042. クラスメイトと外の人達
先生に襲われた女子生徒は、とても人の声とは思えないような声を上げながら必死にもがいていた。
狭い座席で身体をよじらせながら、先生の手を引き剥がそうと抵抗を続けているが、か細い腕で成人男性の力に抗えるはずもなく、隣に座っている女子生徒も助けに入るどころか怯えて身を引くのがやっとの様子である。
その間にも先生は容赦無く女子生徒に噛み付いていき、噛まれる度に女子生徒はまた悲鳴を上げる。
そして、その様子を阿依と琴音は信じられないものでも見ているかのように眺めていた。
「先、生……?」
「なんなん、これ……」
二人の瞳には目の前の惨劇がしっかりと映っていたが、それはあまりにも現実味が無い光景過ぎて、酷く質の悪いおふざけのように見えていた。
だが、暴れる女子生徒の血しぶきが飛び散って頬にかかり、そして仄かに香ってくる血の匂いから、これが現実であることを思い知らされる。
二人が数秒かけて目の前の光景が夢幻ではなく、紛れもない現実であることを理解し、同級生が先生に襲われているという事実をようやく受け入れた頃にはバス内は血で染まり、その血を流した女子生徒は席に倒れこんで虫の息となっていた。
それでも先生は襲う手を緩めようとはせず、今度は女子生徒に馬乗りになって執拗に噛みついていく。
「嘘やろ……そんな陰口言われただけで、ここまでするやなんて……」
「……うぷッ!」
間接的にこの惨劇を引き起こしてしまったと絶望する琴音と、あまりにも猟奇的な光景に思わず嘔吐く阿依。
近くにいる他の生徒達も言葉を失いながら狼狽えたり、奥歯をガチガチ鳴らしながら恐怖に震えている。誰一人として先生の凶行を止めようとする者は居なかったが、ごく普通の高校生にそれを求めるのは酷な話であった。
「け、警察を呼ばへんと!」
「それより救急車やって! 誰かスマホは!?」
「バス乗る前にみんな取り上げられたやんか! 外まで助けを呼びに行かなあかんって!」
そう言うと、生徒達はバス前方のドアや、後方の非常ドアに向かって押し合いへし合いしつつ駆け出し始めた。具合の悪そうにして動けない生徒も居たが、そんな同級生にかまけている余裕は無い。
同級生を助けたいという思いは確かにあったが、それよりも今はこの場からとにかく離れたいという思いも強くあって、生徒達は逃げるよう動いていた。
だがしかし、男子生徒の一人がドア前までたどり着き、そのままドアを開けようとしたが、なかなか開けられない様子であった。
「はよ開けろや!」
「バスのドアの開け方なんて知らんて! こんなん開けたことないし!」
「なら、つぶしてもええから蹴っとばせ!」
「グッ、このッ!」
男子生徒はドアを何度か蹴りつけるが、金属製のドアは硬く、強化ガラス部分ですらビクともしない。体重を乗せて体当たりをしても結果は同じであった。
「クソッ、ぜんぜん開かへん!」
「あっ、あそこ見て! 前から人が歩いてきてる!」
そう言うと、女子生徒の一人が前から歩いてくる人達を指差していた。
歩いてくる人達に気づいてもらうため、生徒達は手を降ったりフロントガラスを叩いたりして必死にアピールして助けを求めると外の人達も生徒達に気づいたようで、バスに向かって駆け寄ってくる。
まだ不安と恐怖は残っているが、これで助けを呼ぶことができればなんとかなりそうだと生徒達は少し安堵した顔を見せた。
程なくして一番先頭を歩いていた老婆がバスの前にまでたどり着くと、生徒達はこぞって「助けて!」と叫びながら、救急車や警察を呼んでもらえるようジェスチャーで助けを求めた。
しかし、生徒達に対して老婆の反応は冷ややかで、口を半開きにしたまま生徒達をジッと見つめ続けているだけであった。
「おばあちゃん、助けてって!」
「お願い! 耳聞こえてへんかっても焦ってるってわかるやろ!」
必死に救難アピールを続ける生徒達の声がようやく伝わったのか老婆が動き出すと、今度はゆっくりと右腕を高くかかげ始めた。
「おばあちゃん、そんな意味わからんことやらんでええて!」
「スマホ持ってないんなら、せめて他の人を呼んでよ!!」
意味不明な行動をし始めた老婆に対し、生徒達は少しずつ怒りと困惑がこみあげてきている。焦っている状況なら尚更である。
もしかすると、この老婆がボケているのではと勘ぐり始め、そのボケ具合に生徒の一人が我慢できなくなって怒声を浴びせようとした、その時であった。
突然、老婆は振り上げた右腕を勢いよくフロントガラスに叩きつけた。
『ビキィッ!』
フロントガラスに細かいヒビが一斉に走り、一面が真っ白に染まる。それに併せるかのように、老婆の奇行に驚いた生徒達の頭が真っ白に染まっていく。
そして、老婆はヒビ割れたフロントガラスを気にかける様子もなく続いて左腕をかかげると、再びフロントガラスに叩きつけていった。
