026. 大型商業施設攻防戦 当日 (六)
──数分前。
「…………3階には居なかったか」
家電製品フロアから出てきた桜庭が落胆した様子でそうつぶやいた。
ショッピングセンターの3階西側までやって来た桜庭は最初にエスカレーターを起動した後、西側にある店舗を一つずつしらみつぶしに探索を繰り返していた。
雑貨屋や服飾店といった年頃の女の子が行きそうな店だけでなく、メンズファッション店やおもちゃ屋といった娘の栄里が行くことも無さそうな場所まで隈なく見回ったが、栄里のいる気配はどこにもなく、呼びかけても応じる声はない。
そして、とうとうショッピングセンター最西端にある家電製品フロアも見終わってしまい、娘が3階には居ないということだけが判明した次第であった。
「3階に居ないとなると、あとは2階か4階のどちらかか……」
いくら反抗期の娘とはいえ、深夜一人でゾンビが居る1階に行くほど無謀なことはしないだろう。
そう考えた桜庭は、次は2階か4階のどちらかを探索しに行くことに考えが至った。
2階の方は、暗闇の中を侵入してきたゾンビ達がうろついている可能性があり、いつ・どこから襲われるやもしれない危険地帯と化している。桜庭でも不意を突かれたり集団で襲われれば無事で済む保証はない。
対して4階の方は、3階までの経路を塞いでいるためゾンビが居る可能性はまず考えられず、2階よりは間違いなく安全な場所である。
2階と4階のどちらを先に向かうべきかは、火を見るより明らかであった。
「……2階から探索するしかないな」
そうつぶやくと、桜庭は西側エスカレーターの方へと足を進めていった。
西側に到着して真っ先に動かしたエスカレーターは、3階西側をひと通り見回った後でもそのまま静かに動き続けており、当然ながらエスカレーター周辺にゾンビが居る気配もない。
桜庭もここまでは特に警戒すること無くやってきたが、エスカレーター前に到着すると懐中電灯を消してポケットに差し込み、エスカレーターからゆっくりと、静かに下の階を覗き込んだ。
エスカレーターの降りた先、暗闇の中でもはっきりとわかる人影が2つ。先ほどまでは無かった影だ。
どちらも直立したまま身体を左右に少し揺らしていたが、何か目的があってそうしている様子でもない。桜庭はその人影がゾンビだとすぐに理解した。
2体のゾンビ以外にも潜んでいないか桜庭は下の階を注意深く観察していたが、ちょうど1階のエスカレーターからもう1体、ゾンビが上ってくる様子が見て取れた。
「こっちのエスカレーターも壊れたのか。まったく、タイミングの悪い……」
そう悪態をついたが、3体になったゾンビ以外は近くに居なさそうだと確認できると、桜庭は目を閉じて静かに深呼吸を始めた。
気持ちを整えながらストレッチで身体を少しほぐし、手に持った斧を握り直す。
しばらくして、桜庭はゆっくりと目を開いて覚悟を決めると、エスカレーターの降り口に仕掛けていた防犯ブザーの紐に引っかからないよう慎重に避けてから、一気にエスカレーターを駆け下りていった。
『ダンッ! ダンッ! ダンッ! ダンッ!』
桜庭が段差を数段飛ばしで勢いよく降りていき、エスカレーターの段差が大きな音を鳴り響かせる。
2階のゾンビ達は音に反応して一斉に桜庭の方に顔を向けたが、そこから臨戦態勢になる前に桜庭はエスカレーターを降り切って一番近いゾンビの目の前まで駆け寄っていた。
桜庭は駆け寄った勢いそのままに力強く踏み込み、ゾンビめがけて渾身の力で斧を振り切る。刃部分ではなく、鈍器となっている側面部分を向けて殴りつけるように振り払われた斧は、ゾンビの側頭部に見事命中した。
鈍い音を立てながらゾンビは頭蓋骨ごと頭を砕かれ、首の骨まで歪に曲げて大きく横方向に倒れていく。
十分に手応えを感じた桜庭は、倒れたゾンビを脇見もせず次のターゲットに視線を移した。
残っていた2体のゾンビは桜場に襲いかかろうと手を伸ばして近づき始めていたが、桜庭は体勢を整えて先に目についたゾンビの方へと駆け出していった。
そして、ゾンビの伸ばした手が届かない距離から、ゾンビの腹部を狙って思いっきり蹴りを繰り出した。
桜庭の体重を乗せた前蹴りは重く、桜庭より一回りは小さいゾンビは蹴っ飛ばされた衝撃で宙に浮き、仰向けに吹っ飛んでいった。
その姿を見送ることもなく桜庭は後ろに振り向き直し、今度は向かってくるゾンビに対して斧を構え直えた。
