004. 逃走の時
悠気は、目の前に映った光景が信じられなかった。
しかし、手を動かせばガラスに映った化物も手を動かし、頭を左右に振れば同じように振った。
手で自分の顔を触ると、浮いた血管で肌が凹凸しているのがわかる。
その姿はまるで、洋画に出てくる"ゾンビ"のようだった。
(なんだこれは……、どうなっているんだ……)
夢なら覚めて欲しいと悠気は願った。
だが、肌を触った時のリアル過ぎる感触と、まだ口の中に残る血の味が、これが夢ではないことを物語っていた。
悠気は自分の体に起きた現実を受け入れられないまま、その場に佇ずむしかなかった。
しばし、静寂が流れる。
このまま延々と時間が過ぎていくように思われたが、この静寂は長くは続かなかった。
「何やってんだテメエッ!」
突然、男の大声と共に、悠気の身体はいきなりふっ飛ばされた。
悠気は受け身もとれず、ふっ飛ばされたまま地面に転がっていく。
大声の主は、紺のジャケットにデニムを穿いた若い男だった。顔は赤く高揚し、息遣いは荒く、鬼気迫る表情で悠気を睨みつけている。
その男の手には金属バットが握られており、バットの胴体部分が少しへこんでいた。それは、たった今、悠気めがけて全力でフルスイングした跡を表していた。
男は、目の前に転がっているゾンビが倒れたまま立ち上がってこないことを確認し、血まみれになって倒れている女性の方へ視線を移して、側で屈み込んだ。
「おい、陽菜! ……生きてるか!!」
男は先ほどとは打って変わって泣き出しそうな顔で、陽菜と呼んだ女性の顔を覗き込む。
虚ろな目をしていた陽菜と呼ばれた女性は、ゆっくりと男の方へと視線を向けた。
「……あ………、な、…おと…………」
「あ、あぁ!直斗だ!オレだ!!」
直斗と呼ばれた男は、弱々しい声で喋る陽菜に向かって力強く応える。
「ごめ…んね、………せっかく、逃してくれたのに……逃げ切れ、なかっ…た…」
「もう大丈夫だ! オレがなんとかする!!」
「……あり…がとう…。…でも、…も、う……」
陽菜は、左上腕の大部分と腹部の3分の1ほどが食い散らかされていた。おびただしい出血をしており、その出血ももう勢いは無い。
誰がどう見ても、陽菜が助からないことは確実だった。
「諦めるな! ……きっと、きっと助かる!!」
直斗も、既に陽菜が助からないことはわかっていた。
だが、これ以上の言葉が思いつかない。
直斗が今できることは、無事だった陽菜の右手を握ることだけだった。
「最…後に、……直斗に会えて、よかっ…た……。だい、好き…だった…よ」
そういって笑顔を見せた陽菜は、やがて、眠るように動かなくなった。
直斗は、目に涙を貯めながら声を噛みしめるように歯を食いしばり、陽菜の身体を強く抱きしめた。
少しずつ冷たくなっていく陽菜の温もりを、決して忘れないようにするために…。
その二人が抱き合っている後ろで、一つの人影が少しずつ遠ざかっていく。
人影の正体は、悠気だった。
(殴られた衝撃で少し気を失っていたが、おかげで意識がはっきりした。この場に居続けたら、俺は間違いなくあの男にトドメを刺されるだろうな……)
そう直感した悠気は、なるべく音を立てずに立ち上がって静かに歩きだしていた。腹がいっぱいになるまで食事をしたおかげか、身体は来た時よりも力が入り、足もふらつかない。
(急いで逃げなければならないが、焦ってバレないようにしなければ……。慎重に、気づかれないよう注意しながら歩く。大通りにさえ出てしまえば、いくらでも隠れる場所があるはずだ……)
悠気が数十メートルと離れた頃、直斗は陽菜をそっと引き離して寝かせ、陽菜の手を胸の前で静かに組ませた。
そして、先ほどやり残していた、陽菜をこんな目に遭わせたゾンビ相手に相応の報復を行うため、金属バットを握り直して後ろを振り返る。
しかし、先ほどまで地面に転がっていたゾンビの姿はそこには無く、いつの間にか遠くまで逃げている姿を見つけた。
「……あんの野郎っ!!」
直斗は再び身体が熱くなっていくのを感じたが、陽菜をこのままにしておくと、他のゾンビに再び襲われてしまう。
周りを見渡し、近くに止まっていた車の存在に気づくと、直斗は近づいて金属バットで車の窓ガラスを打ち砕いて、後部座席のドアを開けた。
そして、陽菜を抱きかかえて車の元へと運び、後部座席に陽菜をそっと寝かせた。
「あとで、迎えに来るからな……」
そう言い残して車のドアを閉じた後、直斗は悠気がいた方向へ全速力で駆け出していった。
悠気の方は、道を知らないで進んでいたにも関わらず、どうにか大通り近くまでたどり着いていた。
目の前に広い道との交差点があり、向かい側の通りに見えているのは、朝見た記憶のある飲食店だった。
(ようやく、たどり着けた……)
悠気は、目的の大通り近くまで来られたことに少し安堵する。