『ガシャンッッ!!』
拳はガラスを突き破り、そこにはフロントガラスから腕が生えている異様な光景が現れていた。
腕にはガラスがいくつも突き刺さって血が垂れ流れされており、それを見た生徒は「ひっ……!」と悲鳴を上げて身を引いた。
老婆が何事もなかったかのようにそのまま腕を引き抜こうとすると、腕に引っ張られる形でフロントガラスがベリベリと剥がされていき、あとにはフロントガラスの大半を無くして大口を開けたバスの姿があった。
「このおばあちゃん、やることがエグいな……」
「で、でも、これで外に出られるやん!」
「おばあちゃん、ありがとうな! その……手は大丈夫なんけ?」
両腕が血で染まっている老婆を心配して、男子生徒が身を乗り出して老婆に近づいていく。
老婆は呻き声の一つすら上げず沈黙を続けていたが、バスの中から近づいてくる男子生徒に気がつくとニカッと笑い、そして、そのまま目の前の男子生徒に向かって優しく噛みついていった。
「……え?」
噛まれた男子生徒は一瞬、何をされたのか理解できなかった。
だが、『ゴリッ、ゴリッ』という音と共に激痛が脳に届き、自分の身に何が起きたのかがわかると、その次には大きな悲鳴を上げていた。
男子生徒が老婆を引き剥がそうとするがビクともせず、それどころか逆にバスの外にまで引きずり出されそうになっている。その力は強く、とても老婆のものとは思えない。
後ろの生徒達も、ただ唖然とするばかりだったが、そうしている間にも事態はより混乱が加速していく。
老婆のあとから追いついてきた人達がバス前にまで到着すると、まるで老婆に協力するかのように噛まれた男子生徒を掴んでバス外へと引きずり落とし、その作業にあぶれた人達はバスによじ登って中に侵入し始めていたのであった。
侵入してくる人達もまた何も話そうとはせず、しかし、その姿はどう見ても生徒達を助けに来たようには見えない。生徒達も目の前の人達が何か危険だということは本能的に理解し、引きずり落とされた男子生徒を心配する余裕も無く後ずさりし始めていた。
「この人ら、なんかヤバいって……」
「に、逃げよう! はよ後ろ下がってって!!」
「ちょ、押さんといてって! あっ!」
狭い通路で押された生徒が転び、それに躓いた生徒が将棋倒しに転んだ。そして、それを見逃されるはずもなく、一番近かった生徒が人達に捕まっては襲われていく。
バス内で阿鼻叫喚の地獄が繰り広げられ、大勢の生徒達が逃げ惑う。この地獄から脱出できるとすれば、あとはもう後ろの非常ドアしかなく、生徒達はそこから続々と逃げ出し始めていた。
だが、そんな中でも阿依達はまだ自分達の座席に居座ったままであった。
「琴音ちゃん、逃げようよっ……!」
「……」
阿依は、この場からすぐに逃げなければならないと頭ではわかっていた。
だが、前の席からクチャクチャと咀嚼しているような音が聞こえてくると脚がすくんで思うように動けず、琴音を揺すって呼び掛けても、先ほどから固まったまま反応を返してくれない。
他の生徒達は逃げることに必死で二人に気を留めている素振りすらなく、この場から逃げ出すなら自力で何とかするしか無い。
だが、そんな状況の中で阿依がとった行動は……、目を閉じ、耳を閉じ、口を閉じて身を屈め、ただその場で震えることだけであった。
(修学旅行に来ただけやのに、なんでこんな目に……こんなんおかしいやん……! 夢じゃないとしても早く終わって……)
次に目を開けた時にはこの惨劇が終わっているかもしれない。そうでなくても、このまま伏せていれば見つからずにやり過ごせるかもしれない。もしかしたら、突然カメラと芸能人が現れて実はドッキリでしたとネタ晴らしされるかもしれない。
自分にとって都合の良い願望だけを思い浮かべて阿依は沈黙し続ける。
それが何の解決にもならないことが分かっていても、阿依には自力で逃げる勇気も、ましてや親友を見捨てて逃げる勇気も無かった。
──数十秒は経っただろうか。
外ではまだ騒ぎ声が聞こえてくるが、バス内では悲鳴やドタバタ鳴り響いていた足音が止んでいた。そのことに気づいた阿依は薄っすらと目を開け、自分がまだ無事であることを再確認する。
うつむいたまま横に視線を向けると琴音の脚が見え、少なくとも一人にはなっていないことに少し安心した阿依は、ゆっくりと顔を上げた。
そこには、一人の男が立っていた。
返り血を浴びたような汚れがこびりついたポロシャツ姿で、口を半開きにしながら赤く充血した眼で阿依の方を見つめている。
「あ……ああ……」
もはや悲鳴すら出なかった。男の異様な雰囲気に飲み込まれた阿依は言葉を失い、男も阿依達に気づいた様子で、ノロノロと近寄ってくる。
隣の琴音はまだうつむいたまま男に気づいている素振りすら見せていない。
(お願い、誰か……誰か助けに来て……!)
