021. 大型商業施設攻防戦 当日 (一)
4階の大きなレストランでは避難者達による送別会が開かれ、久しぶりに笑い声の聞こえる一時となった。
この日だけはカップ麺や袋菓子ではなく、解凍して調理された唐揚げやポテト、ハンバーグなどが振る舞われ、小さな子供達も久々の御馳走に喜んで食べている。
ある者は別れの挨拶を交わし、またある者は明日からの不安を紛らわせるかのように派手に騒いでおり、その様子を桜庭は部屋の隅から静かに眺めていた。
ゾンビが街を支配した"あの日"からショッピングセンター内はずっと暗い雰囲気が支配していたが、冷凍食品ばかりが並べられた晩餐会でも皆は心から楽しんでいる。
その様子を見た桜庭は、ほんの数週間前では当たり前のように見ることができた"楽しむ"という光景が、もう随分と懐かしい出来事のように感じていた。
明日からはまた辛い日々が続くことになるだろうが、それでも今日を精一杯生きられたという事を喜び合うために今を楽しむ。
それが、この過酷になった世界を生き残るための糧となるだろう。
「おつかれさまです、桜庭さん」「おつかれッス!」
浩司と達也が顔を少し赤くしながら桜庭の元へとやってきた。足元はふらついていないが、二人はほろ酔いといった様子である。
「……二人とも飲んでるのか?」
「明日からは当分禁酒ッスから、今日は飲み溜めッスよ!」
「オレ達まだ未成年ですけどね、ヘヘ……」
平時であれば常識のある大人として、あるいは人の親として未成年の飲酒を咎めるべきだったかも知れないが、桜庭は二人の様子を見て少し鼻で笑っただけであった。
「まぁ、酒で生きる活力が湧くなら下らん事は言わんさ。お前達はもう十分大人だ」
TPOを弁えた桜庭らしい言葉に、二人は少しだけ照れ笑いをした。
「あざッス……」
今まで大人に褒められた経験は殆どなく、逆にいつも大人を小馬鹿にする態度ばかりとっていた浩司であったが、この桜庭からの一言は、何か心に強く響くものがあった様子である。
その後も三人はしばらく談笑していたが、達也が周りを見ていて、ふと気づいたことを言葉に出した。
「そういえば、娘さんはどこに?」
達也の一言に桜庭の表情が少しだけ硬くなったが、桜庭は誤魔化さずに答えた。
「……あぁ、アイツはまた一人でフラフラしてるんだろう」
「そうなんですか……。せっかくの送別会なのに」
「アイツはこの手のイベントがあまり好きじゃないからな。……スマンが、見かけてもそっとしておいてやってくれ」
桜庭は少し寂しそうな顔をして、コップに残っていた烏龍茶を飲み干した。
「あれ、桜庭さんは飲んでないんスか?」
浩司が桜庭のコップに注がれた飲み物が酒ではなく烏龍茶であることに気づいた。よくよく見れば、桜庭の顔もいつものように平然としており、態度も落ち着いたままであった。
「オレは昔から下戸でな。酒は飲まないことにしているんだ」
「へぇ~、けっこう飲みそうなのに残念ですね」
「お陰で酔わずに済むんだ、そういうのも悪くないぞ」
桜庭が一息ついた後、周りを見渡した。
食事はあらかた食べ終わっており、小さな子供がウトウトと眠たそうにしている。
いつの間にか、時計の針は午後11時を回っていた。
「……さて、そろそろお開きにして寝ようか。明日はまた早いぞ」
「はい!」「了解ッス!」
桜庭が皆に向かって一声を上げると送別会はお開きになり、ニオイの出るゴミは後片付けをした後、避難者達は3階へと戻っていった。
3階の家具屋まで戻ると、避難者達は各々が気に入っているベッドやソファーに寝転がって静まっていく。
桜庭も確保していたリクライニングチェアを深く倒して寝そべり、近くの机の上に自分の武器がきちんと置いてあることを確認してから、静かに眠りについた。
こうして、避難者達の楽しいひと時は終わりを迎えたのであった。
──そして、その裏で悠気は、ゾンビ達をショッピングセンター内へと誘導しながら着々と襲撃準備を進めていた。
今回の襲撃では多対多になることを想定し、可能な限り攻め入るゾンビの数を集めたいと考えた悠気は、ゾンビをエスカレーター前に続々集結させていたのであった。
悠気が考えている襲撃方法は至ってシンプルで、エスカレーターを止めた後にゾンビをどんどん3階へと送り込み、人間達がパニックになったところで隙をついて一人だけで良いから捕らえるといったものである。
今までの戦いとは違って今回は完全なアウェイの上、相手の人数もわからない。下手な小細工を弄するよりも、数に物を言わせて一気に仕留める作戦であった。
(どの道、ゾンビでは集団行動なんて出来ないんだ。であれば、せめて人間達をパニックにさせて逃げ道を塞ぎ、追い込んでくれるだけで十分だ)
まだ腰の調子を不安視している悠気にとって、人間と直接対峙するのは極力避けたい思いがある。そのため、基本的にはゾンビ達に任せて漁夫の利を狙う。
他ゾンビ任せの男らしくない戦い方であるかもしれないが、そういうことを気にするような状態でも無ければ余裕もない。
