011. Hunting time. (3)
ドアにドアノブが無い。
歌乃と樹は、この"ドアノブが無くなっている"という事実に、今まで生きてきて味わったことの無い衝撃と、絶望を覚えていた。
本来ドアノブがあったであろう場所には、いくつかのネジ穴と大きな丸い穴が開いている。力任せに外されたのか、空いた穴が少し歪んでおり、地面には小さなネジがいくつか転がっていた。
望み薄なのは明白だったが、歌乃はドアがこのまま開かないか手で押してみる。
そして、当然のように、ドアはビクともしない。
「最初に確認した時は、ドアノブも問題なかったんだよね……? どうして……」
「…………わからない」
樹のもっともな疑問に、歌乃は、か弱く言葉を返すしか無かった。
ドライバーやペンチがあれば、穴から差し込んでドアノブ代わりにできたかもしれない。当然ながら、そのどちらも持ち合わせていない。
思いっきり体当たりすれば開くだろうか。しかし、それでドアが開かなかった場合、今度は後ろのゾンビ達に気づかれて、逃げ場もなく襲われてしまう。
他に何かないか、歌乃は必死になって考えたが妙案は浮かばず、その場で固まることしか出来なかった。
「歌乃……! 歌乃ッ!」
必死の形相を浮かべた樹が、小声で声をかけながら歌乃の肩を揺さぶる。
虚ろな目をした歌乃が、樹の方にゆっくりと視線を落とした。
「マズいよ歌乃! ゾンビがこっちに気づいた!」
……樹が発した言葉の意味を理解するのに、歌乃の頭は2、3秒ほどかかり、そして、意味を理解した瞬間、歌乃の瞳孔が大きく開いて、すぐに後ろを振り返った。
一番近い位置に居たゾンビが1体、二人の方に振り向いており、ゆっくりと歩き始めていた。
歌乃は、こちらに向かってくるゾンビと目が合ったように錯覚し、今まで感じたことのない寒気が背中を走る。
(どうする……? どうすればいい……?)
歌乃は、混乱した頭で必死に考え続けるが、その間もゾンビはジリジリと近づいてくる。
他のゾンビ達も、いつ二人に気づくかも知れない。
焦りと混乱とゾンビが同時に押し寄せ、それらが相乗して歌乃に襲いかかる。
眼前に危機が迫っても、歌乃の身体が思うように動かず、棒立ちという最悪の一手を行おうとしていた、その時、歌乃の横で、影が動いた。
影の正体は樹だった。
歌乃の様子を見かねた樹が、目の前のゾンビに向かって突撃を始めていたのだった。
ハンマーを両手に構え、身を少し屈めながら全身をぶつけるかのように突進していく。ゾンビも樹にターゲットを絞ったのか、樹に向かって歩く速度を上げ始めた。
樹とゾンビの距離はもう数メートルも無い。数秒後には両者が激突する。
頭がうまく回らなくなっている歌乃は、樹の後ろ姿を眺めることしか出来なかった。
「うわぁぁあああああぁぁぁぁ!!」
樹が雄叫びを挙げ、ゾンビの数歩手前で踏み切ってジャンプし、そして、両手で持ったハンマーをゾンビの頭めがけて全力で振り抜いた。
『ガァンッ!!』
樹の振るったハンマーがゾンビのこめかみに直撃し、鈍い音がフロア中に響いた。
殴られたゾンビは、大きく横にふらついて一瞬だけ動きが止まり、そのまま膝から崩れ落ちた。
歌乃は、信じられないものを見たような顔をして、目の前の光景をじっと見つめていた。
今まではフォローしながらであれば、樹がゾンビを倒す姿を何度も見たことはあったが、樹が単独でゾンビを倒したのは、これが初めての光景だった。
目の前の出来事に呆気にとられている歌乃に向かって、樹が大声で叫ぶ。
「歌乃ッ!! 早く、こっち!ゾンビが来るよ!!!」
「えっ、……あぁ、うん!」
今の騒ぎで残りのゾンビ3体も二人に気づき、こちらに向いている。
まだ事態を飲み込めていない歌乃は、言われるがまま樹の元へと駆け寄り、残りのゾンビ達がやってくる前に、二人は近くにあった部屋のドアを開けて入って行く。
当然、ゾンビ達も二人の後を追って、開いたままになったドアから侵入しようと足早に近寄っていった。
ゾンビ達が部屋の中に入る一歩目を踏み出した瞬間、もう1つのドアが勢い良く開き、二人が飛び出していった。
後ろも振り返らないまま、樹と歌乃は全速力で階段の方に駆け出していく。
二人に気づいたゾンビ達も、再び後ろから追いかけ始めたが、とても追いつけるような距離ではなかった。
「ハァ、ハァ……。とりあえず、ハァ……、なんとか、なったね。歌乃の方は、平気?」