焦りと、早く逃げのびたいという気持ちが強まった悠気は、いつしか静かに歩くことを辞め、早歩きになっていた。
大通りにどんどん近づく。もうすぐだ。
だが、大通りに近づくにつれ、何かの音が聞こえてくるようになっていき、悠気は、何故か嫌な予感が強まっていた。
そして、その嫌な予感の正体は、悠気が大通りにたどり着いて判明した。
商業エリアは平日休日問わず人が集まっている場所だ。
当然ながら、一番人が集まるのは商店の多い大通りの方で、今朝の時点でも既に人が何人か集まっているのを、悠気は見ていた。
そして、それは今も例外ではなかった。
大通りには、いたるところで人だかりが出来ており、大小様々な騒ぎとなっていた。
その人だかりは、普段の仲良しグループの集まりや、催し物の見物ではなく、人間とゾンビが争っている現場であった。
人間側はそれぞれが片手持ちのかなづちや包丁、あるいは長い棒のようなものでゾンビ達に殴りかかっており、警察と思しき人間は拳銃でゾンビを撃っている。
ゾンビ側は素手だけで襲いかかっているが、その数は多く、その力は強く、人間達に凶器で殴られても意に介さず突撃している。
武器を持つ人間達と、数で押すゾンビ達。
その力差は拮抗しているように見え、どちらが勝つかはわからない状況に思えた。
この騒ぎの渦中に入り込めば、乱闘に巻き込まれる可能性が極めて高い。
悠気は大通りを前にして、これ以上進むことを躊躇せざるを得なかった。
(どうする? このまま行くか? それとも、引き返して他の道に逃げ込むか?引き返すと、今度はあの男に見つかる可能性があるが……)
判断を誤ると死ぬ。
即断しなければならないことを悠気は理解していたが、どちらの案がより安全かは判断しかねていた。
(ここはもう勘で決めるしか無い。……目の前の危険度が高い大通りより、別の道の方が安全だ!)
そう判断した悠気は、引き返して他の道を探すことを決意し、後ろに振り返った。
そして、その決意が誤っていることを即座に理解した。
悠気のいる場所から数十メートル後ろの方で、悠気に向かって全速力で走ってくる人間の姿が見えた。
(……あの男だ。目的が何なのかは明白だ。間違いなく俺を殺すためだけに向かってきている……)
この時点で、悠気はもう危険な大通りに逃げるしか術が無くなってしまった。
悠気は再び前に振り返り、出来る限り早歩きで大通りの中へ飛び込んでいった。
(……見えた、追いついた!)
直斗は走りながら、遠くの方に見えるサラリーマン風のゾンビを睨みつけた。
何故かこちらの方を振り向いたゾンビが見覚えのある青ネクタイをしているのを見て、それが目当ての獲物であることを確信する。
ゾンビが前に振り向き直し、大通りの中へと入っていく。
「逃がすかッ!」
直斗は速度を上げ追いかける。
すぐさま大通りまでたどり着き、そして、人間とゾンビ達による乱闘現場を目にして動きが止まってしまった。
普段からよく遊びに来ていた大通りがゾンビだらけになっているというショックもあったが、それよりも、先ほど見つけた目当ての獲物を再び見失ってしまったことに、怒りを覚えていた。
「どこいったぁッ!!!」
思わず怒号を挙げる直斗に周りのゾンビ達は反応し、直斗に向かって突撃していく。
直斗は手に持った金属バットを振るって近づいてくるゾンビを次々と殴り倒し、辺りを見渡しながら目的のゾンビを探し続けた。
その姿を、少し離れたところでゾンビ達に紛れながら確認する悠気の姿があった。
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なんとか、凌げているか……。
俺の事を完全に見失っている男の姿を見て、ゾンビ達の中に紛れる作戦は正しかったと心の中で頷いた。
木を隠すなら森の中、という諺があるが、これを最初に考えた人は本当に賢いと今更ながら思う……。
このままゾンビ達の群れの中でやり過ごすことも考えてみたが、絶対安全というわけではないし、対峙している目の前の人間達も、いつ俺に襲い掛かってくるのかもわからない。
次の逃げ道を考えないと……。
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悠気は、より安全な場所に逃げるため周りを見渡し、ちょうど目の前に入り口のガラス扉が割れているスポーツショップがあることに気がついた。
2階建ての大きな店で、入り口からでも野球やテニスのスポーツ道具がずらりと並んでいることが見て取れる。
(あそこに一旦逃げ隠れるか……)
そう考えた悠気はゾンビの群れから離れ、足早にスポーツショップの中へと入っていった。
ちょうど、10体目のゾンビの頭をかち割った直斗が顔を向けた先に、そのスポーツショップがあったことには気づかずに。