046. 孤独と空腹
……ん、ここ……は?
気がつくと、私はうつ伏せのまま床に倒れていた。周りは真っ暗で何も見えへんし、頭はまだぼ~っとしていてよくわからへん……。
とりあえず、起き上がろう……。
……あれ?
身体を持ち上げようとしても、何かが身体の上に乗っかっていてまったく持ち上がらへんし、手や足も引っかかって動かされへん?
…………そうやった、私は倒れてきた棚の下敷きになって、それで──。
時間が経つにつれ、自分の身に何が起こったのかはっきりと思い出してきた。
あのとき、倒れてくる棚の間から少しだけ見えたのは間違い無く緑顔の人達やった。あの人達が棚を倒してきたのなら、どうしてそんなことを……。
棚の下敷きになって気絶したあとはどうなったかわからへんけど、あれからどれくらい時間が経ったんやろ……。
泰智くんは? 琴音ちゃんは無事なんかな……。
自分の置かれた状況を考えれば考えるほど、次第に焦る気持ちが強まってくる。でも、身動きが取られへんからどうすることもできへんし、それにまだ近くに緑顔の人達が居るかも知れないと思うと、下手に叫び声をあげることすら怖くてできない……。
何もできず、ただじっとして居るのは辛いけど、ここは二人が助けに来てくれることを期待して待つしかなかった。
……けれども、いくら待っても助けどころか、誰かが近づいてくる物音すら聞こえてこないまま延々と時間だけが過ぎていった。
これだけ待っても来ないとなると、二人の身にも何かあったんかなって不安になってくる……ううん、泰智くんがいれば、どんな危険な状況になっても助かっていた。
だから、今回も泰智くんならきっとなんとかしてくれると信じ続けるしかない……。
…………お腹が空いたなぁ。
どのくらい経ったかわからへんけど、公園で朝食を食べたのがもう随分と前のことのように思えてくる。
最後に食べた板チョコ入りデニッシュパンの味を思い出すと口の中が湿り、こんなことになってしまうんやったらチーズ蒸しパンも食べるべきやったと今になって後悔した。
今度から緊急事態になったらダイエットなんて考えず、食べられるときにお腹いっぱいまで食べてようと心に決めながら、口の中に溜まった唾を飲み込んで空腹を少し紛らわした。
……。
…………いつの間にか眠っていた。
周りの様子もわからず、いつ終わるかもわからない暗闇の中で、ただ静かに待ち続けるのは想像していた以上に辛く、私の精神はゆっくりと追い込まれ始めていた。
ここで生き埋めになってどれくらい経ったんやろ……。もう何日も経ったよう気もするし、まだ数時間しか経ってないような気もする。私が死んでないことを考えれば、おそらくそんなに時間は経ってないんやろうけど、太陽の光も届かないこの場所からじゃ今が昼か夜かも分からへん……。
そして、そんな時間のことよりも空腹の方が深刻になってきていた……。お腹が空き過ぎて頭も上手く働かなくなってきている。もし、このまま餓死するまで閉じ込められたままになってしまうかもと思うと……。
はやく、はやく助けに来て……、泰智くん……。
……。
…………。
……また、いつの間にか眠ってしまっていた。
少し前から空腹に耐えかねて気を失うように眠ってしまい、そして空腹によって無理やり起こされるというのが続いてる。目を開けても閉じても同じ暗闇が広がっていて、いま私は起きているのか、それとも寝ているのかも曖昧な状態のまま、時間だけがゆっくりと過ぎていた。
もしかしたら、生き埋めになったことも含めて今までの騒動全部が夢の中の出来事で、次に起きたときには温かい布団の中で目が覚めて、隣にはぐっすりと眠っている琴音ちゃんが居るかもしれない……とか妄想しても、止まない空腹によって即座に否定されて現実に戻されてしまう……。
そして、空腹のせいでろくに物事を考えられないほど意識は朦朧とし、わずかに残った思考も悲観的な方向にばかり考えるようになっていた。これだけ待っても助けに来ないとなると、二人の身にも何かがあって救助に来れなくなったんやろう……。
救助がもう来ないかもしれないと頭で理解しても、気持ち的にはまだ受け入れられへんかった……やけど、今の苦しみから解放されるなら、今すぐに死んでも構わないとも思い始めていた。
……でも、私はまだ死ななかった。ううん、死ねなかった。人はこんなにも簡単に死ねないものだったなんて、私は知らなかった……。
棚に下敷きになった時点で死ねていたら、どんなに楽だったんやろうなって……今はもうそんなことばかり考えるようになっている。
こんな酷い状況が続いていれば、いつ頭がおかしくなっても不思議じゃないと思った。それでも、未だに私が正気を保ってられるのは、きっと肌身離さず身につけている指輪のネックレスのおかげなんやと思う。
わずかに動かせる上半身を揺らすと指輪が身体に当たる感触がわかり、それが伝わってくる度に泰智くんの顔が頭の中に浮かんでくる。
指輪をプレゼントされた日、この指輪を着けて二人っきりでお祭りに行った日、そして……。
この指輪には思い出がいっぱい詰まっている。それを思い返している間だけは幸せな気持ちが蘇ってきて、空腹も少しは紛れてくれた。
もう涙が出る水分すら残ってへんけど、この指輪と一緒なら少しは安らかに死ねると思えた……。
……いろいろ考えているうちに、また眠たくなってきた。
私はもう助からないとしても、せめて泰智くんと、それに琴音ちゃんも無事に大阪まで帰ってくれることを願って、また寝よう……。
叶うなら、次はもう目が覚めることがないと嬉しい、な……。
……。
…………。
……………………………………………………『ガタンッ』
…………何か、音が聞こえたような……。
………………………………『ガシャン』
頭の中に音が響いてくる……でも、この音が夢か現実かも判断つかへんようになっている……。
……『ガタンッ、ガタンッ!』
音がどんどん大きくなってる気がする……。空腹を忘れるためにも、お願いやから静かにして欲しい……。
『ガシャンッ!』
耳元付近で大きな音が鳴ったあと、急に静かになった……よかった、これで眠ることに集中できる……。
……。
…………。
……あれ、今度はなんか身体が揺らされているような感じがしてる……?
