02
そういえば、私は師匠の名前を知らない。
名前は魔法を使う時に、呪詛となるから誰にも教えないって昔言っていたのを覚えている。
まぁ、私の名前はちゃっかり師匠に握られちゃってるんだけど。
「ねぇ、師匠」
「なんだ」
ソファに足を組んで座りながら、師匠は読んでいる本から目を離すことなく私に返事を寄越す。
「師匠の名前教えてください」
「そのことについて、僕は一体君に何度言い聞かせればいいんだ?」
「もちろん、覚えてますよ。けど、今なら教えてくれるかなって思っただけです」
「半人前に教える訳ないだろう」
会話はそこで途切れて、師匠はまた本に集中し始める。
それがなんだか面白くなくて、私は師匠の隣にドカッと腰を下ろした。
ソファが揺れたのが不愉快だったのか、師匠は眉を少し顰める。
けれども、本から目を離す事はしなかった。
「名前で呼ばれないって、寂しくないんですか?」
「さぁな。呼ばれなくなって随分経つから忘れたよ」
かち、かち、と時計の秒針が進む度、室内にその音が響き渡るだけでなく、外からの森のざわめきまでもが耳に届く。
あまりに静かすぎて、私は少し怖くなった。
師匠の読んでいる本を覗いて気を紛らわそうとしたけれど、何語で書かれているかすらわからなくて断念した。
「師匠、これ何語ですか?」
「馬鹿には読めない語」
「もう!」
私が口を尖らせれば、師匠はくつくつと笑みを零す。
やっぱり師匠は意地悪だ。私が悔しがるのを見て、いつも愉快そうな顔をする。
「本棚の上から3段目、右から6冊目の本を読むと良い」
「ほんとですかー?」
「僕が君に嘘をついたことがあったか?」
「そりゃもう、隙あらば、つかれてますけど」
言いながらも、私は師匠に言われた通り上から3段目、右から6冊目の本を抜き取る。
そして、またソファに戻ってからその表紙を眺めた。
「古代ルーン文字?」
師匠に問いかければ、答えは返って来ない。
「うーん、読み方から勉強するのはな・・・。だいたい、ルーン語って占いとかそういう分野でしか使いませんよね?私、召還術だけでも手一杯なのに」
「君の魔力の多い少ないで、必要か不必要かを図るのは最も愚かだと思うけどね」
「そりゃぁ・・・」
「言葉というのは、それだけで情報を持っている。それを読み取れるか読み取れないかの差は大きい」
「う・・・」
「だいたい、君は占いでしか使わないと言ったが、大抵の遺跡の仕掛けはルーン文字で書かれている。それが読めない奴はそこで罠にかかって死ぬだけだ」
「うぅ・・・」
「君が読めないこの本にも、君が学びたい分野である召還術の記述がある。とだけ、言っておこうか」
「・・・勉強します」
師匠に口で勝つ日なんて、いつか来るのだろうか。
項垂れた私に、やっと本から目線を上げて、師匠は満足そうに笑う。
「最初から素直にそう言えばいいものを」
「だってー」
「ちなみに、この世で最も情報を持つものは『名前』だ」
「あ、最初の話に繋がるんですね」
「名前を与えられたものは、その瞬間から個人としてこの世に身を置く事になる。例えば、そうだな・・・」
師匠は本をソファの脇に置くと、私の方を向く。
あまりに近かったので、思わず身を引きそうになったけれど、師匠の手がそれを許さなかった。
私が逃げる前に、師匠が私の身体を思いっきり引き寄せたのだ。
「ちょ、師匠・・・セクハラ反対!」
「君みたいな小娘にセクハラしてもな」
「今の!私への宣戦布告ですね!」
まぁ、言っておけば、師匠はかなりカッコイイ。
街に行った時でも、師匠程美形の人は見ないもの。
あーあ、この性格じゃなきゃ、絶対惚れてたのに。
ぎゅうぎゅうと私を抑える師匠の腕から抜け出そうと、思いっきり抵抗するも、師匠ってばどこ吹く風。
私ばっかり、いっつも必死なんだから!
「今、君は抵抗している」
「もちろんです!喧嘩売られて買わない訳ないでしょう!」
「相変わらず短気だな」
「言っときますけど、私、かなり気は長い方ですよ」
「さて、リザ。大人しくしようか」
師匠が私の耳元でそう言った途端、身体の力がふっと抜ける。
耳元でしゃべられて、びっくりしただけかと思ったけれど、身体は一向に動く気配がない。
「え?し、師匠、どういうことですか?」
「はは、抵抗しないのかい?」
「いや、抵抗も何も身体に力が入らないんですけど!」
「耳元で叫ぶな。うるさい。リザ、黙れ」
師匠が悪いんでしょ!と。叫んだはずなのだが、口がぱくぱくするだけで声は出なかった。
驚いた顔で、師匠を見つめれば、至極愉快そうに口元を歪めている。
ちょっと、見ました?この悪人面!
「どうだい?自分の身体が思い通りにならない気分は」
最悪ですよ!この鬼畜!
心の中でそう罵声を浴びせかけ、私は下唇を噛む。
「ははっ、嫌で嫌で仕方がない。って顔してるね」
師匠は私の身体からパッと手を離し、もちろん私は重力に従ってそのままソファの上に仰向けに倒れる。
視界いっぱいに師匠の顔と天井が映って、少し焦るけれど、身体は全く動かない。
「今、君には呪詛をかけた。名前を知るだけでかけられる呪詛だ。もちろん、呪文自体が高度だから僕ぐらいの魔法使いにならないと使えないが」
そう言葉を区切った師匠。
いつも思う。一言余計だと。
「名前ひとつで、ここまで他人を好きにできるのは、恐ろしいことだと思わないかい?」
すっと、師匠の指が私の頬を撫でる。
「例えば、ここで君を犯すことも、殺すことも、僕には簡単に出来る訳だ」
ぐっと顔が近くに寄る。
思わず目を瞑ったけれど、特に何がある訳でもなく師匠が耳元でこう囁いただけだった。
「まぁ、でも、君を殺すのはおろか、犯すだなんて、とんでもないけれどね」
し、師匠!いっつも意地悪だけれど、一応、私のこと大事にしてくれてたんですね!
私の喜びをよそに、師匠は続ける。
「犯す以前に、君じゃぁ欲情しやしない。そのぺったんこな胸をどうにかした方がいいんじゃないか?」
前言撤回。師匠、それはもうセクハラ越えてます。
動けるようになったらぶん殴ってやろうと思ったけれど、師匠ってばちゃっかりしてる。
安全な自分の部屋に逃げた後に、私の呪詛を解くときた。
夕飯は、絶対、師匠の大っっっ嫌いな、ブロッコリーだらけにしてやる!