003. 最初の犠牲者
「……うっ」
日が登り、道路脇の街路樹が風に揺られてざわざわと音を立てている最中、俺はうっすらと意識が戻ってきた。
左頬が熱い、アスファルトの臭いがする。
どうやら乗っていたバスから放り出されたようで、俺はいま、道路に倒れているようだ。
意識と視界がまだはっきりしないが、なんとか立ち上がろうと両手に力を入れる。少しずつ上半身が持ち上がり、ぼやける視界が高くなっていく。
頭が地面から離れた際に、肌を伝って体から血が流れていくのを感じた。
流石にバスから放り出されて無傷ではなかったが、骨折や致命傷までは負っていないようで、生きているだけでも奇跡的だった。
両脚も問題ないようで、いくつか擦り傷をしていたが、ふらつきながらもなんとか立ち上がることができた。
眼も少しずつ回復し、顔を上げて周りの景色を眺められるようになってきた時、初めて異常事態が起きているのだと理解できた。
いくつもの車がいたるところで衝突、大破して横たわり、近くの建物では出火しているところや、車が突っ込んで内装がめちゃくちゃになっているところまである。
近くに見える人達は倒れているか、俺のように怪我をしている人ばかりで、無事な人間はもう避難したのか誰一人いない。
『"何か"が起きている』
頭ではすぐに理解できたが、目の前の状況に思考が追いつかない。
何が起きた?これからどうなる?どうすればいい?避難するか?できるか?カバンはどこへいった?今の場所はどこだ?会社はどうなった?いまは何時だ?俺のスマートフォンはどこだ?歩けるか?食べ物は?飲み物は?……
色々疑問が沸いては答えも無く消え、まるで他人事のように今の俺が極めて混乱していることだけが実感できた。
考えているうちに藁にもすがる気持ちになったのだろう、周りの人も同じ状況だということはわかっているはずなのに、俺は他の人に助けを求めるべきだという結論に達した。
普段から大声を上げることなんて全くない生活を送っていた。
最後に叫んだのは中学の体育祭くらいだったと思うが、この時ばかりは街中に響き渡るような声で「助けて!」と叫んだ、叫ぼうとした。
……が、声が出ない。
息を大きく吸い、腹から声を出すつもりで叫ぶ動作をしたが、大きな溜息を吐いたのと合わせて「あぅぇぇ…」と、小さく濁ったような声が出ただけだった。
なぜか声が出ない、助けを呼べない、助からない。
どうにもならない悪状況から抜け出す方法がわからず、頭はパニックから現実逃避という名の意識混濁に移りつつあった。
……このまま死んでしまうのだろうか。
あやふやな意識のまま突っ立って、頭の中に死の思考が広がり始めたとき、後ろの方で大きな叫び声が聞こえてきた。
反射的に振り向くと、少し離れたところで非力そうな男と大柄の男が組み合っており、大柄の男が何かをわめいていた。
しばらくして、大柄の男が非力そうな男を押し倒し馬乗りになった。そのまま大柄の男は拳を振り上げ、下敷きにした非力そうな男の顔面におもいっきり拳を叩きつけた。
何度も何度も殴りつけ、その度に非力そうな男の身体が少し跳ねる。
大柄の男の拳は見る見るうちに真っ赤に染まっていき、そのまま殺すつもりで殴っているように見えた。
目の前で人が殴り殺されようとしている。
普段であれば、このショッキングな映像を見た俺はショックで何もできず固まっていただろう。
だが、わけのわからない状況で明確な危険が目の前に現れたいま、この危険から今すぐにでも逃げないと、という単純な答えに至った。
どういう理由で大柄の男が非力そうな男を殺そうとしているかはわからないが、この緊急事態から考えると暴漢か強盗の可能性が一番高い。
そして、その見境の無い暴力は目についた弱そうな奴を襲うだろう。
身体から血を流して助けも呼べず、見た目も貧弱な俺は格好の餌食になる。
まだ大柄の男がこちらに気づいていない内に、大柄の男とは逆方向に向かって、可能な限り早足で逃げることにした。
今の体調で走るなんてことはできないが、早歩きくらいなら十分できる。
広く目立つ車道から離れるために、人の気配の少ない側道の方へ俺は駆け出していった。
後ろを振り返らずひたすら進むこと数十分。
住宅街らしきところまで出てきたが、特に後ろから追われる気配もなく、とりあえず危険から離れられたと安堵のため息をついた。
まだ安全になったわけじゃないが、怪我をしている身体を少し休めようと思い、脇道にある物陰の裏に隠れるように座り込んだ。
一安心して気持ちを落ち着け、これからどうすべきか考えようと思った最中、「ぐぅぅー」とお腹が鳴り、ひどく空腹であることに気づかされた。
そういえば、朝にコーヒーを一杯飲んだだけで、そこから何も食べていない。
普段から朝食を食べる習慣をつけておくべきだったと、今さらながら後悔する。
近くにコンビニやスーパーが無いか考えてみたが、こんな状況下できちんとお店をやってるとは思えないし、身一つで逃げたため、お金も無い。
目についたいくつかの家のブザーを鳴らしてみるも反応は無く、緊急事態とはいえ不法侵入を試みるほど無秩序な考えにはなれなかった。
けっきょく避難所を探して、そこで怪我の治療と食料を貰うのが無難だと考え、避難所へ向かうことにした。
土地勘が無く、避難所の場所どころか現在位置も不明だが、行き道にあった役所エリアまで行けば、必ず何か避難所があるはずだ。
