012. Hunting time. (4)
悠気は後ろ手でドアを閉めると、ドア前で立ちつくし、目の前の二人を睨み続けた。
歌乃と樹は、予想だにしていなかった目の前の光景を、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。
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ここからだ、ここからが正念場だ。
ここまでは、概ね上手くいっている。
正直、ここから先はどうなるかわからない。……かなり、行き当たりばったりだからだ。
もっと時間に猶予があれば、何かしら考えられただろうが……。
だが、俺は狼狽えてもなければ、諦めてもいない。今から、目の前の二人を間違いなく追い込めるはずだ。
それに、こっちにはまだ"切り札"も残しているのだからな。
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「樹、気をつけて。あのゾンビ、他とは"なにか"違う……」
「で、でも! 相手が1体なら、二人でやれば今までどおり倒せるはずだよ!」
「……うん、油断せずに倒して、その後はすぐに脱出しよう」
歌乃と樹が、悠気に向かって前進を始める。その足取りは用心深く、慎重で、隙も油断も無く、そして、なによりも遅かった。
(もう少し、もう少し近づいてくれば……)
ゆっくりと近づいてくる二人を悠気は睨み続けながら、じっと待ち続ける。
歌乃も樹も、ゾンビなのに何故か襲ってこない悠気に違和感を感じているが、足を止める理由には至らず、まして他に取るべき行動も思いついていない。
今は、ひたすら警戒しながら前進するしかなかった。
そうして、歌乃と樹が倒れたままの遺体の側を超え、階段から非常階段までのちょうど中間辺りに到達した、その時──、
(……よし、今だ!)
歌乃と樹が階段から十分に距離を開けたことを確認した悠気は、二人から目を離して横に振り向き、そして、右腕を上げて構えた。
「止まって! ……あのゾンビ、何かするつもり?」
即座に反応した歌乃は樹に呼び止め、その場から動かず悠気との距離を保つ。
ゾンビがどんなに力強く、危険でも、距離さえ離れていれば危害が及ぶことはない。
これは、二人の経験則による判断であり、実際に間違った判断ではない。
しかし、それは"普通の"ゾンビを相手にしていた場合の話であり、今の状況では、即座に走り寄って目の前の奇妙なゾンビを倒すべきであった。
悠気の一挙一動に警戒して、手に持った武器を構え直した二人であったが、ふいに、悠気の目の前にある物に気づいた歌乃は、ビクリ!と身体が大きく引きつって、再び背筋に鋭い悪寒が走り抜けていった。
(俺は知っていた。このビルの、どの階でも非常出口近くには必ず設置されていることを。ちょうど、前から一度くらいは押してみたいと思っていたところだ!)
二人に気づかれて阻止される前に、悠気は勢いよく右腕を前に突き出した。
突いた手の先にあった物は、非常ベルであった。
『パキッ』と、プラスチックの割れる小さな音が鳴ったと同時に、悠気の指が、更に中にあるボタンを強く押し込んでいた。
『ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッッ!!!!!!!』
2階フロアで、耳をつんざくような警報音が、再び鳴り響く。
しかし、この警報音は「避難しろ」という意味合いで鳴らされたものではなく、「このビルに、そして2階に集まってこい」という意味合いで鳴らされたものであった。
「なっ……!」
樹は、非常ベルが鳴ったこと以上に、ゾンビが非常ベルを鳴らした事に対して驚きと動揺を隠せなかった。
歌乃に至っては、目を見開くだけで言葉すら出ていない。
歌乃と樹が今まで出会ったゾンビ達は、いずれも本能と反射だけで行動する単純な化物であった。
それ故に行動が予想しやすく、油断しなければ十分に倒せる相手であった。
しかし、目の前に立っているゾンビは、ゾンビ達が音に寄ってくる習性を理解し、それだけでなく故意に非常ベルを鳴らした。
ここまで利己的に行動するようなゾンビとは出会ったことが無かった二人は、今までのゾンビ観が狂い始め、目の前に立っているゾンビが、本当にゾンビなのかどうかも疑わしく感じ始めていた。
この時点でようやく歌乃と樹は、思考して行動し、人を貶めようとするゾンビが存在するということに、認識を改めさせられることとなった。
一方、悠気の方は、思惑どおり二人が動揺する姿を見て満足気ではあったが、まだ不安を抱いたままであった。
(さて、どうするべきか……)
二人が動揺しているとはいえ、1対2の状況である事には変わらない。このまま挑んでも、悠気が勝てる見込みはまだ薄い。
(近くのゾンビが集まってくるまで時間を稼がなければならないが、とりあえずは……)
悠気は、固まっている二人を尻目に、今度は非常出口のドアに振り返り、そのまま拳を握って、上から勢いよくドアノブを殴りつけた。
