バンチョー with シンフォニック
バンチョー with シンフォニック
場違いだ。
まだ世の中のイロハを解さない健介ではあったが、自分がまさに入らんとしている国際ホールの中は異世界だと悟ったのだ。健介は入場口の数メートル手前で一旦足を止め、強すぎる日差しを疎ましく思いながら横断幕を見上げた。
『河内高校シンフォニックバンド講演会』
健介の目に一台のトラックが飛び込んでくる。河内高校の部員とおぼしき学生が数人、そのトラックに駆け寄る。荷台のドアが開く。中には楽器がケースに入った状態で、所狭しとひしめいている。学生共はそれを赤子を包み込むかのように抱えると、また入場口に消えていった。その際学生が健介を一瞥するので、健介はガンを飛ばし返してやった。
健介は自分の服装を今一度見直す。その後、観客であろう父母や女子高生共を見回すが、健介のようにスカジャンにピアス、鎖のぶらんぶらんしているパンツなんぞを身に着けているものは誰もいなかった。それどころか、健介の服装が異星人のそれにすら見える。
まっ、そりゃそーだ。
健介は一言吐くと、ポケットに手を突っ込んだまま薄暗い異世界へと歩き出した。健介が高校内での番長決め闘争に勝利してから、二か月が経っていた。
健介の通う安岡高校には、『頭争い』と呼ばれる番長決めの喧嘩が毎年行われている。もちろん公認の行事ではないが、生徒共に対する番長の権力は決して微力ではない。少なくとも、男子生徒なら全員パシリとして使用できるぐらいは。まさに学校の『ヘッド』なわけだ。その恐れ多い頭を、二年生にして勝ち取ったのが園山健介である。番長たるもの、決して弱みを晒すべからず。
しかし、べからざる危機がおとずれようとしているのだ。
よし、知ってる顔はねえ。
ホール内に入ると健介は素早く物陰に身を潜め、周囲に目を光らせる。こんな所で見つかるのは非常にマズい。オーケストラ番長、なんて気が抜けるような仇名がつきかねない。知り合いがいないことにひとまずホッとすると、健介は端の席にドッカリと腰を下ろし足を組んだ。スカジャンを脱ぐ。スカジャンには虎の刺繍が施されていたが、脱いだついでにそれを確認してみると、虎ってこんなにも猫っぽい動物だったっけ? と健介はっ首をかしげる事となったのだった。
会場から拍手が沸き出てくる。舞台脇から黒い衣装の一団が出現する。胸には『河内』の二文字。三番目に出現した少女を見て、健介の背筋は自然と伸びた。アイツだ。俺が、オーケストラなんてものとは無縁な俺が、ここに座っている。そのすべての原因が、アイツなんだ。
彼女が手にしている楽器は、フルートだ。
俺と、デートしてくれないか。
遡ること一日。健介は、生まれて初めてナンパなるものをした。もとより健介は、恋愛には無頓着な男であったはずだった。番長という地位を得て、心持が大きくなっていたのかもしれない。しかしもとより健介は腕っぷしばかりが強いせいか、口のほうは達者ではなかった。ゆえに、初対面の女の子に対して開口一番の発言が、このように骨の髄がムズ痒くなるような結果となった。場所は至って平素な道路。道路脇に残っていた雪は露となり、まだ蕾である梅の喉を潤していた時分だ。
「条件が一つあるの」
その子は自分のことを高山と名乗った。
「明日ね、公演会やるの。国際ホールでね。だから、見に来て」
番長は、ひどく困惑した。ナンパというのはほぼ即答でイエスかノーかの二択だとばかり思っていたからだ。ぼそぼそと了解の意を呟く健介を、彼女は可笑しそうに見て、そして道路脇の梅の蕾を一瞥した。咲くのは、まだ未来の話である。
一夜明け、番長は身支度に取りかかった。アイツにまた笑われないように。番長は、自分の持っているアクセサリーの中で一番不良っぽいのを身に着けた。精一杯の気怠そうな表情も装備して、国際ホールに電車を三本乗り継いで向かった。
本日はご来場、まことにありがとうございます。
やはり黒衣装の二人が司会を務める。
舞台上で、高山はやや右寄りの位置につく。そこがフルートの定ポジションだからだ。健介は左端の席だった。その次に起きたことは、それが彼女にとっては偶然なのか必然なのかは分からないが、健介には必然であった。――目が合ったのだ。彼女は微笑んで見せた。健介は慌てて気怠そうな顔を浮かべて他所を向く。彼女は、また可笑しそうにしている。
ひと際大きな拍手が起きる。指揮者が出現したのだ。高山とフルートが一体化する。そして、来るべき始まりの時を待ち構える。健介は無意識のうちに、背筋を再びぴんと伸ばした。
今日は眠眠打破を飲んできた。二時間半の勝負だ。
スゲエ。
一曲目、『76本のトロンボーン』がホールに飛び散った。まず、左右から出た音が真ん中で一つの光線となり、主題が行き交う。トランペットが先導すると、それをオーケストラの大軍が力強く援護する。少し静かな調べに入ったかと思うと、その隙を突くかの如くスネアのドラムロールが左端から右端へと駆け抜けていく。チェロやコントラバスは先頭に立つことこそないが、その音色に耳を澄ませば何ともファンタジーな風味をオーケストラ全体に加えている。譜面通りに弾いているはずなのに、音色には記号を超越した表情が、確かにそこにある。
健介はオーケストラを見つめたままうごけなくなってしまった。居眠りの心配など完全に忘却の彼方であった。今まで数多くの悪童と対峙してきたが、一度も相手に屈したことはない。しかしこの生物の前ではなすがままになるより他になかった。健介の手はスカジャンの虎を握りしめていた。背筋には形容しがたい感触が走る。しかし健介はこの感触を、なぜか不快には感じなかった。
ふと、大軍が大人しくなった。またスネアの疾走でもくるのかと健介が構えていると、演奏者の一人がぱっと立ちあがった。所謂ソロパートである。一人が奏で、残りの大軍は全てがその一人のサポートに回る。観客を魅了するアイドルの登場だ。立った位置と手にしている楽器から、健介は顔を見る前に誰がソロを行うのか理解した。持っているのはフルート。細い管に命を吹き込む。
健介は鶯を見つけた。鶯にしか見えなかったのだ。健介がさっきまで確認していた可笑しそうにしている女子高生は、春の到来を喜ぶハミングバードと化していた。金属管の隙間をくぐり抜けた吐息は萌黄色に染まり、まるで金属の面影を感じさせない。鶯は八小節の間踊りまわると、観衆に一礼した。すぐに大軍が力を取り戻す。ホールを包み込む拍手が起きた。健介も手を叩いていた。いつもは敵を圧巻するため拳と化す手だ。健介は無意識のうちに、自らの素肌で音色との疎通を図っていた。
もしかして、園山……くん?
