを直撃し、階段の踊り場まで一緒に転げ落ちた。
直斗は背中を床に強く打ちつけ、痛みに悶える。なんとか我慢して体勢を立て直そうとしたが、既に遅く、悠気が馬乗りになった。
そして、悠気は、今度こそ正確に、喉元を狙って噛みついた。
「ぐっ…あっ……!」
気管を噛みつかれて圧迫されている直斗は息ができなくなり、必死に引き剥がそうとしたが、悠気の右腕が首元を回るように組み付いて離せない。
(絶対に、離すものか!!)
悠気は、顎と右腕に渾身の力を込め、絞め上げる。噛みついた喉から出血し始め、血が喉を通る度に力強く絞められるようになっていくように感じた。
直斗の抵抗はしばらく続いたが、次第に抵抗が小さく弱くなっていき、そして、完全に止まった。
「ひ……、な…………」
これが、直斗の最期の言葉となった。
直斗の動きが止まってからも悠気はしばらく離れず、念のため何度も何度も噛み直し、やがて口内に滴る血の勢いが緩やかになっていくのを感じてから、ゆっくりと離れた。
────
なんとか……、勝てた。
俺は辛勝の余韻に浸り、目の前に倒れている男を眺めていた。
今まで余裕が無かったが、目の前で動かなくなっている男は、よく見てみると俺よりずっと若い男だった。
おそらく、あの女性の家族か友達か、あるいは彼氏だったのだろう。
それを殺されたとなれば、ああも怒り狂って、何が何でも俺を殺そうとしたのは当然のように思えた。
そして、俺は自分自身の身を守るためとは言え、それを返り討ちにしてしまった。
再び心の中で罪悪感が膨らんでいく。
先ほどまで死闘を繰り返した男を前に、俺は怒りでも憎しみでもなく、ただただ、申し訳ないという気持ちが溢れてきた。
しかし、今更そんな気持ちになったところで状況が変わるわけではなく、あの女性や目の前の男が生き返る訳ではない。
だからこそ、いま、俺が何をすべきかを理解した。
俺は、男の前に座り、自分の胸の前で動く右手を立たせ、心の中でこうつぶやいた。
『いただきます』