「……うん、おかげさまで」
息を切らしながら走っている樹の横で、歌乃は少しずつ平静を取り戻しつつあった。
「あの状況でよく動けたね。私じゃどうにもならなかったよ」
「ハァ、ハァ……。自分でも、そう思うよ。……でも、歌乃があの状況じゃ、僕がなんとかしないとって」
「……ありがとう、樹。すごくカッコよく見えたよ」
「………………。そ、それより! これからどうする?」
唐突に褒められた樹は、照れ隠しのために、脱出の話題へと話を逸らした。
歌乃が走りながら少し考え、そして答える。
「……3階に降りよう。3階の非常階段から脱出するよ」
歌乃と樹の二人が、3階へと繋がる下り階段の方へと向かっていく。その後ろをゾンビ達が追いかけていく。
そして、更に遠くその後ろ、非常出口にほど近い別の部屋からゾンビが1体、ゆっくりと姿を現した。
そのゾンビの手には、銀色に鈍く輝くドアノブがしっかりと握られていた。
(流石に、この階で倒せるなんて思うのは甘かったか……。と言うより、ゾンビ達に期待し過ぎたな……)
悠気は、4体のゾンビを連れて4階へとたどり着き、当初は火災報知器が鳴り止む前にゾンビ達を部屋へと突入させ、タイミングを見計らってもう一つのドアから侵入して、一気に挟撃するつもりであった。
しかし、ゾンビを誘導している途中で火災報知器が鳴り止んでしまい、いつ二人が飛び出してくるやも知れない状況となる。
そこで、急遽、作戦を変えて、まず悠気は、二人が居る部屋のドアを音が鳴り響くように強く叩いた。
叩いた音に釣られたゾンビ達が同じように部屋のドアや壁を叩き出し、部屋内の二人が迂闊に出てこられないようになった事を確認すると、悠気は非常出口まで移動してドアノブを強引に引き剥がし、逃げられない袋小路を作った。
ここまでで悠気の準備が完了し、その後、近くの部屋に隠れて二人がゾンビ達に追い込まれているところを不意打ちする算段をしていたが、樹の活躍により阻止されてしまった次第であった。
結果的に、4階で二人を仕留めることは出来なかったが、一番防ぎたかった4階非常階段からの脱出は阻止することが出来た。
(ここからは流石に俺が直接動いて、あの二人と対峙しなければならない。リスクを負うことに事になるが、他のゾンビ達には任せられない……)
悠気は部屋から出て、早歩きで非常出口の方へと向かっていく。出口のドアは閉まったままであったが……、
『ダンッ!!』
悠気が近づいて掌底でドアを殴りつけると、ドアは大きな音を出しながら簡単に開いた。
そのまま悠気は、何事もなかったかのように非常階段へと向かっていった。
ビルの外に設置されていた非常階段は長年吹きさらしとなっており、白い塗装がところどころ剥げて、錆が目立っている。
雨にもずっと打たれており、鉄製の階段では水捌けが悪く、段差の部分は水浸しで見るからに滑りやすそうだった。
(早く降りないと、今度は3階からあの二人に逃げられてしまう。だが、この階段は……)
悠気は、ゾンビとなった身体で階段をどう降りるべきか考えていた。
普通に降りるだけでは、運動神経の鈍くなったゾンビだと途中で滑って転ぶだろう。手すりに捕まりながら、一歩一歩慎重に降りれば転びはしないでも、今度は時間がかかり過ぎる。
(やはり、"アレ"しかないか……)
悠気の中では、どう降りるのがベストか、既に答えが出ていた。
悠気は頭部を守るように腕で囲い、一呼吸して気持ちを落ち着け、そして、階段の踊り場に向かって、勢い良く身を投げ出した。
階段の中頃まで一気に飛び越えたが、その後は、段差の部分に何度も身体をぶつけながら、文字どおり階段を転がるように落ちていく。
(痛っ……くはないが、変な感じはするな。身体中が打撲や青アザだらけになりそうだ……)
転がっている最中でも意識だけははっきりと持ち、そのまま踊り場の柵にぶつかりながら、悠気の身体は止まった。
悠気はすぐさま身体を引き起こし、そして、3階非常出口までの階段も、同じ方法で降りていった。
樹と歌乃は、階段を降り、3階にまで到着していた。
最初にやってきた時と同じように3階フロアは荒れ果てていたが、ゾンビは見当たらない。非常階段までの通路は安全そうに見えていた。
「歌乃!早く行こう!!」
「待って、樹」
「何か気になることでもあるの?」
「思い出したけど、この階に最初来た時、ここから見ただけで中まで詳しく調べていなかったんだよ」
