明 -あけ-
季節はすっかり冬になり薄暗い空からは深々と雪が降り始めた大晦日のこと。灰色の街並みを薄く雪化粧した日。
思い返せば一年があっという間。自分の誕生日や色々な出来事が己の内を通りすぎては成長と経験というモノを教えてくれた。これでいいんだという確証はない。でも、今はこれでいいんだと心の何処かに言い聞かせる。
小春子はお気に入りのマグカップにお湯を注ぐ。インスタントの珈琲にお湯を半分まで注ぎガムシロップとミルク三つずつとスティックシュガーを一袋入れるとまたお湯を半分ほど。もはや砂糖水ならぬ砂糖の劇的に甘い珈琲が小春子には至福の時。それを冷ましながら口に含み職場内を給水室から見渡した。
(比護先生はどうしてるのかな?)
ふと、休養を取っている比護恭介の様子が気になった。夏頃から小説を書く速さも堕ちて期限延長も数回。危ういと言えば危うい。“スランプかもしれない”と自己判断で言われた時が秋頃に入る前くらいの時。あれから何回か屋敷には様子を見に行くも年末に向けて仕事が忙しく転化すると様子を見に行くこともあまり出来なくなった。
そのせいか音信不通になり連絡もつかない形が続いたせいで社内で“あの先生はちゃんと生きているのか?”とか“まさかあれも幽霊……!?”“消えた先生と原稿の行方がまさに霊界”等と、また噂は独り歩きしている。何がともあれ今日の今日まで原稿は出来ずに連絡もない訳で担当の小春子ですら把握出来ていない。
「小春子!ちょっと来い!」
「はい!何ですか!?」
「近くまで俺は別件で外出するから例の先生の生存確認しろ」
「え?えぇ!?私、仕事終わりましたけど!?」
「つべこべ言わずに来いっ!!」
悲鳴に似た情けない声をあげた小春子はうんとも首を縦に振らずして職場の先輩に背広の襟部分を掴まれつつ言葉を濁しながらも先輩の車に乱暴に放り込まれた――……。
◇ ◆ ◇
(………来てしまった)
先輩の車から放り出された小春子は比護邸の門の前で茫然と雪が降る中を立ち尽くした。門は開かれており、庭にはまだ紫陽花が咲いているのが見える。もう季節は冬。普通なら紫陽花の花びらは枯れるか白くなる。何故か此処だけはまだ色付いて咲いて雪がうっすら積もっている。その光景が季節感を狂わせると同時にここはいつも時間の流れが他と違う気がするのを来る度に思った。誰も寄せ付けないような、そんな雰囲気――……。
その光景に目を奪われていると連れて来られた事に後悔が襲う。理由がない訳ではない。でも、仕事も終わってる。大晦日で早く帰りたい。しかし、雪道で帰れない。と思いながらも、ただ来てしまったので入るに入れず門の前で彷徨う。
すると微かに背後から声が聞こえて呼ばれた気がした。
「……――春ちゃん?」
思わず耳を疑って足を止めるとまた微かに聞こえてくる。
こんな薄暗い雪の降る昼下がりに聞こえた声は小春子の恐怖心を撫でた。辺りは真っ白に薄化粧をして、もう先が見通せないほど静まり返っている。そのせいで更に恐怖を煽った。先程までこの道沿いには自分しかいなかったのではないのかと恐る恐る視線を背後に向けた。
「…――小春ちゃん?おーい!」
あれ?呆れるほど明るい霊が見える…と、拍子抜けしながら目を凝らす。別に見たい訳でもないのに勝手過ぎるほど自己主張している。あれは夏目響だ。門から顔を覗かせて手を振っている姿が確認出来る。思わず小春子はホッと胸を撫で下ろし夏服のままの夏目に近付いていくと聞いてしまう。“寒くないの?”と訊ねると夏目が素っ気ない表情をして“まぁ、死んでるから…ね?”という妥当な答えが返ってくる。お互い“何故、聞いた?”という雰囲気で顔を見合わせながら笑い合う。