ゾンビは臆すること無く桜庭に向かっていくが、この1対1の状況下でゾンビに勝ち目がある筈もなく、十分に引きつけられたところで桜庭が斧を横に振り払い、その刃がゾンビの首元に深く刺さった。
刃は頚椎に少しめり込んだところで止まったが、そのまま斧に引っ張られてゾンビは桜庭の前に倒れ込まされた。
そして、桜庭は間髪入れず斧の頭を踏みつけて力を込めると、バキバキッと乾いた音を立てながら頚椎ごとゾンビの頭を撥ねた。
ここまでで、仰向けに倒れたゾンビがようやく立ち上がろうと上半身を起こしたが、その隙を桜庭が見逃すことはなく、立ち上がろうとするゾンビに桜庭は近づいていき、そのままゾンビの頭部を狙って斧を振り下ろした。
ガンッと音を立てて斧がゾンビの頭に深くめり込み、そして、ゾンビは再び仰向けに倒れていった。
エスカレーター近くに居たゾンビ3体がすべて倒され、周りは再び静まり返っていた。
桜庭はすぐには警戒を解かず、まだゾンビが襲ってこないか執拗に周りを確認していたが、やがて近くにゾンビが居ないとわかると警戒を解いて、「ふぅ~……」と大きく息を吐いた。
「この辺りは、まだゾンビが上ってきたばかりみたいだな……」
2階西側も既に安全地帯ではなくなっているが、栄里がこの辺りに来ていたとしてもまだゾンビに襲われている可能性は低く、助ける余裕は十分にあるのがわかると、桜庭は少しだけ安堵の表情を漏らした。
そして、その余裕はどれぐらいの猶予があるのか確かめるために、桜庭は1階へのエスカレーターへと近づいていった。
エスカレーターに辿り着いた桜庭が1階の方を覗きこむ。
暗闇に慣れた目でも遠くの方は薄っすらとしか認識できないが、多くの人影がわらわらと居るのが見え、さらに先ほどの騒動が聞こえたのか、少しずつエスカレーターの方に近づいてきているようにも見えた。
まだ桜庭に気づいた様子はないが、見えている範囲だけでも桜庭一人では到底倒し切れるような数ではなく、そして、これから2階に上ってくるとしても防ぐ術は無い。
「……この状況で、アイツを探すのは骨が折れるな」
そうつぶやくと、桜庭はエスカレーターを後にして急いで2階の探索へと向かっていった。
……桜庭が去ってからしばらくして、1階エスカレーターの中頃で一つの影が蠢きだした。その影はゆっくりと顔を上げると、つい先ほどまで桜庭が立っていた辺りをジッと睨みつけていた。
────
…………危なかった。
暗くても影の大きさからよくわかった。目の前に居たのは、あの大男だった。
あともう少しで、このエスカレーターが俺の墓場になるところだったな……。
着ていたスーツのお陰で目立たなかったのか、すんでのところで大男に見つからず済んだらしい。
スーツを着ていて心底良かったと思えたのはこれが初めてだ。
しばらく身を伏せながら耳を澄まし続け、あの大男の足音が段々と遠のいていくのを確認できた俺は、恐る恐る立ち上がって静かにエスカレーターの残りを上った。
2階に到着して暗闇の中で見えたものは、先ほどまで元気にうろついていたゾンビ達の無惨な姿だった。
どのゾンビも動き出す様子は無く、頭が歪なオブジェに変形していたり、首から上が無くなっている様子を見て、そこで何があったのかは容易に察することができた。
戦闘後、まるで何事も無かったかのように大男がエスカレーターまでやってきた様子から、ゾンビ達は一撃すら加えることも出来ずに倒されたのだろうか。
あらためて、あの大男と対峙することは死を意味することだと思い知らされる形となった。
数十体単位でゾンビを集めて囲めば大男を倒せるだろうか。あるいは、何か策を用いれば勝てるのだろうか。
……余裕があればそういうことも考えたいが、それよりももっと気がかりになることが先ほどから俺の思考を支配していた。
それは、『なぜ、あの大男が2階に降りてきたか』だ。
この暗闇の中、ゾンビが何体もいるかもしれない2階に一人でやってくるなんて、いくら大男が強くても自殺行為のようなものだ。
ゾンビ達を掃討するためや、逃走経路を確保するためだけであれば、朝になってから行動すればいい。
朝までなら3階へのエスカレーターを封鎖して時間稼ぎするだけで十分だと考えるし、その方が安全にゾンビを撃退できると普通は考えるだろう。
だが、そういった考え方を無視してまで大男は2階にやってきたのだ。ゾンビに襲われることも覚悟してまで……。
