015. Hunting time. (end)
「うわっ!」
金属扉の下敷きになりながら、水溜りに突っ伏す樹。
その後ろの開いた入り口からはゾンビがどんどんと姿を現し、その中には悠気の姿もあった。
(自殺するつもりはなさそうだったが、奥の方に非常階段が見える。あそこを使う気だったのか。それに、この音は……)
2階からの警報音とは別の場所から防犯ブザーが鳴り響いていることに気づいた悠気は、ビル周辺に居るゾンビ達が誘導されてしまっていることを察した。
このまま非常階段を使われれば、二人に逃げられる。
だからこそ、この屋上でなんとしても二人を掴まえなければならないと、悠気は決意を決めた。
(まずは、目の前に倒れている方からだ!)
悠気は、樹を襲うように社員ゾンビ達をけしかけ、自身もその後について行く。
金属扉に下敷きになって身動きが取れていない樹は、襲いかかるのに格好の餌食だった。
他より少しだけ足の早いゾンビが突出し、樹の近くへと辿り着く。
そのまま勢いに任せて樹を襲おうと両手を伸ばし始めた瞬間、そのゾンビの顔面がいきなりスコップで殴られ、足の早いゾンビはその場で沈んだ。
「ふうぅぅ……」
そこには、急いで樹の元へと駆けつけて現れた歌乃の姿があった。
深く息を吐きながらスコップを握り、鋭い目つきでゾンビ集団を睨みつける。
二番手のゾンビが考えなしに歌乃へと近づいていくが、歌乃が腰を低くして両手で構え、しっかりと体重を乗せてスコップを振るう。
そして、二番手のゾンビも頭部にスコップが直撃し、足の早いゾンビと同じく横に倒れたままとなった。
直近のゾンビを倒した歌乃は、樹の元へと駆け寄っていく。
「樹! 大丈夫!?」
「うん、なんとか……。痛っ……!」
歌乃が戦っている間に、樹は金属扉の下から這い出て立ち上がろうとするが、押し飛ばされたときに足をくじき、足首を捻挫していた。
「ほら、早く立って!」
歌乃は片脚を引きずっている樹を引き起こし、そのまま肩に掴まらせて逃げ始めた。
(やはり、背の高い方のが厄介だな……)
歌乃に睨まれた際、悠気は思わずたじろいだが、それでも周りのゾンビは十分な数がいることに自信を持ち、ゾンビ達と共に行進を続ける。
ゾンビ単体の戦闘力では歌乃に負けても、数では悠気側ゾンビの方が圧倒的に有利であり、先ほど倒されたゾンビ2体もすぐに蘇ってくるだろう。
このまま戦い続ければ、最終的には悠気の方に軍配が上がることは歴然だった。
しかし、歌乃達がそんな戦いに付き合うはずもなく、
「このまま逃げるよ!」
「わ、わかった!」
安全な逃げ道が出来たのであれば、これ以上戦う必要は無く、逃げる事を選択していた。
(逃がすか!)
その後を悠気とゾンビ達も続々と追いかける。
数十メートル先にある非常階段まで歌乃と樹が逃げ切るか、それまでに悠気達が追いつけるか。
僅差ではあったが、早歩きのゾンビ達より、足を引きずりながら移動している樹と歌乃の方が遅く、少しずつ距離が縮まっていった。
まだ非常階段まで距離があり、更に柵を上る必要がある二人には十分追いつく。
そう察した悠気は、決して転ばないよう足元に注意を払いつつ、確実に前へと進んでいった。
だが、同じようにこのままだと追いつかれると察した歌乃は、前に進みながら少しだけ考えた後、樹の背中をポンと押して、その場で振り返った。
「……えっ?」
「樹、先に行って。少しだけ、時間を稼ぐから」
「で、でも」
「いいからッ! ……私なら、後で追いつけるから」
そう言って、歌乃はスコップを両手持ちにしてゾンビの群れと対峙する。
樹は、歌乃の覚悟を無下にしてでも一緒に来て欲しいと願ったが、足をくじいている今の自分では足手まといしかならないことを自覚し、足を引きずりながら非常階段の方へと向かっていった。
ゾンビ達は歌乃へと狙いを絞り、どんどんと襲いかかっていく。
1体1体であれば容易に撃退されるゾンビではあったが、スコップで撃退しても次々と波状攻撃を仕掛けてられては、流石の歌乃でもギリギリでしか凌げられていなかった。
(いいぞ、その調子だ!)
