15
あの日から、師匠が夢魔を退治してくれた日から、現実感溢れるあの夢を見ることは無くなった。
その代わりに、銀色の髪を揺らすあの女の姿が目に焼き付いて離れない。
いつ、あの女がこの家にやってきて、師匠を取って行ってしまうのかと思うだけで、気が気じゃなかった。
「リザ、聞いているのか」
師匠のその一言でハッと私は我に返る。
その様子を見た師匠は諦めたようにため息をつくと、ルーン文字の本をぱたり、と閉じた。
「今日はやめよう」
「え、でも!」
「いいから。その代わり、少し外に出ようか」
はい、とも、いいえ、とも言えずに、私は立ち上がった師匠の後にただついて行く。
スノウはどこかを飛び回っているのか、家の近くに姿は見当たらなかった。
「おいで」
いつも前を歩いて、私のことなんか、ついて来るままにしている師匠が、隣を歩くように促す。
あの夢の一件から、ぎくしゃくしていた空気が再び濃くなった気がした。
無言のまましばらく森の浅いところを歩く。
いつもは、柔らかな木漏れ日が肌に心地良いはずなのに、今は光に突き刺されているような気分だった。
「君は」
隣を歩いていた師匠が、ふと、漏らす。
私は、ただそれをじっと聞く。
「君は、やはり、あの夢のように、ご両親と暮らしていた方が幸せだったのだろうか」
師匠の言葉に、私は胸が締め付けられるような気がした。
どうして、突然、そんなことを言い出すの?
私が、あんな夢を見たせい?
「僕では、役不足だったのかもしれない。あの女から、君のご両親を守れなかったのも、僕の責任だ」
違う、と叫びたかった。
けれど、喉が引きつったように、声が出ない。
違う、と叫びたかった。
けれど、どこかで師匠がもう少し早く来てくれれば、と思っていた自分もいた。
「もし、君が望むのであれば」
師匠は足を止めると、私と向き合う。
金色の双眸が、光を受けて輝く。
けれども、そこに普段の師匠のような自信に溢れた色はない。
ただただ、悲しみだけが満ちていた。
「君が、望むのであれば、ご両親との時間を取り返してあげよう」
一陣の風が私たちの間を駆け抜ける。
身体の芯が痺れたように、動かない。
食い入るように師匠の瞳を、私は見つめる。
そんなことが、本当にできるの?
けれど、そしたら、そしたら・・・。
「そしたら、私と師匠が過ごした時間はどうなるんですか?そこに師匠はいるんですか?」
「何も無かったことになる。君は、ご両親と幸せに、本来、あるべきだった道を辿れる。もちろん、そこに僕はいない」
何も無かったことになる。
それは、師匠は私との時間を消しても、平気だということ?
そう明言された気がして、あたしの中で悲しみよりも、ふつふつとお腹から沸いてくるような怒りが、せり上がってくる。
「誰ですか・・・私に、今、生きているのは、この時間、この空間であることを忘れるな。って言ったのは」
普段よりも数段低い声に、私自身が驚く。
師匠も驚いたようで、少し目を見開いた。
「本来あるべき道?そんなの、ここじゃないんですか!?パパとママがいたって、師匠がいてくれなきゃ、意味が無いんです!それに、師匠は、師匠は・・・」
勢いで怒鳴ったけれども、最後は空気が抜けたように萎んで行く。
「師匠は、私と一緒にいた時間が無かったことになっても、平気なんですか・・・?」
師匠にとって、私の存在なんて、居ても居なくても、一緒だったの?
私にとって、師匠は世界の中心にも等しい存在だというのに。
師匠がいなかったら、私は死んでいた。
師匠がいなかったら、私は私ではなかった。
師匠がいなかったら・・・
「すまない、君を怒らせようと思った訳じゃないんだ」
ふっと、師匠が視線をはずす。
「僕だって、今のままが一番良いと思っている。けれど・・・」
「けれど、何です?だいたい、どこにも行かないって言ったのは師匠じゃないですか!それなのに、師匠がいないって訳が分からないです!」
私の返答に、師匠は言葉を失ったように沈黙する。
「私は、今、こうして、ここで一緒にいる時間が大切なんです!両親がいないという事実よりも、師匠がこの先いなくなるという未来の方が、私は怖い!」
矢継ぎ早にそう言い切って、私は肩で息をする。
師匠はびっくりした顔をした後、ふっと吹き出すと、とても穏やかな顔で微笑んだ。
「そう、だな。リザ、君の言う通りだ。どこにも行かないと約束したのは僕だったな」
「そうです、約束したのは師匠です」
「約束は、守らないとな」
師匠は再び歩き出す。
その歩調は、いつも通り。
ついて来る私なんか、無視した早さで歩き続ける。
「君が、そう言ってくれて嬉しいよ」
「そう言って、って、どこの部分ですか?いろいろ言いましたけど?」
「リザ、僕は君の側にいても大丈夫なんだね?」
まるっきり私の質問は無視して、師匠は逆に私に問いかける。
「大丈夫も何も、一緒にいてくれるものだと思ってましたけど」
「悩んだのが馬鹿みたいだったよ」
あーあ、と師匠は大げさにため息をつく。
「馬鹿みたいって・・・でも、あの女の人が来たら・・・!」
「リザの心配ごとは、それか」
師匠は肩を揺らして笑う。
「あいつに僕を殺す事はできない」
「そんなの分からないじゃないですか。もし師匠が弱ってる時に来たら・・・」
「明言できるよ。力量の差とかそういう問題でなく、あいつに僕は殺せない。それでも不安かい?」
「・・・不安です」
むぅ、と唇を尖らせると、師匠が困ったように首を傾げる。
「そうだな・・・。この12年の間で、あいつがここに来た事はあるか?」
師匠の質問に、私は首を横に振る。
「12年もの間、来なかったんだ。それなら、もうこの先来ないかもしれない。それに、広い世界からこの場所が特定できるとも限らない」
小麦粉の中から、片栗粉を探すような作業だ、と師匠は言った。
同じ白い粉の中から、白い粉を探すなんて、見つかるはずないじゃない。と私は頭の中で思う。
「君は、探せると思うか?」
「思わないですけど。でも、やっぱり、その、魔力が無くなったら師匠は動けなくなって、それであの女に・・・」
「その時は、スノウに助けてもらうよ」
言われて、私はあっと気づいた。
そうか、師匠の魔力が無くなっても、スノウの羽根があれば、魔力の補給ができるんだ。
目の前が、突然開けたような感覚。
木漏れ日は、突き刺すような光から、包むような温かいものに変わる。
「ほら、どこに不安要素があるんだ?」
「そしたら、私も、師匠に魔力を分けることが出来るように練習します!」
「君の雀の涙のような魔力を分けられてもね」
「無いよりはましでしょう?!」
「無い方がましだな」
そうやって意地悪を言う師匠の背中に、私はどん、と抱きつく。
嫌味を言ってくる、いつもの師匠。
そして、私もいつもの調子に戻ってくる。
「なんだ、歩きにくいから離れろ」
「いーやーでーすー」
「邪魔。重い」
「雀の涙なんて言う師匠が悪いです」
「悪かったな。君の、空のように果てを知らない魔力に期待するとするよ」
「それは、それで嫌味です」
言いながら、師匠が笑う。
そして、私もつられて笑った。
気持ちのいい日差しに、穏やかな時が流れる。
この時間を奪うことなんて、絶対に、誰にも許さない。




