016. 接戦の果てに
閑散とした静かなビジネス街。
まだ梅雨の時期であったが、この日は晴天で雲ひとつない青空に太陽が高く登り、暑い日差しが降り注ぐ。
この辺り一帯に鳴り響いていた警報音と防犯ブザーは電池が切れたのか、あるいはゾンビ達に壊されたのか、その音ももう聞こえない。
ゾンビ達も通りを疎らにうろついてるだけで、ある意味平和な時間が流れていた。
そのビジネス街にあるビルとビルの合間、通りからはちょうど影になる位置に、仰向けになった遺体が1つ、無惨な姿で転がっていた。
近くの街灯に止まっていたカラスが、その遺体を注意深く観察している。
遺体は当然ながら微動だにしない。
何かを感じ取ったカラスは、街灯から遺体近くまで飛び降り、近づいて更に観察を続けた。
わざと音を鳴らしたり、「カァー」と気の抜けた声を出して反応しないかを確かめる。
それでも反応のない遺体を見て、カラスは少しずつ歩いて距離を詰めていった。
一歩、二歩、三歩……。
その足取りは慎重ではあったが、何かを期待しているかのようで、どんどんと進んでいく。
やがて、カラスが遺体のすぐそばにまで到着すると、そのまま遺体の顔面の方に近づいていき、そして、食べやすい眼球を啄もうと、嘴を遺体の目元まで差し向けたが──、
『ガッ!!』
突然、遺体の手が動き出し、油断していたカラスを捕縛した。
捕まったカラスは鳴きながら必死になって羽をバタつかせるが、その抵抗は虚しく、遺体はもう一つの手でカラスの頭を掴んで、そのまま躊躇なく捻った。
途端に静かになるカラス。
遺体は、その姿をしばらく眺めていたが、ゆっくりと手を降ろし、カラスを口元へと運ぶ。
そのまま、カラスの首回りを恐る恐る一口だけ噛り、よく噛んでゴクリと飲み込んだ。
飲み込んだ後は、身体の反応を確かめるようにしばらく手が止まったが、問題ないことを悟ると今度はカラスを勢いよく貪り食い始めた。
羽毛や骨も気にせず口の中に頬張り、口内で「パキッポキッ」と小気味良い音を奏でながら食べ続ける。
そうして、10分と経たずに残さず丸ごとカラスを食べ切っていた。
────
『……ごちそうさまでした』
久々の食事だった。
都会の鳥は、不摂生な食生活と排気ガスで汚れているから、捕まえて食べても不味いという話をどこかで聞いていたが、いざ食べてみると、確かに味は褒められたものではないが肉付きは良く、脂も乗っているので食い出があった。
なんでも自分で確かめるのは大事だと改めて実感する。
まぁかなりの空腹だった上、ゾンビ化で味覚が変わったから気にせず食べられたのかもしれないが。
しかし、人間以外の生肉でも空腹を満たせることが解ったのは新しい発見だった。
鶏肉がイケるのであれば、牛肉や豚肉、魚もイケるのではないかと期待が増していく。
ただ、この不器用なゾンビの体で野生動物達を捕まえるのは極めて難しく、いま食べたカラスも何十回とチャレンジした結果、たまたま運良く捕まえられただけだ。
植物や虫まで食べられるのならともかく、現実的に考えてゾンビが狩猟生活するのは不可能だろう。
要するに、これからも積極的に人間を狙っていく必要があるということだ。
だが、それも上手くいくかどうか……。
……あの戦いから何日経ったのかは判らない。
4日前まで気を失っていた俺は日付感覚を失い、今いる場所からだと今日が何月何日か特定する術もない。
空腹に起こされて意識が戻ってから既に丸4日経過していたので、あの戦いから最低でも4日以上経っており、二人には完全に逃げられたことだけは判明していた。
それで、なぜ意識が戻ったのに俺がまだここで寝転がっているかというと、屋上から落とされた際に腰と脚から落ちたようで、目が覚めた時には左脚が折れていたばかりか、腰から下が全く動かなくなっていたからだ。