ゾンビ達が次々と突撃していくが、その後ろの方で歌乃とは付かず離れずの距離を保ちながら、ひっそりとゾンビを応援する悠気の姿があった。
(このまま行けば、この背の高い方はゾンビ達にやられてくれるかもしれないな……)
漁夫の利を狙う悠気は、歌乃にスコップで殴られないよう距離を取りつつ、ゾンビ達をけしかけていく。
歌乃も必死で抵抗しているが、戦闘開始当初の頃と比較して明らかに疲れが見え始めており、息を荒くしながら近づいてきたゾンビを撃退し続けていた。
「ハァ、ハァ……」
大きく肩で息をしながら、背後の樹のことを気にしている歌乃であったが、後ろを振り返る余裕もない。
今は目の前にやってくるゾンビをこの場で留めないと、と躍起になるしか無かった。
(そろそろ頃合いだな……)
疲労している歌乃の様子を見て、トドメを刺せると考えた悠気は、一気にゾンビ3体を歌乃へけしかけた後、自身もその後に続いて襲いかかっていった。
一番目と二番目に近いゾンビが歌乃の方へと突っ込んでいく。
歌乃は、一番近いゾンビをスコップで殴って難なく撃退したが、二番目のゾンビの撃退には間に合わず、組み付かれてしまった。
「くっ…!」
スコップで身体を掴まれることは防いでいたが、ゾンビの腕力には簡単に押し負けていき、歌乃は少しずつ後ずさりする。
そして、そんな歌乃を目がけて三番目のゾンビが組み合っている横から襲いかかろうとした。
目の前のゾンビに集中している歌乃は到底対処できない。
これで決まったかに思えたが、三番目のゾンビが歌乃に触れる前に、その頭部にハンマーが直撃した。
「樹!?」
「良かった……、命中した」
ようやく柵に辿り着いた樹が振り返ったところ、歌乃が複数のゾンビから一斉に襲われているのが見えてしまい、がむしゃらながらゾンビを狙ってハンマーを投げ込んでいたのであった。
他に襲い掛かってくるゾンビが近くにいなくなった歌乃は、スコップに組み付いていたゾンビに対してヘルメットで顔面に頭突きをし、怯んでスコップから離れたところを殴りつけて倒した。
「ありがとう、助かったよ」
「それより早く、こっちこっち!!」
ゾンビを撃退した歌乃は反転して全速力で駆け出していき、樹は柵を上り始める。
二人の逃げる準備が整え終えたかに思えたが、そんな状況になっても悠気はまだ諦めていなかった。
三番目のゾンビが倒された時点で少し身を引いていたが、その後に走っていく歌乃を見て、もう安全策に拘っている場合ではないと、他のゾンビを置いて悠気は歌乃の後を追った。
ここから先は、作戦や読み合いなんてものは要らない。
ただ、生きるための純粋な生存競争が行われるだけである。
歌乃の全速力に悠気は追いつけないが、柵を越えるまでに追いつかないかどうかまでは、まだ判らない。
悠気と歌乃のお互いが、自分こそ間に合うと信じ、身体が動く限り駆けていく。
樹の方は既に柵を乗り越え終わったが、後は歌乃が間に合うことを祈る事しか出来なかった。
そして──、
まず、歌乃が柵前に辿り着いた。
スコップが重たい分だけ全力疾走は無理であったが、それでもゾンビに追いつかれるようなことはなかった。
悠気はまだ少し離れた場所から早歩きで駆け寄っている最中である。
「早く、歌乃! 乗り越えて!!」
樹が急かし、歌乃は言われるまでもなかったかのように柵を乗り越え始めた。
長身・高座高な歌乃にしてみれば、1メートル程度の柵を乗り越えるのは造作もない事であり、ものの数秒で柵の反対側へと移っていった。
「ふぅ、これで……」
安心しきった歌乃が、落ち着いた声を出して安堵する。
後はもう、このまま非常階段を降りるだけでいい。
そう思って歌乃は顔を上げて屋上の方に目をやると、悠気の姿が見えた。
まだ諦めていないのか、歌乃の方に向かって来ており、その速度は緩まない。
歌乃は警戒して身構えようとしたが、その前に悠気は数メートル手前で止まり、少し屈むような姿勢を取った。
まるで屈伸する途中のようなポーズで、歌乃はそのポーズの意味がわからなかったが、その数秒後、なぜ悠気がそんなポーズをしたのか意味を理解することとなる。
悠気は、屈んだ姿勢から勢い良く脚を伸ばし、大きくジャンプを繰り出した。
ゾンビ化で脚力も鍛えられている悠気は、人間のジャンプを遥かに上回る高さまで飛び上がり、歌乃の方へと一気に飛びかかっていく。
「ッ!?」
予想だにしていなかった不意打ちに歌乃は硬直し、一瞬、思考が止まる。
今すぐ悠気の着地点から離れなければと考え、身体を動かそうとしたが、その前に悠気がもう眼前にまで迫っていた。
(とどけ!)