大男が2階にやってきた理由については憶測でしか考えられないが、大男が発した言葉から少しは推察することはできる。
あの大男は「アイツを探す」と、確かに言っていた。
この言葉を素直に受け取るのなら、あの大男は"誰か"を探すために危険を承知で2階までやってきたことになる。
じゃあ、その"誰か"というのは誰だ、という話だ。
一緒にいる避難者が行方不明だから探しに来たと考えれば一応の合点がいくが、真夜中に服や雑貨程度しかない2階に行く奴なんているのだろうか。
数時間前まで2階も安全が保証されていたとはいえ、建物の周りにはゾンビだらけでフロアも消灯されている状況だ。
もし2階に用事があったとしても、よほどの豪胆か楽天家でもない限り朝まで大人しく待っただろう。
結論として、3階にいる人間が2階まで夜中のショッピングに出かけていた可能性は低いだろうというのが俺の考えになる。
他にありえるとすれば、3階に避難した人間達とは別に、2階を避難場所としていた人間が居たから探しに来たという線だが……、これも可能性は低いと思っている。
もし、そんな奴がいるとしたら2階に何かしら形跡があるはずだが、少なくともエスカレーター周辺にそんな形跡は見当たらなかったし、そもそもあの大男がわざわざ助けにくるほど大事な奴なら、最初から3階で一緒に避難しているだろう。
3階から避難者がやって来た訳ではなく、2階に避難者が居た訳でも無い。
だったら、あの大男はいったい誰を探しに来たのだろうか?
……この状況下で心当たりがあるとすれば、一人しかいない。
そう、俺だ。
正確には、このショッピングセンターにゾンビを呼び寄せた何者かを、大男は探している可能性がある。
東側での遭遇時、俺は大男達に気づかれず離脱できたと思っていたが、実は気づかれてしまっていた。あるいは、以前にも俺のような意識のあるゾンビに襲撃されたことがあり、ゾンビを誘導しているゾンビが存在することを知っていて朝まで放置するわけにはいかないという考えに至ったんじゃないだろうか。
それであれば、あの大男が朝まで待たずに2階までやって来たことに合点がいくし、誰かを探しているという言葉にも納得できる。
この推測を裏付けるものは何もないが、他の可能性よりは十分ありえる話だ。
……それで、ここまで推測を立てたが、それを踏まえて俺はこれからどう行動すべきかを考えなければならない。
あの大男に目をつけられているのなら、もう呑気にゆっくりと準備なんてしていられない。
相手は俺を見つけるまで延々と捜索活動を続け、もし見つかれば率先して俺は狙われしまい、そして即座に殺される。
日の出までは俺のペースで好き勝手できると思っていたが、その前提が覆り、さらに時間が経過していけば2階にいるゾンビ達を大男にどんどん倒されて、俺の作戦自体が瓦解してしまうかもしれない……。
気づかないうちに、事態は非常に悪い方向に流れてしまった気がする。
少し前まで生きていた時でも度々あったが、何もかも投げ出して今すぐこの場から逃げ出したい気分だ。
だが、逃げ出したところで事態が良くなるわけじゃない。
あの大男に殺されずに済むだけで、当初の目的である空腹が解消される訳ではなく、ここで人間達を狩れなければ次はもっと酷い空腹状態で人間達に挑まなければならなくなるばかりか、そもそもここ以外で都合良く人間に遭遇できるかもわからない。
ここで戦って死ぬか、逃げ出してジリ貧になって死ぬか、どちらかを選ばなければならないということだろうか……。
……駄目だな、悲観的に物事を考え過ぎてしまっている。もっと前向きに、そして建設的な考え方をしなければ。
あの大男とばったり遭遇せずに済み、見つかること無くやり過ごせたのは間違いなく幸運な出来事だった。
そして、あの大男は周りを探索でもしながら2階東側にゆっくりと向かって行くつもりだろう。
つまり、この西側には当分あの大男がやってこないということだ。
この状況下で俺は何ができて、何をすれば人間達を襲えるのか。
大男の動きまで想定しながら考えて動かなければ……。
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悠気は表情こそ無気力なゾンビのままであったが、赤い眼を少し細めながら熟考し始め、より深刻そうな雰囲気を醸し出しつつも前へと進みだしていった。
そしてその頃、大勢の避難者が居る3階家具屋の方では、新たな騒ぎが起ころうとしていた。