金属音を響かせながら、相応に頑丈だったはずのドアノブはあっけなく外れ、そのまま地面を転がっていく。
(これで、袋小路の完成だ。……俺は後戻り出来なくなったが、目の前の二人は脱出経路を失った)
二人を精神的に追い詰め、パニックに陥ったところを狙う。
それが、悠気が考えていた基本的な戦略であった。
今、ドアノブを外したことは、物理的な逃げ道を塞ぐためというより、更に精神的に追い詰めるための行為である。
そして、その行為は悠気が想定していた以上に強い動揺を誘う事となった。
「ド、ドアノブが……!」
「…………この、ゾンビが、……今までやっていたの?」
歌乃は、このビルに入ってから起きていた一連の不可思議な現象の犯人が、目の前のゾンビだったのではないかと考え始めていた。
非常ベルを理解していれば火災報知器だって理解しているはずだ。
よくよく観察すると、階段で襲ってきたゾンビと姿が似ていることにも気づき、音に誘惑されず行動できるのであれば、タイミングを見計らって襲ってこられたのにも合点がいく。
考えを張り巡らせているうちに、憶測が少しずつ確信へと変わっていく。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではないことまで気づけるほど、歌乃の頭はもう回っていなかった。
歌乃は、あらかじめ予測できるような出来事や、ゆっくりと考える時間があれば、相当賢く振る舞えたが、突発的な出来事や、思いがけない出来事に直面した場合には極端に弱かった。
"何が起きたのか"と"どうすれば良いのか"を同時に考えてしまい、頭の中で情報が錯綜してしまう。
更に、一つのことを考えている途中に別の疑問が浮かべば、簡単に思考を寄り道してしまうようになる。
──つまり、この時点で歌乃はもう、論理的な考え方が殆ど出来なくなっていた。
歌乃が黙々と立ちつくし、樹は動かない歌乃の事が気になっているが、次は何を仕出かすのかわからない目の前のゾンビから目を離すことが出来ない。
悠気の方は、二人の反応を注視しながら、ただじっと時間が経過するのを待っていた。
そして、その待つ時間は、長くはかからなかった。
『ドダンッ……』
鳴り響く警報音の音に紛れながら、樹と歌乃の後ろの方で、何かが床に落ちたような音が響いた。
その音に気づいた樹は、恐る恐る振り返る。
階段辺りで何か黒い塊が落ちている。つい先程までには間違いなく無かったものだ。
その黒い塊はゆっくりと少しずつ動き出し、そして、その場で立ち上がった。
音を鳴らした黒い塊の正体は、階段の踊り場から2階に転げ落ちたゾンビであった。
更に、角度的にまだ悠気や樹からは見えていないが、階段の踊り場にはゾンビがもう1体たどり着いており、1階へと繋がる階段の方からもゾンビが上ってきていた。
(……ようやく、着たか)
元々、近くまで降りてきていた上の階のゾンビは当然として、1階に待機させたままだった残り1体のゾンビまで直ぐに階段を上ってきたのは、悠気にとって幸運であった。
これにより、悠気の目論見どおり、樹と歌乃を包囲して追い詰める形が完成した。
瞬く間に逃げ道を無くし、ゾンビ達に包囲され、歌乃が当てにできなくなっている状況の最中、樹は早々に決断しなければならない窮地に立たされていた。
目の前の思考するゾンビを倒して、ビル周辺にゾンビ達が集まる前に脱出するべきか。
それとも、2階非常出口からの脱出を諦めて、別の方法の逃げ道を探るべきか。
どちらを選択するのが安全で助かる可能性が高いのか、樹では全く判断がつかなかったが、今、この場で何も行動しなければ、二人ともゾンビに襲われて死ぬことだけは確実だということは理解していた。
焦る樹と、呆然としたまま固まる歌乃。
しかし、悠気もまた、次はどうするべきか決めあぐねていた。
今、悠気が最も恐れている展開は、目の前の二人が自暴自棄になって突っ込んでくるということであった。
二人をこの状態まで追い込んでもなお、悠気は二人同時に襲いかかられれば呆気なく敗北し、最悪、致命傷を負わされるという考えが抜けておらず、油断する訳にはいかなかった。
(どうすれば、あの二人がこっちに突っ込んでこないように仕向けられるか。今の俺が出来ることはもう少ないが……)
悠気は特に、樹が4階で見せた捨て身の特攻を非常に警戒していた。
隙を見せれば樹が突っ込んでくると考えているため、迂闊な行動はできない。
だが、このまま時間を過ごしたとしても、相手に決定権を委ねる危険な賭けをするだけである。
(もし、俺があの二人の立場だったとしたら、何をされたら襲うのを躊躇するか……)
悠気が短い時間で考えに考え、そして、一つの答えにたどり着いた。
それは、足を一歩、強く前に踏み出すことであった。
「く、来るっ!」
ようやく、こっちに向かって動き出してきた悠気を見て、樹は戦慄しながら後ろにたじろぐ。
その声と表情からは、悠気の事を必要以上に恐れていることが見て取れた。
(これは、……行けるか?)