なんとなくの方角は見当がついているため、暴漢に遭わないようなるべく隠れながら人の気配が少ない道を選んで進むことにした。
時折、少し離れた場所から悲鳴や叫び声が聞こえ、その度に身構えて隠れるように身を伏せる。
臆病になっているのかもしれないが、これくらい用心しながら進まないといけないと自分に言い聞かし、周りによく注意しながら、ひたすら歩いた。
途中、俺のようにふらつきながら歩いている人や、うずくまっている人、力尽きたのか道端で倒れている人を遠目で見かけた。
残念ながら俺も怪我と空腹で余裕はない。そのまま見捨てていくしかなかった。
……どれぐらい歩いただろうか。
時間で言えばそこまで経っていないだろうが、1秒1秒が非常に長く感じる。
空腹がかなり効いており、血も流しているせいか、再び意識が濁るような感覚に陥ってきていた。
足取りはどんどんふらつき、歩みも遅くなる。
気を抜けば、足が止まってしまいそうになるのをなんとか気合で動かしているような状態だ。
とうとう壁に手をつきながらナメクジのようにゆったりと進むようになり、俺は知らない内に広い道の方へと少しずつ近づいていた。
小さな交差点の角を曲がり進んでいくと、小さなお店がポツポツと見えだした。
ようやく商業エリアの近くまでたどり着けたようだ。
朝、バスで通った大通りよりシャッターを開いている店が増えていたが、人の姿は見当たらない。
路肩に停車している車にも誰も乗っておらず、まるでゴーストタウンのようだった。
俺は、フラフラになりながらも出来る限り警戒して商業エリアの中を進んでいく。
もう知らない道を手探りで歩いて行く余裕はない。
道のわかっている大通りから役所エリアへ向かうしか無かった。
しばらく進んでいると、服屋の辺りで若い女性が壁にもたれかかって佇んでいるのが見えた。
青みがかった黒いロングヘアーに、淡いベージュ色の肌、風通しの良さそうな半袖の白いワンピースを着た格好をしており、歳は10代後半から20代前半頃に見える。
目立った怪我をしているようには見えないが、どこかから逃げてきたのか、肩で息をして呼吸を整えているように見えた。
怪我をしていない無事な人間なら助けを求められるだろう。そう判断した俺は、何の疑問もなく彼女の方へ足を進めた。
彼女は下にうつむいているため、俺に気づいてくれる気配がまったくない。
俺も声が出ないので、遠くから声をかけられない。
仕方なく、ふらついた足つきでゆっくりと彼女の元へ近づいていく。
疲労と空腹で意識が朦朧として、大きくふらつきながらもなんとか持ちこたえる。
もう目の間にまで近づいても彼女はこちらに振り向く素振りすら見せなかったため、俺は彼女の肩めがけて手を伸ばした。
そのまま、俺の手は彼女の左肩をガシッと力強く掴み、そして、覆い被さるように体重をかけて彼女を押し倒して、目の前に見えた細い左の二の腕めがけて噛み付いた。
歯をしっかりと食い込ませ、肉を食い千切るために顔を力強く引き上げようとする。
表面の皮膚が裂けてきたようで、口の中にじんわりと血の味が広がっていった。
「きゃぁぁ!!!!!!!!!!!」
突然の出来事に彼女は動転し、手足をバタつかせながら俺の耳元でつんざくような金切り声を挙げた。
俺はかまわず噛み続ける。
「やめてッ! 離してッ!!」
彼女は甲高い声を挙げながら、空いた右手で何度も俺の頭や身体を殴っている。
か細い彼女の手で殴られても痛くもなんとも無かったが、耳元で甲高い声で叫ばれるのは流石に我慢できなかった。
俺は思わず彼女の口に手を伸ばし、顎を閉じるように手で塞いだ。
「ん……! んぐぐぅっ!!!」
彼女は俺の手を剥がそうと右手で引っ張ったが、俺の手は微動だにしない、いや、させない。
よし、これでしばらくは食事に集中できる。
彼女の二の腕は思ったよりも骨が太くて食べられるところが少なく、8割方食べ尽くしても満腹には至らなかった。
俺は、より多く食べ良いところがないか探し、骨が邪魔しない脇腹辺りを見つけて食らいつく。
その頃にはもう彼女に抵抗する力も気力もなくなったのか、なすがまま空を眺めているだけだった。
……しばらく食事を繰り返した俺は、次第に空腹感がなくなり、頭もだいぶはっきりするようになってきていた。
そして、目の前の光景に手と口が止まった。
…………俺は、何をしているんだ?
自分で自分が何をしたのか、まったく理解できなかった。
最初は、彼女に助けを求めるつもりだった。
その彼女はいま、俺の下敷きになりながら、白かったワンピースを赤く染め、息も絶え絶えになりながら虚ろな目で俺を見ている。
なんだ、これは?
ここまでのことをしておきながら、俺は急に怖くなり、立ち上がって急いでこの場から逃げようとした。
しかし、振り向いた際に近くにあった服屋のショーウィンドウガラスに反射した自分の姿が見えてしまい、そのままその場で絶句してしまった。
いつもの黒いスーツに、青いストライプの入ったお気に入りのネクタイ。
しかし、スーツからはみ出ている手と首周りの肌は白色に緑がかったような色へと変色しており、顔には紫がかった血管がいくつも浮き出て見えた。
そして、一際目立っていたのは、充血したような赤い眼と、彼女の血で赤く染まった口元だった。
その姿を、俺は黙って見続けることしかできなかった。
いつの間にか俺、"佐藤 悠気"という人間は、
人間ではなくなっていた。