「でも、本当にどうしたの?入らないの?」
「いえ、特に用事はないのですけど近くまで来てしまって……」
「原稿目当てなら止めた方がいいよ?夏からずっと缶詰っていうか抜け殻?いや、ゲシュタルト?」
「げ、ゲシュ、……タルト?」
「でも、そこに居たら寒いから中に入れば?」
そう言葉を残す夏目は気が抜けたように宙へと浮かび上がると屋敷の壁をすり抜けて目の前から消えてしまった。
仕事もせずに比護は一体なにをしてるのだと小春子は煮え切らない思いで玄関の戸を開ける。
「あ、やっぱり屋敷の周り彷徨ってたの君でしたか……」
「比護…先生……」
“怪しい勧誘の方かと思いましたよ?”とくつくつと比護の失笑が聞こえてきた。いつものように腕に白銀の猫を抱えている。首輪の変わりに鮮やかな黄色いリボンを首に施され、紫陽花色のような左右非対称の可愛らしい丸い眼がこちらをじっと見詰める。
「比護先生……ぁ、あのッ…!」
「もしかして原稿?」
「あるのですかッ!?」
「ある訳ありません!!」
「ですよねッ!!!!」
暫しの沈黙の中、二人して顔を引き攣った笑顔で見合った。
「それよりも小春子くん」
「何ですか?もう原稿の先伸ばしなら駄目ですよ?」
「君、お酒飲めます?」
「……は、い?」
小春子は思わず首を傾げた。
言われるがまま比護に屋敷を案内され着いて行くといつもとは違う二階へと上がていく。
その螺旋階段を上がった先には眩い光が目に射し込んだ。
暖かみのある橙色の光が小春子を包みこむ。よく見ると部屋ごとに灯された壁掛けのあんどんと共に鬼灯が一定間隔に吊るされている。それが光を宿し、まるで祭の提灯や暗闇に浮かび上がる蛍のようだと唖然としながら光の一つ一つが蠢くのを目にした。何とも物珍しい不思議なそれを眺めながら目で追っていくと突き当たりの一室だけ部屋から光が漏れだしている。
そして、比護が立ち止まったのもその部屋だった。比護が襖を開け“どうぞ、”と奨められ小春子が部屋を覗くと何やらそこは“宴会場”と化していた。大広間と呼べるくらい広い部屋に何ヵ所かに分かれて炬燵や卓が自由に置いてあり、そこに見知らぬ人間たちが酒に料理にと、皆が思い想いに騒いでいる。でも、それが何処か暖かい。
「これは……」
「大晦日と年明け会みたいな?」
「いやいやいやいや、手順可笑しくないですか?原稿は!?」
「やぁ―…原稿はねぇ――…」
“もう博打人生恐すぎて向いてないのかなぁ……なんて”と比護は冗談半分で現実逃避を言い出す。
「一応、聞きますけど此処に居るの人間です……よね?」
「一応、言いますけど人間と人間以外も居ます」
「…………え?」
「大事なことなので二回言いますけど、「あ、あのっ、先生もしかして酔っ払ってます?」
「……まだ酔ってませんけど」
そう言うと“どんな感じか見てみる?”と比護が抱えていた白銀の猫を手渡した。戸惑いながらも猫を抱きかかえると先程まで小春子の目には人間しか見えなかった光景に人間以外の霊的な何か又は妖の類いが騒いでいる姿が見えた。
一瞬、身体が強張り抱いていた猫に少し負荷が加わる。それに猫も釣られて驚いたのか眼を丸くして毛を逆立て軽やかに自分の主人の肩へと飛び乗るとこちらを見据えながら腕へと蹲る。
「見えたかい?」
「い、今の…っ……、」
「驚いただろう?」
「いつもあんなもの見えてるんですか?」
「ん?ま、ぁね……」
「……?」
比護は言葉を濁らせながらはにかんだ様に笑った。何だかその顔が妙に小春子の中に引っ掛かった。
「まぁ、今日は好きに飲食してくといいよ」
「マジですか!やった!!」
「全く君は本当に食に素直だね」
「ありがとうございますッ!!」
「いや、褒めてないよ?
