010. Hunting time. (2)
1階は正面玄関のガラスが割れたせいで換気がかなり進んでおり、白煙も薄まって、階段から正面玄関までほぼ見通しが利くようになっていた。火災報知器はまだ鳴り続けているが、あと数分もすれば煙も無くなって鳴り止みそうだった。
先ほどから変わらず火災報知器に向けて手を伸ばすゾンビ達の数を数えながら、悠気は次の作戦について考えていた。
戦闘力で劣る悠気はできるだけ直接戦闘を避けなければならず、周りのゾンビ達と協力して二人を襲う。だが、悠気の目的は、あの二人を単純に殺すことではなく、あの二人のうち、どちらかだけでも食べて腹を満たすことである。
つまり、悠気はゾンビ達と協力し合って二人を襲っても、ゾンビ達に死体を食い尽くされる訳にはいかない。
過程はともかく、最終的なトドメを刺す場には悠気が居て、ゾンビ達に死体を食われないようにするか、あるいは、ゾンビ達に死体を食われる前に食えるだけ食うことが望ましい。
これを踏まえて、あの二人をどう襲うのが良いのか、悠気は頭を悩ましていた。
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……思っていたよりも集まったゾンビの数が少ない。
1階ロビーに居るゾンビは5体で、ビル内に入らず外でうろついているのは10体足らずといったところだ。
もっとビル周辺がゾンビ達で覆い尽くされているようなものを想像していたが、このビジネス街のゾンビは、既に殆どがどこかに移動してしまったようだ。
やはり、ゾンビになってまで会社に居ようとするゾンビは少なかったのだろうか……。
そう思うと、今残っているゾンビ達は心なしか、家庭に居場所が無くなった白髪混じりのオジサンゾンビや、結婚適齢期を過ぎたお局ゾンビが多いような気がしており、会社にしか居場所のない彼らはゾンビになっても会社にしがみついているのだと思えた。
まぁ、そんなゾンビ達のバックグラウンドを推察しているより、あの二人をどう攻めるか考えなければ。
こちらの数は向こうを上回っているが、ゾンビ同士お互いに意思疎通が出来る訳ではなく、まして連携が取れる訳でもない。せいぜい首根っこを引っ張って運ぶのが限界だ。
つまり、ゾンビ達をあの二人の元へと運ぶことは出来ても、そこから先は基本的にゾンビ達のアドリブに期待するしか無いということだ。
こういう時、ゾンビがどうやって襲えば成功していたか、映画やゲーム等で観た記憶を辿ってみるが、そもそもゾンビ映画なんて殆ど観たこと無い俺では答えが思いつく訳もなく、結局、今わかっている情報だけで何とかするしかない。
真っ先に考えなければならないのは、あの非常階段をどうやって封鎖するかだ。
1階ロビーは既にゾンビだらけになっている、と思っている二人が脱出経路として使うとなれば、非常階段しかない。
今は非常階段の出口付近にもゾンビが居るので使えなくなっているが、火災報知器が鳴り止めばビル周辺のゾンビもいなくなり、あの二人は非常階段から脱出できてしまう。
殺虫剤も最初ので全部使い切ったので、火災報知器の時間を延長することもできない。
非常階段にゾンビを置いておくのも考えたが、今度は襲うゾンビの数が足りなくなる危険がある。
あの二人を八方塞がりしているようで、八方塞がれているのは俺も同じ。むしろ、時間が経つにつれて不利になっていくのはこちら側だ。
火災報知器が鳴り止むまで時間はもう殆ど無いはずだ。ゆっくりと考えている時間も無い。
とりあえず、真っ先に向かわないといけない場所は……。
────
悠気は、近くに居たゾンビを無理矢理引っ張ってエレベーターの中へと詰め込んでいき、そして、再び上の階へと上っていった。
「……それで、結局、今はここで待つのが良いってことでいいの?」
ビルから脱出する方法について、確認を兼ねて樹が歌乃に聞き返す。
「うん……。今は、ここで居るのが一番安全だからね」