地震かなと思いながら、うつらうつらとしていたら、今度は背中を強く叩かれてしまい、それのせいで身体の上に乗っていた棚がどかされていることに気がついた。
誰かが助けに来た……? もしかして、泰智くんがようやく来てくれたんかな……。
意識が混濁している中で私はうつ伏せたまま手を伸ばすと、その手の先で何かを掴めた。それはすぐに振りほどかれてしまったけど、それでも誰かが近くに居ることと、身体が自由に動かせるようになったことを把握した。
私の身体はもうとっくに動けないと思っていたけれど、これで助かるかもしれないという気持ちが後押ししのか、残った力を振り絞って上半身を起こすことができた。
顔を上げて前方を見ようとする。久しぶりに照明のある場所に出たせいなのか、それとも栄養失調のせいなのか、目の前の景色は酷くぼやけて見えていたけど、私の前に誰かが立っているのがぼんやりと見て取れた。
泰智くんにしては身体が小さく、雰囲気もなんとなく別人のようだけ思ったけど、今はこの生き埋めから脱出させてくれた人が居たということだけで嬉しい気持ちがいっぱいになっていた……。
お腹が空き過ぎて声が出せず、感謝の言葉も言われへんかったけど、目の前の人は私の状態を察してくれたのか、何かを私に差し出してくれた。
霞んだ視界から薄っすらと見えたのは、小麦色で長太い棒状のようなもの……フランスパンか何かみたいやった。
匂いを嗅いでもそれが何なのかはわからへんかったけど、なぜか差し出された物が食べ物であるということは直感的にわかり、それを私は受け取ると、お礼も遠慮も忘れて無意識にひと口かじっていた。
……美味しい。
想像していたフランスパンより弾力があって噛みごたえのあるものやったけど、噛みしめる度に味が溢れてきて、その美味しさに一瞬で虜になってしまった。
水分をよく吸っているのか、噛んでいると汁気が出てきては口内の潤いを取り戻していき、それをゴクリと飲み込めば何日かぶりに喉の乾きが癒やされていく。
まだ口の中に残ったままなのに我慢できずまたひと口、ふた口と食べていく。こんなに美味しいものを食べたのって数年ぶりくらいと思えるほど、ホンマに美味しかった。私はそんなに食べる方やなかったけど、もっともっと食べたいっていう気持ちになっていた。
でも、この食べ物って何なんやろう……? なにかの味に似ている気はするんやけど……でも、今は何も考えず、とにかく食べたい……!
そうして、私は黙々と食べ続けていると身体中に栄養が急速に行き渡り始めたのか、頭が次第に働くようになってきて、目もだんだんと焦点が合うようになり始めていった。
ボヤけていた像が輪郭を描き始め、付近にある物もしっかり見えてくるようになり、手元まではっきりと見えるようになると、私の手はピタリと止まってしまった。
私がたったいま手に持っていたものは、フランスパンでも何でもなく、それは"人の腕"のようやった。
その腕には真新しい噛み傷が複数あって、そこからさらに血が垂れ続けており、それが白い床に落ちて赤い斑点を作っている。
…………え?
私がさっきから食べていたものって……。
働きかけていた私の頭が、また止まってしまっていた。
でも、手に持った腕の存在が、私が食べていたものを如実に物語っており、先ほど何かの味に似ているなと思った答えは"血の味"だったのだと、ようやく理解した。
……い、嫌ァァァッッ!!!!
私は思わず持っていた腕を放り投げてしまった。腕は近くの棚に当たり、大きな音を立てながら地面を転がっていく。
それを目で追いながら、私は一瞬にしてパニックに陥っていた。さっきまで美味しく食べていたものが人肉だったと気づいたときには既にほとんど飲み込んだあとで、それはもうどうしようもない……。
せめて、まだ口の中に残っている分は吐き出してしまおうと考えたけど、それよりももっと重大な事があることに気がついてしまった。
私を助けて、いきなり人の腕を差し出してきた人ってのはいったい誰なん……? そんなん絶対に普通の人じゃないやん……!
私は、恐る恐る顔を上げて奥の方へと視線を向けた。
そこには、薄汚れたスーツに変なネクタイを着けているサラリーマンのような格好をした緑顔の人が、私のことを睨みつけるように見ていたのだった……。