この期に及んでも、阿依は他の助けが来ることを待ち望んでいた。
だが、その願いが目の前の男に届くはずも無く、男が二人の近くまでやってくると、無言のまま両腕を前に伸ばし、そのまま掴みかかるように襲い掛かってきていた。
……が、しかし。
『ドガッ!!』
次の瞬間、男の身体は宙を舞い、前の方の席にまで吹っ飛んでいた。
その様が阿依の目にはスローモーションのようにゆっくりと見え、倒れた生徒を貪っていた人達を巻き込みながら落下すると、ハッと我に返った。
阿依がおそるおそる視線を戻すと、そこには人の脚がまっすぐ突き出されていた。
一本の柱と見間違うほど太く長いその脚がゆっくり降ろされていくと、先ほど目の前に居た男はこの脚によって蹴り飛ばされたのだと、阿依はようやく理解した。
そして、人をここまで蹴り飛ばせるような人物を、阿依はただ一人しか知らない。
脚の持ち主は前で倒れている人達がすぐに起き上がってこれなさそうだと確認すると、前に乗り出して姿を見せた。
脚の太さに見合うだけ体格の良い男子生徒が阿依の前に現れ、そのまま阿依の方に顔を向けると、必死の形相でまくしたてた。
「阿依、大丈夫!? ケガは?」
「泰智くん! うん、うん、平気だよ!」
「はぁ、よかったぁ~……。バスにまだ残ってるとか聞いてめっちゃ心配したけど、何とか襲われる前に間に合ったな!」
泰智は阿依の無事を確認すると、優しく微笑んでいた。それを見た阿依も涙目になりつつ緩んだ表情になっていく。
「とりあえず、このバスから出よう。外もなんか様子がおかしいし」
「え、おかしいって?」
「理由はわからんけど、そこら中で取っ組み合いのケンカが始まってるんやし。近くで火事も起きているようやし、なんか暴動みたいになってるらしくて」
「そうなん……。それでバスにも変な人達が入ってきて……」
「まぁでも安心して! 阿依はオレが守るからさ!」
「うん、泰智くんが助けに来てくれて本当に嬉しかった。あ、でも琴音ちゃんがまだ……」
二人の会話している間で、琴音はまだうつむき固まっていた。目の前であれだけの騒ぎがあってもまだ放心しているようである。
「この子、たしか阿依と仲良しの子だっけか。どうしたん?」
「目の前でクラスメイトが襲われるのを見て、それでショックを受けたみたいで……」
「それは確かに応えるやろな。このまま置いていくわけにもいかんし、そうやなぁ……よし!」
泰智は琴音の両腕を強引に引っ張って立たせると、そのまま琴音を背負って軽々と持ち上げた。
「流石に彼女の前でお姫様抱っこはできんけど、これなら運べるわ。……阿依も嫉妬せんといてな?」
「もぅ、こんな時にそんなん気にせぇへんよ!」
「ハハハッ、じゃ外に向かうで!!」
そう言うと、泰智は非常ドアへと駆け出し始め、その後から阿依も続いていく。
バスから降りる途中、阿依はふと思い出したかのように後ろを振り返ると、先生がこちらを見ていた。
追いかけてくる様子は無かったが、それでも何か得も言われぬ不安感を覚えた阿依は、黙りったまま急いでバスから出ていくのであった。