歌乃はトーンを下げた声で、淡々と言葉を返す。
二人は、逃げ延びた後からずっと4階の部屋の片隅で脱出方法について議論していたが、雨の降る夜の中、ビル周辺のゾンビ達を掻い潜りながら逃げるのにはリスクが高い。
このまま待っていれば1階ロビーの煙が薄まって耳障りな警報音も直に鳴り止むことがわかっているため、まずは警報音が鳴り止むのを待って、少しでもゾンビ達が周りに散ってから逃げ出す考えに辿り着いていた。
ここまでは二人とも話がまとまっていたが、雨に濡れたゾンビが何故かビル内にいたことと、誰が、何のために、ビル内で殺虫剤を使用したのかについては未だに明確な答えを見出せてなかった。
今の二人の状況からでは答えにたどり着くことは到底できないのだが、明確な答えを見つけられない二人は、心の中で蟠りが残ったままとなっている。
この件に関してあれこれ議論したところで推測にしかならないことを悟った二人は、脱出方法が決まった後、どちらも黙ったままとなってしまった。
今はただ待つしかない状況で、二人とも、じっと時を過ごす。
時折、樹が窓から外を覗き見るが、暗がりでもビル周辺にゾンビがうろついているのが見え、ずっと閉じ込められ続けていることを思い知らされる。
このままゾンビ達に囲まれたまま助からないかもしれない、大量のゾンビがこの部屋まで来て襲われるかもしれない、こんなところで死んでしまうかもしれない。
そんな消極的な思いが二人の胸を締めつける。
重い空気が流れ、まだ鳴り止まない警報音が、更に焦燥感を掻き立てた。
「……ねぇ」
二人の沈黙を破ったのは歌乃の方からだった。
「……ん、何?」
「さっきの、他の人が私達を殺そうとしたかもしれない、って話だけど……。どんなに辛い状況になっても、私は、私は樹の味方でいるよ」
「…………うん。僕も、絶対に歌乃を裏切らないよ」
「……」
二人の間では当たり前のような確認だったが、それでも言葉にして伝えておかないと、と思うくらい歌乃は不安に陥っていた。
街が急にゾンビだらけになって、今までも何度か危機はあったが、それでも持ち前の知恵と運動神経と、何より樹と二人でいれば何とかできると考えており、実際にそのとおり何とかできていた。
しかし、今は考えても答えが出てこない不可解な現象が連続して起こり、ゾンビに囲まれて一室に閉じ込められ、こちらの行動も何か後手に回っているように感じていた歌乃は、嫌な感覚がずっと続いていた。
(このまま助からないかもしれない……)
樹と比べて楽観的な性格をしていた歌乃でも、今の状況には胸騒ぎを覚え、身体が少し震えていた。
それが寒気から来ているものではなく、目に見えない不安によるものだとは歌乃自身も認めざるを得なかった。
歌乃は目を瞑り、必死になって身体の震えを抑え込もうとする。
(平常心にならないと……)
何度も静かに深呼吸を繰り返したり、左手で右肩を強く揉んで不安を紛らわそうとしたが、震えは一向に止まろうとせず、むしろどんどん大きくなっているようにも感じていた。
それでも、歌乃はひたすらに行為を繰り返し、何とか震えを止めようとしていた。
歌乃が、20回目の深呼吸をしようと息を深く吸い込んだ時、ふと、右手の甲が何か暖かい物に包まれているのを感じた。
けっして熱くはなく、お風呂に浸かっているような丁度よい温度で右手が暖められていく。
夢見心地になりそうな暖かさに歌乃は安心感を感じ始めていたが、何があったのかと目をゆっくりと開けると、いつの間にか樹が目の前で座っており、樹の手が歌乃の右手を包み込むように握っていた。
「歌乃、大丈夫?」
優しい声で樹が話しかける。
「……ん、あぁうん。大丈夫、平気だよ」
「そう? 目を閉じたまま震えていたから心配になって……」
「……ちょっと不安になっちゃってね。樹の方は大丈夫なの?」
「僕はずっと不安だよ。……不安になり過ぎて、それが普通になっただけ」
