小春子 -こはるこ-
季節は梅雨間近の頃。
とある屋敷へ行く道のりを櫻井小春子は歩いていた。
まだ本格的な夏は来ておらず、民家の庭先に咲いた紫陽花は鮮やかに咲き誇り、日差しはより一層に肌をじわりっと暑く焦がした。生暖かな風は素肌を撫で汗が纏わりつく。
中間地点の神社に辿り着いた場所で、早々とアイス売りのおばさんが通り過ぎるのを小春子は横目で見ながら、まだ目的地までが遠いことを思い知らされる。
ここを通過して少し行くと小さな公園があり、その横の歩道を渡って住宅街を通る。そして、そこから少し外れの田んぼ道を進んでいくと辿りつくべき場所が見えてくる。ざっと駅から約一時間半ほどはかかるのだろうか。駅から住宅街までバスは出ているものの時間が一時間に一本という悲惨な時刻表記で逃すと次がない。また、乗り換えもしなくてはならなかった。
その為、歩いた方が早いのだが、毎度の事ながら長い道のりを歩くは流石に酷である。
いい加減に折りたたみ式の自転車を買うべきか自転車を駐輪所に置いて置くべきなのかと小春子は思うのだった。
◇ ◆ ◇
(熱中症で倒れるかと思った……)
やっとの思いで辿り着いた玄関先。
水揚げされたマグロのように仰向けになって息絶える身体は悲鳴を上げた。アイロンを掛けたばかりのカッターシャツが汗で湿って気持ち悪い。それよりも干からびそうな身体が「水、水を……」と、うわ言のように口から零れる。手は自然に鞄の中で冷たさも感じない生温いペットボトルの飲料水を探していた。
「あれ?小春子くん?中に入らないのかい?」
「ぁ、先生……。いえ、ここまで来るのに、っ疲れてしまって……」
項垂れた頭を小春子は声のする方へ視線を見やる。
目の前に表れたのは、この家の主で有名作家でもある“比護恭介”だった。
その甘く優しい顔立ちと緩く癖のある流れる黒髪は肩に少し掛かるまで無造作に伸びている。何時ものように服装は和服を身に纏い、楠んだ鼠色の夏用の着物と濃い蒼色で紫陽花の刺繍が入った帯をして左腕に白銀の猫を大事そうに抱えていた。
「また、歩きで来たのかい?逞しいほどに世は肉食系女子時代だね?」
「……意味がわかりません」
「今から昼食なんだけど小春子くんも一緒にどう?」
その言葉に思わず小春子は自分の喉が潤いを取り戻したかのように唾をごくり、と飲む。否、お腹が空いている。お腹が背中とくっつきそうなくらいに。
「いいんですか!?ぜ、是非!食べたいれす!!!!」
「……とりあえず、涎を拭こうか」
言葉は時に身体と正直である―――……。
◇ ◆ ◇
屋敷は以前も来たことがあった。
小春子にとって今日は客間以外の場所。少し心が踊った。
この屋敷には不思議がいくつかある。一つは猫たくさん居ること。庭先や廊下。視線あるところに猫がいる。
自由気ままに寛ぐ猫は一匹ずつ色の違うリボンや紐が首輪代わりつけられている。猫の種類も様々。
二つは庭に植えられている紫陽花。思えば玄関先からずっと目につくところには植えられ、綺麗に手入れが行き届いている。
余程、好きなのかもしれない紫陽花は比護の着物にも選ばれるくらい。青紫の紫陽花が印象に残る。
ふと、開けた場所に出るとそこには中庭があった。
もちろん、此処にも紫陽花は咲いている。天井まで筒抜けになっている中庭は天気に左右されることなく窓から淡い光が下まで差し込み幻想的に映る。“わひさび”そんな言葉が似合うかもしれない空間に小春子は息を飲む。
「どうかしたかい?」
「ぃ、いえ……素敵な庭だと思いまして、つい……」
「ああ、紬がいつも手入れしてくれるからね」
「“つむぎ”……さん?」
ぼんやりと首を傾げ小春子は未だに夢の中にいるかのように答えた。その様子を見るや比護は穏やかに微笑む。
「でも、まさか来るなんて思わなかったなぁ……」
「どういうことですか?」
「私の担当さんは次の締め切りには担当が代わってるから意外だよ」
「そ、それは……つまり先生の家が“幽霊屋敷”だと言うことで、ですか?」
「そうそう。大抵の人は私の家でお化けを見たからっていう理由だけど小春子くんは変わってるよ」
そう苦笑いで誤魔化した比護は紺色の暖簾をくぐり小春子を手招きする。
「ここは………?」
そこには大家族が住んでいるような空間が広がっていた。
大人数使えそうな台所。大きな業務用の冷蔵庫。テレビやソファ。長い長方形の卓上と人数分の椅子。
まるで寮にある食堂と言ってもいいほどの十分なスペースに小春子は首を傾げた。
比護はこの屋敷に一人暮らしなのではないのか、と。
確かに人間はいないかもしれない。けど、一人で住んでいるはずなのにこんな大きなテーブルは要らないのでは?と恐る恐る比護に尋ねる。
「比護先生は“一人で幽霊屋敷に住んでる変わり者”と、自分は先輩から聞いてましたけど……?」
「え?私が一人暮らし?」
「ぁ、はい。社では専らそんな噂しか流れてませんが……」
本当に社では変な噂しかない。
実在してるのも怪しいため“幽霊先生”と名が通っているくらい曰く付き。屋敷は幽霊が出るので行きたくない。近づきたくない。
極端に言えば担当になる者がいない。
本当に噂だけが歩いている。よっぽど物好きじゃない限り担当もいない。そんな先生なのだ。
「そうなのかい?いや、私は一人で此処に住んでいる訳ではないよ?」
「ぇ、だから幽霊……と……?」
「いや、人間も居るよ?」
「……?」
「この屋敷、譲り受けたのはいいけど一人暮らしには広すぎるから他人と共同生活をしてるんだ」
「え、えぇ!!?」
比護はくつくつと腹を抱えた。
その日、小春子は比護が作家兼大家だという事実を知った。
何ともありがちな展開だったが、何も聞かされても言われてもいなかった。気が付かなかった小春子はこの屋敷での出来事を思い出そうとした。
しかし、比護の他に住人らしい人が居たかまでは何かぼんやりとして記憶が消えているようによくわからなかった。
ただ、言えるのはまだ夏が始まっていないという事だ。