寝返りを打つことも出来ず、仰向けだと這いながら移動することも出来ない。そんな事情があり、俺は意識が戻ってからも、まだ地面に倒れながら居続けるしかなかった。
あの二人と命を賭けた死闘を繰り広げて敗北し、このまま動けなくなって餓死するのであれば、呆気なく殺されて終わるよりかはドラマチックで悪くない最期だと思っていた。
しかし、残念なのか喜ばしいのか判断に困るが、どんなに飢餓感に満たされて苦しい思いをしても、そのまま死に至ることは無かった。
あとどれぐらい待てば餓死するのか判らないが、その前に飢えることが我慢できそうにない……。
俺は餓死することを諦め、なんとか怪我を治して移動できるようにならないかと苦心していた。
脚の骨折は手を伸ばせばギリギリ届いたので、元の形になるよう手で位置を調整する。以前の骨折は1日ほどで治ったので、完全骨折でもなんとか治るだろう。……おそらく。
それよりも、深刻なのは腰の方だ。
医学に詳しいわけではないが、腰から下が動かないということは脊髄損傷で下半身不随になったことは素人でもわかる。
裂傷や打撲、骨折と違って、下半身不随は完治が困難だ。その上、医者に診てもらうことも出来なければ、手術を受けることも出来ない……。
無治療で下半身不随が治るのだろうか。そこはもうゾンビの治癒力に賭けるしかなかった。
そして、更に数日後……。
変に曲がって治らないよう微動だにせず安静にし、カラスを何度かに分けて食べるべきだったと後悔しながら呆けていると、いつの間にか脚の感覚が戻っていることに気がついた。
そよ風が吹くと、履いているスラックスが揺れて皮膚を刺激する。
更に手で太ももを撫でると、確かに触られた感触を感じ取れるようになっていた。
以前とは少し違った感触のように感じるが、それでも期待どおりに神経が繋がってくれた事を素直に喜んだ。
完全骨折していた左脚についても元通りくっついており、手で触ってもグラつくようなことは無い。
右脚と長さが少し違っているような気もしたが、それは誤差範囲と思っておこう。
さて、ここからが本題だ。
脊髄が治ったのかどうか、……神経が繋がったのなら大丈夫だと期待するが、それを裏付ける根拠は何も無い。
結局、実際に動かしてみるのが一番手っ取り早く確実だ。
恐る恐るだったが、俺は数日ぶりにゆっくりと脚の力を入れていった。
力を加えていくと、つま先の方から少しずつ揺れ始めて動き出す。
更に力を込めて膝を曲げようとするが、膝が浮き始めた頃に小さく「ミシッ、ミシッ……」と軋むような音が聞こえてしまい、思わず動きを止めてしまった。
……大丈夫だ、久々に脚を動かしたせいで筋肉か何かが鳴いているだけだろう。
骨の割れる音じゃない。
そう自分に言い聞かせて動かすことを再開すると、時間はかかったが、何とか膝を曲げ切ることが出来た。
そのまま膝を手で掴んで上半身を引っ張り起こす。
ここまでで腰も問題なく治っているように思えるが、まだ安心は出来なかった。
最後に、このまま立ち上がれるかどうかが一番重要だ。
俺は、「ゔぅぅぅぅ……」と深く息を吐いて心を落ち着かせ、覚悟を決めた。
両膝に手を当てながら上半身を持ち上げる。
腰が地面から離れると、膝が情けなくプルプルと震え始め、脚だけでなく全身から軋む音が鳴り響く。
久々に立ち上がるのだからこれぐらい当然だ、問題ない。
そう、問題ないはずだ……ッ!
ここで臆病になっても仕方がない。
俺は構わず脚に力を入れ続け、そして……、
俺は、何日かぶりに立ち上がることができた。
まだ脚が震えてバランスを崩しそうになるが、それでも、これで立ち止まらずに進んでいく事ができる。
今は、それだけで十分嬉しい。
立ち上がれた俺は、これから何をするべきか。
……とりあえず、お腹が空いているのは何とかしなければならない。
行く宛は思いつかないが、ここに居続ける理由はもう無いと判断した俺は、フラつきながらも壁伝いに来た道を戻り始めた。