「…………フフッ、確かにそうだね。樹はいつでもずっと不安そうにしてる」
「不安ではあるけど、臆病になってる訳じゃないよ。ゾンビ相手だって怖がってなかったでしょ」
「そこはまぁ、……多少怖がってくれた方が長生きしやすいと思うよ」
「う~ん、歌乃がそう言うなら……、多少はゾンビを怖がるように善処するよ」
樹との本気か冗談かもわからない受け答えに歌乃の不安は紛れ、いつしか身体の震えも収まっていた。
「……ありがとう樹。だいぶ落ち着いてきた」
「うん良かった。……その、何があっても僕達二人でいれば、きっと大丈夫だよ。僕も一応……、戦えるしさ」
「うん……、そうだね」
不安の原因が取り除かれた訳ではないが、何の根拠もない樹の言葉でも、今の歌乃を安心させる言葉となった。
また不測の事態が起きようとも、樹といれば何とか出来る。
歌乃はそんな気持ちで溢れ、元気そうになった歌乃を見ていた樹も安堵し、もう大丈夫そうであると納得して握っていた歌乃の手を離そうをしたが、歌乃がそれを静止した。
「もうちょっと、このまま握っててもらえる? ……樹の温もりが安心するから」
「あっ、うん…………、わかった」
今更になって照れ臭そうにする樹を他所に、歌乃は再び目を瞑って体力を温存するために休み始める。
先ほどとは打って変わって安心した表情でいる歌乃を見て、樹も歌乃の手を握ったまま隣で休み始めた。
相変わらず外の雨は続いており、今でも警報音が下の階から鳴り続いている。
そんな中でも、元々寝起きだった二人は眠気に負け始め、再びウトウトとしていた。
このまま眠ってしまえればどんなに幸せか、気づいたら朝になっていないだろうか、なんてことを考えながら、それでも歌乃は眠らまいと必死に耐えている。
対して、樹の方は完全に沈黙してしまっており、その様子からは、まだ起きているのか、それとも寝ているのかもわからない。
少しでも体力を温存するために休むことは大事だったが、それでも今の状況で二人とも眠ってしまうまでいくと、万が一、何かあった時は後手に回ってしまう。
これ以上、何も起きないだろうとは考えていたが、それでも用心に越したことはないと、歌乃は自分自身に言い聞かせて眠気に耐えていた。
(せめて、交代で休むようにしておけば……、いや、たぶん一緒だったね……)
薄っすらとした意識の中で、歌乃の耳には外からの雨音だけが静かに聞こえていた。
……歌乃はハッと意識が覚醒し、目を開けて立ち上がった。
「音が、止んでる……」
いつの間にか下の階からの警報音が鳴り止んでおり、部屋内は雨音だけしか聞こえないようになっていた。
歌乃は急いで樹を揺り起こす。
「樹、起きて。警報音が止んだよ」
「ん、ううん、……どう、したの?」
「ほら、警報音が止んでるんだよ」
「…………あっ、ホントだ!」
歌乃の一言で樹は意識を取り戻し、そして、目論見どおり警報音が鳴り止んだことに安心した。
「良かった……。これで歌乃の言ったとおり無事に脱出できるね」
「まだ気が早いよ。ゾンビ達が散っていくか見ておかないと」
「りょうかい。僕が見ておくよ」
樹が窓から外を覗きビル周辺を観察する。ゾンビ達が全員いなくなっていることを期待していたが、実際は警報音が鳴り止む前と殆ど変わらずゾンビ達がビル周辺で佇んでいるのが見えた。
「ゾンビ達、まだいるよ……」
期待を裏切られて落胆した樹がどんよりとして報告する。
「近くに別の音源があれば、すぐそっちに向かってくれそうだけど、どこかに行ってもらうのには時間がかかるみたいだね。そこは仕方ない、もう少し待ってから非常階段に向かおう」
「うぅん………」
待たなければならないことに頭では納得していても、もどかしい気持ちが残ったままの樹は、その後も何度か窓を覗き見て、その度に苦い顔をする。
「落ち着きなよ。そんなに何度も覗くとゾンビ達に見つかるかもしれないよ」
「ご、ごめん。でも気になって。……ねぇ歌乃、思ったんだけどさ、このまま朝までここに居るのはだめなの?」