悠気が空中に飛びながら手を精一杯伸ばす。
その手の先には歌乃が立っており、伸ばした左手が届くかどうかは微妙なところであった。
『ガシャンッ!!』
悠気が、柵にぶつかりながら着地する。
そして、その左手は、歌乃の身体に触れることは叶わなかったが、背を向けた歌乃が背負っているワンショルダーをガッチリ掴むことが出来ていた。
「うっ!」
(掴まえたッ!)
悠気は左手を離さまいとキツく握って引っ張り寄せ、空いた右手で今度は歌乃のヘルメットを掴み、うなじ部分が無防備になるよう両手を左右に開いた。
「歌乃っ!!」
咄嗟の出来事に、樹も反応が遅れてから歌乃の方を向き直す。
そして、そんなことはお構いなしに悠気は大口を開け、歌乃のうなじ部分目がけて噛みつきを敢行した。
:
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『カァンッ ……ッカラン!』
歌乃が手に持っていたスコップが足元に落下し、その場で音が鳴り響いた。
噛みついた悠気の歯は骨にまで達しており、悠気の口内には1週間ぶりの鮮血の味が広がっていく。
ゾンビの味覚からすれば、その鮮血は高級な年代物の赤ワインのように、味わい深い風味と旨味を引き出す美味を醸し出していた。
だが、その味の広がりはとても遅く、動脈に噛みついた時の噴水のような勢いは無かった。
悠気の口は、歌乃のうなじではなく、二人の間に割って入ってきた樹の右腕に噛みついていた。
右腕からはポタポタと血液が垂れており、樹は苦悶の表情を浮かべている。
「ッ!……歌乃、伏、せて……っ!」
「……!」
歌乃は、樹の指示を即座に理解し、ワンショルダーとヘルメットを掴まれたまま、勢い良くしゃがみ込み、同時に、樹も噛まれている右腕を強く前に振りながら、その場でしゃがみ込んだ。
掴まえていた二人がしゃがみ込んだせいで、そのまま悠気も引っ張られる形となり、柵が支点となって悠気の脚が浮き上がる。
(しまっ……!)
このままではマズいと直感した悠気は、即座に口と手を離そうとしたが間に合わず、脚が浮き上がっては踏ん張ることも出来ない。
そのまま抵抗することも出来ず、悠気の身体は柵を越え、樹と歌乃の頭上を通りながら宙を舞った。
右手で掴んでいた歌乃のヘルメットは外れて一緒に空を飛び、左手はワンショルダーを掴んだままであったが、掴まれているままだと気づいた歌乃が前面部の留め具を外し、それも落下阻止の意味を成さなくなっていた。
悠気は、そのまま両手にヘルメットとワンショルダーを掴みながらビルの合間へと落ちて行き、そして、すぐに見えなくなった。
「樹ッ!!」
歌乃は、悠気が落ちていくのも見届けず、自分の代わりに噛みつかれた樹の方を振り返った。
樹の右腕からは服の上から血がどんどん滲み出ており、かなり深く噛みつかれたことを表している。
しかし、樹は歯を食いしばって痛みを我慢し、自分の怪我よりも逃げることを優先するために平静を保とうとした。
「だ、大丈夫、これぐらいなら、まだ平気だよ。……それより、早くここから逃げよう」
「で、でも、早く治療しないと!」
「こんな場所じゃ、そんなにゆっくりしてられない。それに、他のゾンビ達も……」
屋上にいた社員ゾンビ達が、二人を襲おうと手を伸ばして掴みかかろうとしてる。
柵があるおかげで、しゃがんでいる二人には辛うじて手が届いていないが、それもすぐに乗り越えられるだろう。
「……わかった、とりあえず逃げよう」
歌乃は離したスコップを拾い、もう片方の手で樹を支えて非常階段の方へと向かっていった。
非常階段に繋がる柵をなんとか乗り越え、二人三脚しながら非常階段を下まで降り、終着点の出口を覗いてみると、そこにゾンビの姿は見当たらない。
思惑通り、近くの防犯ブザーにゾンビが吸い寄せられて去っていることを確認できた歌乃は、閉じられていた柵を開けてビルからの脱出を果たした。