病み上がりの飢えたゾンビが思いついた、最善の解答ではあった。
(……さて、そろそろ行くか)
壁に取り付けられた時計が午前1時を指している。大抵の人間なら熟睡している時間帯であった。
悠気は東側のエスカレーター前で軽く上の階を覗き込み、2階には暗く静かな空間が広がっているのを確認すると、そのままエスカレーターの非常停止ボタンを押した。
エスカレーターは、ガコンッと音を立てて一度大きく動いた後、そのまま静かに停止して動かなくなった。
悠気が一段だけ足を乗せて体重をかけたが、ステップはしっかりと固定されて変に動き出すことも無い。
(よし、大丈夫だな)
悠気はゾンビを停止したエスカレーター前まで引っ張っていってはエスカレーターを上っていくよう背中を押していく。
押されたゾンビ達はエスカレーターのステップに足をかけると、あとはそのまま勝手に上り始めていった。
そのゾンビが上っていく姿を見て、悠気はふと疑問を抱いた。
(ゾンビ達がされるがままにしてくれるのはありがたいが、今このゾンビ達の意思決定はどういうプロセスになっているんだろうか。
人間らしい反応をしないことから人間だったときの意識が無いことはわかるが、本能の赴くままの行動や、単なる肉体の反射だけをしているようには思えない。
もし、人間として生きていた頃とは違ったゾンビの意識が芽生え、それが行動を決定しているのだとすれば、俺の中にもそのゾンビの意識が芽生えているんじゃないだろうか。
そうなると、今までの行動も俺自身の意識でやったと思っていたが、実際それはゾンビの意識で、本当の俺の意識はもう既に無くなっている可能性も……いや、それでも人間だったときの記憶はそのままあるし、他のゾンビ達と比べて俺は明らかに異なった思考で動いている。
そもそも、人間の意識の定義が……)
などと、哲学的な疑問を考えつつも、悠気はどんどんとゾンビを押し込んでいき、最終的に20数体のゾンビを2階へと送り込むことができていた。
これだけ居れば、相手の数が判らないにしても早々に全滅させられる事は無い。
遅まきながら悠気も2階に辿り着くと、目の前には3階へと繋がるエスカレーターがあった。2階までのエスカレーターとは異なり、こちらは最初から停止したままである。
そのエスカレーターから悠気は3階の様子を覗き込んでみるが、2階と同じように暗い空間が広がっているだけであった。
先は暗く見えないが、ここからは人間達といきなり出会う可能性も十分にある。
油断しないよう改めて気持ちを引き締めた悠気は、2階までのエスカレーターと同様にゾンビ達を先行させて順に上らせていく。
ゾンビ達も抵抗すること無くエスカレーター前にまで連れていけばどんどんと勝手に上っていくため、協力的なゾンビ達のおかげで想定よりずっと順調に進み、思惑どおり事が進んでいくことに悠気も少し気を良くしはじめていた。
この時、悠気は決して慢心していた訳では無かった。
ただ、何事も自分の思ったとおりに進んでいくような、一種の全能感に思考が支配されつつあることに自身で気づけていないだけであった。
悠気がゾンビ達をエスカレーターに誘導している最中に、順番待ちをしていた1体のゾンビが勝手に動き出し、エスカレーター付近から少しずつ離れ始めていた。
目的があってどこかに向かっているわけでは無いが、その足取りは止まることを知らず、どんどんと進んでいく。
一歩一歩と進んではゾンビ達の列から離れ、そうして曲がり角を曲がって暗闇の中に紛れていきそうになった、その時であった。
『ガシッ!』
そのゾンビの肩を手が掴んで力強く引っ張っており、それ以上のゾンビの進行を止めていた。
(まったく、こういう団体行動の出来ない奴はゾンビでも居るもんなんだな……)
ゾンビの肩を掴んだのは悠気であった。
列からどんどん離れていくゾンビを見つけた悠気は、急いで後を追いかけて来たのである。
まだ人間も見つけられていない状況でゾンビが1体脱落するのは、悠気にとっても見過ごす訳にはいかなかった。
(ほら、こっちだ)
悠気はゾンビの腕を掴んでエスカレーターの方へと引っ張っていく。
ゾンビはまだ奥の方に行きたそうな感じではあったが、観念したかのように悠気に引っ張られるがまま連れ戻されていった。
心なしか、ゾンビの顔はしょげているようにも見えるが悠気はお構いなしの様子だ。
エスカレーターの方では他のゾンビ達は大人しく突っ立っており、先に上の階へと送り込んだゾンビ達は勝手に上っていったようで、エスカレーター上に姿は見えない。
自分勝手なゾンビも3階へと送り込むため、悠気はそのままエスカレーターの方へと足を進めていった。
が、しかし。
突然、エスカレーターの上の階から何かが跳んで来て、『ダンッ』と音を立てながらエスカレーターの手すりを跳ね、そのまま壁にぶつかってエスカレーターの登り口付近で止まった。
(ん、何だ……?)