幸い此処には泊まれる部屋も浴場もあるし明日は君のとこは仕事お休みだろう?」
「至れり尽くせり!ありがとうございますッ!!」
「ねぇ、今日何かあったの?」
「聞いてくれますか!?」
「想像はつくけどあんまり聞きたくない」
するとスイッチの入った小春子は淡々と今日あった事を話し始めた。先輩のこと。社でのこと。鬱憤を。こうなると小春子の話は中々に終らない、と比護は前担当の松林 純こと小春子の先輩の話を聞きながら相変わらず仕事が鬼よりも鬼らしいと思い返した。
「それですね――……」
「あ、そうだ!」
「?」
「来年も出来れば担当さんよろしくお願いしますね」
「え、」
「君のこと頼りにしてますから!」
「ぇ、………ひご、せんせぇ……うぅっ……っ…」
“さぁさぁ、今日は飲もう!”と話を折られたのに対しても泣き出す小春子に比護は一階から持ってきた晩酌セットを卓に並べる。小春子に青と琥珀色の江戸切子のグラスを手渡した。それに注がれた日本酒は何処かキラキラと輝く泉に宝石を沈めたように美しく贅沢な一品に写った。
それからの事は覚えていない。
気が付いた時には酔い潰れて大広間の畳の上で小春子は誰かが掛けてくれた掛け布団と共に寝ていた。
眠気眼で辺りを見渡すと他の人達も転々と騒いだ祭りの後で酔い潰れて寝ている。比護や他の誰かと喋っていた気がするのに誰だったかはっきりと覚えていなかった。
年明けの番組も途中で眠ってしまい元旦番組に切り替わっているのが遠くからぼんやり聞こえてくる。小春子は周囲に比護の姿を探したがこの部屋には見当たらない。
そして、覚束無い足取りで日が差し込む窓辺へと近付いていくと外から賑やかな声が聞こえてくる。
(……?)
そっと障子と窓を開けると降り積もった雪の中で比護の姿を見付けた。どうやら子供たちと一緒になって雪だるまを作っているようだった。その様子を微笑ましく見ていると小春子の携帯が何かを忘れていたかの如く戦闘音が鳴り始め表情が凍る。
『――……あの先生は生きてるか?』
「まだ生きてますけど……」
『じゃあ、今からそっちに向かうからお前と原稿を拾ってく。どうせあの先生の事だから原稿どっかに隠し持ってるだろうし……』
「……え?」
“嗚呼、あと今年も宜しく”と誰よりも早く屋敷に居る人よりも早くもっとも苦手な人物に先に言われてしまった。嫌な事は早く済ませた方がいい。そう思いつつも言葉を濁しながら“こちらこそよろしくお願いします”と一先ずは電話越しでの挨拶を済ませ、また長くて短い一年間の始まりだと小春子は気持ちを入れ直した。
(よっしゃ!!頑張りますかっ!!!!)
◇ ◆ ◇
……………―――――♪:*o.゜
薄暗い廊下の隅で電話が鳴り響く。
屋敷の庭先で子供たちのはしゃぐ声に消されてしまいそうな程、微かな音。それに気付いた少年は受話器を手に取る。
「……あい、これ空蝉亭」
『やぁ、紬。明けましておめでとう。新年迎えてるとこ悪いけど比護さんは居るかい?』
受話器からは男の声が砂嵐混じりに漏れ少し聞き取りづらい。電波が遠いようだ。
「今、御仕事中」
『じゃあ、後で仕事の注文表を流すよ』
「了」
“それじゃあ、比護さんにも宜しく伝えておいてね。良い御年を、”と言い残し電話は切れてしまう。紬は受話器をそっと元に戻すと再び音楽が流れ、印刷物として紙が出てくる。それを丁重に切り取ると目を通す事なく紙を丸め電話の前を後にした。