「…………んん」
樹の意外なようで妥当な提案に、歌乃は改めて考え直し始めた。
元々は得体の知れない不安から逃げ出すために、多少のリスクを犯してでもこのビルから脱出すべきだと考えていた。
しかし、この部屋に戻ってから警報音が鳴り止むまで、特におかしなことは起きておらず、また、起きそうにもない。
冷静になってから考えれば、起きるかもわからない危険を気にしてゾンビが潜む夜の街に逃げ出すのは随分と無謀な判断だと思わざるを得なかった。
「……う〜ん。まぁ確かに、まだ外も暗いから危険だし……。うん、わかった。朝になるまではここで居よ──」
歌乃が言葉を言いかけた、その時、
『バンッ! バンッ!!』
安心しきった二人の虚をつくように、突然、階段に近いドアの方から大きな音が鳴り響いた。
樹はその場でビクつき、歌乃は咄嗟に屈んで、ドアの方を睨みつけた。
「ね、ねぇ…、今の音って……」
「……樹、逃げる準備を」
「う、うん!」
二人はそれぞれのカバンを背負い、手に武器を取って身構えた。
音の正体が何なのか、二人とも話し合うまでもなく予想はついている。
今、このビル内でドアを乱暴に叩くような者が居るとすれば、ゾンビ以外思いつかない。
ゾンビがどうやって4階まで上ってきたのか考える余裕もないが、安全だったはずの部屋が窮地の場になったことだけは考えずとも理解していた。
……しばらくの静寂の後、再びドア付近から大きな音が鳴り響く。
『バンッ!バンッ!ガンッ!バンッ!ガンッ!バンッ!バンッ!バンッ!バンッ!』
一度目の音がした時と比べて数が増え、音も大きくなっている。
少なくとも、部屋の外に居るゾンビは1体ではなく複数で、しかも、二人がこの部屋に居ることを理解しているかのようだった。
部屋のドアは防音性を兼ねたスチール製であったが、いくら頑丈なドアでもゾンビに叩かれてどれほど保つのかわからない。
「ど、どうしよう、歌乃……!」
「……どのみち逃げ道は一つしかないよ。ついてきて」
そう言って歌乃はもう1つのドアの元へと向かう。そのあとに樹も続いた。
階段に近い方のドアとは違い、もう1つのドアからは外から叩かれる音がしていなかった。
ドアの開く音を出さないよう、歌乃はゆっくりとドアを開けて外を覗き見る。
階段に近い方のドア周辺にはゾンビが4体ほど集まっており、両手をドアや壁に何度も叩きつけていた。
「こっちのドアには気づいていないみたい……。このまま逃げるよ、音は出さないようにね」
「わかった。静かにね……」
二人は小声で相談しながらドアを慎重に開き、部屋からの脱出を試みる。目指す場所は非常階段出口だ。
足音が鳴らないよう静かに、カバンや手に持ったスコップを壁にぶつけないようにも注意しながら部屋を出る。ゾンビ達には気づかれていない。
なるべく非常階段に近い部屋を選んだおかげもあり、部屋からの脱出さえ乗り切れば後は大丈夫だと考えていた二人は少しだけ安堵し、そして、非常階段出口の方へと静かに駆け出した。
道中問題なく二人は非常階段出口のドア前までたどり着き、歌乃は後ろを振り向いてゾンビ達の方を確認した。
「樹、見張ってるから、ゆっくり静かにドアを開けて。そのあとは一気に駆け下りるよ」
歌乃は樹に指示して、ゾンビ達がこちらに気づかないか注視する。
(予想外の出来事が起きたけど、とりあえず、このまま脱出できる。)
歌乃はそのように考え始めていた。
しかし、樹の方は非常階段出口のドア前に着いてもドアを開けようとしなかった。
「樹?」
いつまで待ってもドアの開いた気配がしないことに、しびれを切らした歌乃は樹に声をかけたが、樹はドア前で固まったまま、震えるような小声で応えた。
「歌乃、コレ…………」
「ん? 何かあっ……」
言葉を言い切る前にドアの方を向いた歌乃は、絶句した。
二人の目の前にあったドアには、本来ならあるべきはずのドアノブが、無くなっていた。