悠気からは暗くて何が落ちてきたのかはっきりとは見えなかったが、その形と大きさからサッカーボールのような物に見えた。
(今、このエスカレーター付近にはゾンビ達しか居ないはずだ。……なら、上の階に到着したゾンビ達が何か近くの物でも蹴っ飛ばしたのだろうか?)
そんな風に考えながら、悠気は3階から落下してきた物体の近くへと接近していく。落下してきた物体は全体的に黒い塊のようで、暗闇の中では近づいても見えにくい。
悠気は更に目を凝らしてどんどんと近づいていく。
物体まであと数歩という距離にまで近づくと、悠気は突然、歩み寄るのを止めた。
その物体は球体だと思ったが近くで見ると縦にやや長く、表面はボサボサしている。そして、物体の一辺から何か液体らしきものを垂らしているのがはっきりと見えた。
(……まさか、これは)
悠気は目の前の物体が"何"であるか気づき、一気に血の気が引く思いとなった。
何でそうなったかは分からなかったが、その答えはエスカレーターの上にあると考え、悠気は再びエスカレーターの先を見上げた。
エスカレーターの中間辺りからゾンビ達が列をなして並んでいる背中が見える。
だが、先頭に居るゾンビはエスカレーターの手すりにもたれかかったまま動かず、ゾンビ達の渋滞を作っていた。
そして、その先頭のゾンビは、2階に居た時にはきちんとあったはずの頭が無くなっていた。
いや、正確に言い表すのであれば、そのゾンビの"頭だけが"エスカレーターの下まで戻ってきていたのであった。
悠気はその首無しゾンビの更に上へと視線を向ける。
視線の先には3階フロアがあるはずであったが、そこには最初に確認した際には無かったはずの黒い人影が仁王立ちでいるのが見えた。
悠気より一回りほど大きい体格で、その腕は悠気の太腿と同じくらいの太さに見える。
手には何か長い物を持っているようで、悠気からは暗くてよく見えないが、"ソレ"で先頭のゾンビの首を撥ねたということは想像に難くない。
外で大量に投げ捨てられていたゾンビ達は、この人影の主にやられたのだと悠気は即座に理解したが、思いがけない遭遇に身体が萎縮してしまい、その場から動けなくなった。
「2階に、こんなにもゾンビが……」
黒い人影から発せられた声は桜庭のものであった。
エスカレーターの中段辺りには細長いワイヤーが設置されており、そこに何かが引っかかるとワイヤーが引っ張られ、数十メートルを伝ってワイヤーの先に括り付けられた鐘を鳴らして侵入者を知らせる簡易警報装置が設けられていたのであった。
警報に気づいた桜庭は即座にエスカレーターへと駆けつけ、いまエスカレーターを上りきらんとしたゾンビの頭めがけて全力で斧を薙ぎ払って阻止した次第である。
後ろで渋滞していたゾンビ達が、首無しゾンビの身体を除けて再び上り始めようとした時、桜庭は目の前にあった首無しゾンビの体を思い切り蹴った。
意思判断能力を失った首無しゾンビの体は抵抗すること無く後ろ向きに倒れていき、その真後ろに居たゾンビ達を巻き込みながら崩れて将棋倒しとなっていく。
(……マズい)
そうとしか言いようがない。
悠気は、目の前で自分の作戦が文字どおり瓦解していく様を眺めることしかできなかった。
襲撃失敗云々の前に、ここから生きて離れられるのかも定かではない。
もし、目の前に見える大男がこのまま降りて来れば悠気は呆気なく倒されてしまい、外で投げ捨てられていたゾンビ達と同じ運命を辿ることになるだろう。
悠気の表情が強張り、必死に逃げる算段を考え始める。
だが、桜庭は2階に居るゾンビ達を見ても、下まで降りてこようとはしなかった。
エスカレーター上のゾンビ達を追い払った桜庭は上着のポケットから鍵の束を取り出し、その中の一つをエスカレーター下部にあった鍵穴に挿した。
[下降]と矢印が書かれた方向に鍵を回すと、エスカレーターからは静かにモーター音が鳴り始める。
そして、停止していたエスカレーターはゆっくりと下方向へ動き始め、2階へのエスカレーターと同様にゾンビの侵入を拒む仕掛けとなった。
エスカレーター上で将棋倒しになったゾンビ達も2階まで運ばれてくる。
その様子を、桜庭は静かに眺め続けていた。
悠気の位置からだと桜庭の人相は薄っすらとしか見えないが、かすかに見える桜庭の眼光にゾンビを駆除する明確な意志があることだけは、離れた場所からでもしっかりと感じ取ることができた。