「……まだゾンビや、何か罠みたいなのが隠れているかもしれないってこと?」
「そう……。急ぎたいところだけど、慎重にゆっくり行こう」
「……わかった」
立て続けにゾンビ襲撃と想定外の出来事があったせいで、歌乃は用心深く、慎重になっていた。
実際に、このフロアに対して悠気が何かを仕掛るほど時間的余裕も無かったが、他の階で行った仕掛けが予想以上に、歌乃の心を揺さぶっていたのだった。
二人は、柱の陰や机の下、はては床に散らばった物にまで注意しながら、非常出口の方へとゆっくり進んでいった。
「……よし、安全そうだね」
「歌乃! ここはドアノブもちゃんとついてるよ!」
「それは良かった、このまま出よう」
「うん!」
樹がドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。ガチャリと音がし、樹は意気揚々とドアを押し開けようとした。
しかし……。
「…………あれ」
「どうしたの?」
「押しても、開かない……」
「……」
二人の間に、再び不穏な空気が流れる。
ガチャ!ガチャ!と、何度もドアノブを回しながらドアを押すが、微塵たりとも開かない。
「なんで!? なんで!?!?」
樹が体当たりをしながらドアを押し開けようとしてもビクともしない。まるで、ドアの反対側に何か障害物があって、それがドアを塞いでいるかのようであった。
そして、実際にドアの反対側には悠気が居た。
二人より先にドア前までたどり着いていた悠気は、渾身の力でドアを押さえて開かないようにしていた。
反対側からどんなに強く押されても、ゾンビの力であれば力負けすることはない。
(この階は、やり過ごさなければ……)
悠気は、3階で二人を仕留めるつもりは無かった。
秘策がある訳でもなければ、仕掛けも何もしていない。
仲間のゾンビもいない3階で二人と対峙しても、悠気に勝ち目はない事がわかっていたからだ。
この階は封鎖するだけでやり過ごし、次の階、つまり、2階で対決するつもりでいた。
「樹、この階のは諦めよう」
「……えっ?」
「開かない理由はわからないけど、頑張ってもこのドアはたぶん開かない……。ここで詰まっててもゾンビに追いつかれるだけだよ」
「じゃあ、どうする……?」
「……2階の方に賭けよう」
「うん、……わかった」
いつまでも開かない3階の非常出口は諦め、二人は再び階段の方へと戻っていく。
ドアノブを回す音が聞こえなくなったことで、悠気もまた、二人がこのドアからの脱出を諦めたことを察した。
悠気はドアを押さえるのを止め、そして、今度は2階の方まで非常階段を降りていった。
2階も3階と同様に、静まり返った空間のままで、動くものは何も見当たらない。
変わっていることと言えば、歌乃が最初に倒したゾンビの遺体が、そのまま転がっていることだけだった。
3階でゾンビが出てこなかったとは言え、2階もそうとは限らない。
そう考えた二人は、必要以上に過敏になっており、2階でも用心に用心を重ねるよう周りを見渡しながら、ゆっくりと進んでいく。
その余計な時間をかける行為が、悠気に時間的猶予を与え、自分達がどんどん後手に回る羽目になっていることには気づかずに。
「……うん、ここも何もいないみたい」
「じゃぁ、非常階段の方まで急ごう! 今度はちゃんと開くかな……」
「それは……、やってみないとわからないね」
二人が2階フロアの安全を確認してから、非常出口に向かおうと進み始めた、その時──。
『ガチャリ……』
二人は、まだ非常出口から少し離れた場所に居たが、その遠くからでも見えていたドアのドアノブが、ひとりでに音を立てて回転した。
「……歌乃、見て。ドアノブが!」
「まだ、何か起きるの…………」
ドアノブが回っていることに気づいて戦慄する二人をよそに、『キィ……』と音を立てながら、非常出口のドアが、少しずつ、少しずつ開き出した。
そして、人が通れるくらいドアが開いたあと、そのドアの向こう側から、ゾンビが1体、姿を現した。
全身が雨で濡れ、髪はグシャグシャ。
着ているスーツは、ところどころ破けてボロボロであったが、その中でも、センスが良いとは言い難い青ネクタイが一際目立っている。
ゾンビは、その全身から虚脱感を感じさせるような雰囲気を醸し出していたが、顔だけは二人の方をしっかりと向いており、その赤い眼で二人の姿をじっと見つめ、その口は、まるで笑っているかのように、大きく開いていた。




