朧月 -おぼろつき-
わたくしの意思は何処にあるのか?
そんなものは考えた事はなかった。
ただ、この箱という檻が、
ただ、その時の感情が、
つまり私を動かす『意思ーモノー』だと思っていた。
それが正しくてそれが“わたくし”だと思っていた。
でも、これが違っていたら?
私は、僕は、
一体、誰になりたかったのだろう?
いや、誰にも……
私は……私だけの『××』だ
◆ ◇ ◆
季節は梅雨に入り冷たく湿った風が屋敷を満していく。
この時期は湿度が高く、朝は身体が怠いので動く気がしない。
そのまま月子は食堂で時間をもてあましていた。いつもは朝食の後に読書をするのが日課なのだが、梅雨時期はどうも頭が朧気に瞑想して脱力感を感じ何をしても怠くて仕方がない。
「最近、何か思い詰めていますね」
ふと、静まり返った食堂で長方形の食卓テーブルを挟み向かいに居合わせた男が月子に問い掛けた。この蚊も殺せないような優しい顔と和装が似合う美しい男の名は“比護恭介”といい、月子は幼少期から彼を知っている。作家という復職をしながら家柄の決まりから祓魔師の仕事が本業でもっとも今は小説の方など書く気もせず月子と同じように屋敷で色んな感情が煮詰まっているのだろう。
「スランプなのよ、私」
「珍しいですね」
「先生も、ない?何も浮かんでこないとき……白いキャンパスを目の前にしても何も浮かんでこないの。描く気力もそこに描く気持ちも湧かないとき」
「ありますねぇ、永遠に続く画面と文字を目にしてこの原稿が終わるのか何も考えられなくなってしまったときのように果てしない物語に遭遇してしまったとき……」
溜め息が比護の口から漏れる。
「あら、先生は『果てしない物語』をお読みになったことがあったの?」
「嗚呼、冒頭だけです。……小学生の頃に流行りましてね。図書室に借りに行っても常に誰かが借りていました。噂では“分厚くて読み終わらない”だとか“途中で諦めた”とかですぐに返って来るのですがそれを手にする挑戦者は大勢いました。私もその一人でしたが夏休みの途中で読む気力が削がれました」
「……どうして?本はお好きなのでしょう?」
「ええ、好きです。ですが、当時の私は読書があまり好きではありませんでしたからね」
「あら、意外……」
「そういう月子さんはあれを読んだのですか?」
「……読まなかったわ。私が憧れていた子が“読んだ”と言うからどんなものかと思って……嫉妬心というやつね」
「嗚呼、なるほど“恋心”」
「……違うわよ」
微笑を浮かべた比護は蒸していたガラスポットからハーブティーをガラスのティーカップへと注いだ。すると、ふわっとレモンの香りが漂った。そこに比護は蜂蜜とレモン汁、それから生姜をすりおろしたものをハーブティーに加えそれと同じものを月子にも振る舞った。月子は一口だけ口に含むと胸を撫で下ろすかのように溜め息をついた。
「私、不安定なのよ」
「ええ、知っています」
「時々ね、『自分』とは何なのか何者だったのか中身が人間じゃなくて『化物』でもないかも、て思うの」
「……ただの虚無の人形のように?」
「そう、それね。魂のない虚無、人形のような“理想と美”だけの」
「意思がないのではないか?」
「そうね。私は私の事を知らないのに私は私というものを全て消して『月子』という存在すら今は曖昧だわ」
「それが君の答えだったとしても……」
「私は私たちを『否定』したいだけかもしれない」
「『否定』した先には何があるんでしょうか?」
「きっと果てしない『孤独』ね、」
「でも、君は昔よりは自由な色を多彩に持っていますから大丈夫ですよ」
比護は優しい口調で腕に大事そうに抱いていた猫を撫でながら言う。
確かに昔の“孤独”に比べたらマシだった。月子は比護に骨董屋で会わなければ、意思の持った人形などただの“呪い”でしかなかった。比護が月子を救い出さなければ月子は一生涯を骨董屋の隅で飾られているだけだっただろう。
しかし、まだ梅雨は始まったばかりで月子の曇天の心の不調も始まったばかりだ。この薄暗い曇天はいつまで続くのだろうか、と月子はぼんやりとティーカップの底を眺めながら不安で仕方がない気持ちと一緒にレモン風味のハーブティーを再び口へと含み流し込んだ。
嗚呼、夏はまだ遠い――……。