下手に待ち構えたり、引き下がったりすれば、こっちにはこれ以上何も無いと勘ぐられてしまう。
そう考えた悠気は、何も無いことを悟らせないよう、意味深長に見える一歩を踏み出すというブラフに出ていた。
もちろん、逆に相手を刺激して襲われる危険も考えて、まずは様子見として一歩だけ進んで反応を確認したのであったが、その一歩目の反応から、樹が特攻してくる可能性は低いと踏んだ悠気は、続けて二歩目を踏み出した。
「……っ!」
悠気の二歩目が地面に着くか着かないかのうちに、樹は歌乃の腕を引っ張って階段の方へと駆け出していった。
目の前の思考するゾンビ1体を相手するよりも、階段のゾンビを相手した方が容易い。
樹はそう判断せざるを得ないほど、一歩ずつゆっくり近づいてくる悠気の不気味さに耐えられなかった。
それに加えて、今の歌乃の状態では、仮に悠気を倒して脱出できたとしても、ビルの外に居るであろうゾンビ達から逃げ延びられる風には見えなかったのが、一番大きな理由であった。
「歌乃っ! しっかりして!!」
「……あ、あぁ、なんとか、いけるよ……」
腕を引っ張りながら歌乃を叱咤激励する樹に、歌乃が掠れたような声で応える。
しかし、歌乃の表情からは到底なんとかなりそうには見えない。
そんな弱々しい歌乃の姿を見て、樹は一つ、覚悟を決めた。
「歌乃は後ろから着いてきて。……僕が、ゾンビをなんとかするから」
「…………え?」
まだぼやけた頭で歌乃は一瞬、樹の言葉を聞き間違えたかと思った。
私ではなく、樹が先頭に立って複数のゾンビを相手すると、そう言った風に聞こえていた。
しかし、聞き間違えや空耳などではなく、それは間違いなく樹が先陣を切ると宣言していたのだった。
突然の宣言に対して、歌乃が叫ぶ。
「それは……、駄目だ! 無謀過ぎる!」
「上の階に行くよ! 後ろから着いてきて!!」
歌乃の反論をまるで無視するかのように、樹は言葉を叫んで残し、歌乃の腕を離してダッシュして突っ込んでいった。
「……わかったよ」
歌乃は、言いかけた言葉を飲み込み、頭と気持ちが落ち着くまでは樹をサポートしようと決意を固め、樹の後ろを追いかけていった。
(ふぅ……、この場は、なんとか凌げたか)
樹の決断に最も安堵したのは、他でもない悠気だった。
成り行き上、二人の正面に出て身を晒してしまったが、基本的には二人が弱るかパニックになるまでは表立って襲いに行く考えは無かったため、対峙していた時の悠気は内心、生きた心地がしていなかった。
と言っても、既に生きた心地の無いゾンビではあるが。
しかし、悠気はまだ二人の脱出を阻止しただけで、肝心の食糧確保までには至っていない。
階段に居るゾンビ達と連携して樹と歌乃を襲うために、悠気も早歩きで二人の後を追いかけ始めた。