まだ安全とは言い難いが、それでも、この恐怖のビルから生きて抜け出せたことに安堵し、歌乃はその場で脱力しそうになる。
そこをなんとか堪え、安全な場所に行ってから樹の手当をしなければと、再び二人三脚で歩み出していった。
ビルから離れる際、樹は、悠気が落ちていった辺りの方向に軽く目をやったが、暗く何も見えないことがわかると、前に向き直して歩くことに集中し始めた。
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歌乃と樹は、しばらく黙々と歩き続け、次第に警報音と防犯ブザーの音が遠く聞こえるようになっていく。
辺りは閑散としたビジネス街に戻り、ゾンビ達の気配も無い。
おそらく、警報音と防犯ブザーが聞こえる範囲内にいたゾンビは、全員あのビルに行ったのだろう。
もう安全だと落ち着きを取り戻した歌乃が、樹をしっかりと見つめて問いただした。
「……どうして、あんな無茶を」
先に、庇ってくれたお礼を言うべきだったかもしれない。
それとも、怪我の心配をするべきだったかもしれない。
しかし、そんな想いとは裏腹に口から出た言葉は、捨て身になってまで自分を守ってくれた樹の行動に対する疑問であった。
歌乃の問いに、樹は少しだけ考える素振りを見せたが、
「わからない。けど、あの時はあぁするしかないと思ったんだ」
「……それで、それで樹が死んだら、元も子もないよ」
「…………ごめん」
今にも泣き出しそうな声で話す歌乃の言葉に、樹は何故か謝ることしかできなかった。
今は助かったことを素直に喜ぶべきなのに、二人ともそれができないもどかしさを感じ、心が締めつけられるような気持ちになる。
喉が渇き、息が苦しい。
まるで、誰かに怒られている時のような焦燥感が、心の底から湧き上がってきていた。
それでも前には進まなければならず、歩くことだけは止めなかったが、その空気に耐えられなくなったのか、歌乃が再び話し始めた。
「約束して。もう、無茶はしないって」
歌乃が発した約束は、実にもっともらしく当然な要望であったが──、
「……ごめん、約束できないよ。たぶん、また同じように歌乃が襲われそうになったら、きっと僕は同じ事をするだろうから」
「だからッ! それで、もし代わりに樹が死んでしまったら!!」
「ううん、歌乃は勘違いしてるよ」
「……勘違い?」
「もし、先に歌乃が死んじゃったら、僕だけじゃこの街で一日も生き延びられないよ。……"あの日"からずっと、歌乃と一緒だったから、僕はまだ生きている」
「……」
歌乃が反論しようとしたが、グッと堪えて言葉を飲み込む。
それを察したかのように、樹は言葉を続けた。
「別に死にたいと思って無茶してるんじゃないよ。歌乃と一緒に生き延びたいと思ってるから、そのためだから無茶だって出来るんだ。それに……」
「それに?」
聞き返す歌乃に、樹は力弱く微笑みながら言った。
「歌乃が無事ならそれでいいよ」
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朝になって雨が止み、太陽が雲から顔を覗かせてビジネス街を明るく照らし始める。
非常ベルと防犯ブザーの警報音がずっと鳴り続いており、その音源となっているビル周辺ではゾンビ達が集団でうろついていた。
そのゾンビ達の中に、仰向けになって倒れたままのゾンビが1体。
全身の損傷が激しく、片脚は変な方向に折れ曲がっている。
着ているスーツもボロボロで、目立つ青いストライプのネクタイも泥で薄汚れていた。
目元は前髪に隠れて見えないが、口を大きく開けたまま動く気配が無く、周囲のゾンビ達は何事も無いように無視し続けている。
まるで、息絶えた遺体のようであったが、近くにいたゾンビに蹴られた際、そのゾンビの指先が、微かに動いたように見えた。
これでvs歌乃&樹編は一旦終わりです。