健介はびくっと肩を上下させ後ろへ頭を急転させた。一曲目が終わり、休憩時間となっていた。
健介と同じ安岡高校の女子が、めいいっぱい息を潜めた声で話しかけてきた。名前は覚えていない。健介の時間は数秒止まった。時間が再び動き出すと、番長は体ごとその女子のほうに向き直った。パンツの鎖がジャラッと擦れる音を立てた。
女は自分の友人が河内高校にいる旨、その子と親しかったがために今日、わざわざ電車に一時間乗ってきた旨を次々と繰り出してみせた。しかしピアスの付いた番長の耳はこの話を全く受け付けない。番長はある種の使命感を感じた。それはあまりにも稚拙だが、当人にはその拙さが分からない種の使命感である。
うるせえ!黙んねえと殺すぞ!
その罵声はホール中に響いた。ひっ、という女の悲鳴。無数の目玉が健介をとらえる。女は一途に謝り続けた。それがかえって、目玉共に変な色を帯びさせ始めた。こうなると、健介でなくともその場に居とどまることは不可能であろう。
番長は右手でスカジャンを掴み、素早く着用した。そして目玉共を焼き殺すかのような目線を周囲に突き刺しながらホールから飛び出した。
二曲目、『ヴォルケーノ・タワー』が始まる。打楽器のみでのアンサンブルが印象的だ。
この曲に金管楽器の出番は、ない。
畜生! このカス番長が!
見識のない街をずけずけと歩き回り、たまたま見つけた公園内へ番長は入っていた。番長はとりあえず、視界に入る遊具を蹴飛ばしてみた。一通り蹴り終えると次に空き缶を蹴った。缶はぐしゃりと潰れ壁に叩きつけられた。そして、蹴るものがなくなると今度は砂利を蹴り上げた。あいにくの向かい風のせいで、番長は砂煙をまともに食らった。その土の味を噛み締めて初めて、健介はブランコに腰掛けることにした。
絶対嫌われた。健介はもう、ピアスだの鎖だのをすべて投げ捨ててしまいたくなった。
しかし手をピアスのほうに伸ばした瞬間、汚れているのは素肌のほうだと気付いた。先
刻異世界に足を踏み入れる際に立てた決意を、きれいさっぱり忘れていたのだ。健介は赤
面した。
砂煙を食った際の土の味が、さっきよりも濃く口の中いっぱいに広がったのだった。
オレはまだ負けてねえ! ケンカってのはな、退いた時が負けなんだよ!
『頭争い』で相手が放った言葉をふと思い出した。思い出したきっかけはなんだろう。
ああ、きっとスカジャンを凝視していたからだろう。この虎のスカジャンはあの日も着て
いた。これは人気もあって、先代にもよく褒めてもらっていたから。健介は虎の刺繍が見
たくなったのでスカジャンを一旦脱ぎ、手にとってみた。さぞかし猫に見えるだろうと健
介は踏んでいたが、よく見ると細い表情筋が幾重にも施されていて、そこにいたのは確か
に虎であった。
そのまましばらく見つめる。
虎は見つめ返してくる。
虎は健介の皮膚を食い破り、骨の髄まで達する。
健介は髄にほのかな熱を感じた。
先刻猫に見えたのは、きっと暗くて細かな線が見えなかったからだ。健介はそう解釈す
ることにした。
退いた時が負け、ねえ。
自分が一度退いたことは棚に上げることにした。もしくは、敗者復活戦と位置づけた。
得物など必要ない。健介は心の中で先代に一礼すると、スカジャンを再び着用して公園を
飛び出した。
健介は、虎と一体化した。
「おかえり」
健介が戻ってきたとき、公演会はすでに終わり片付けが始まっていた。トラックに楽器
を積み込む。近くでは数人が固まって何小節目でずれただの、音を遠くに飛ばせなかった
だの、と反省会をしている。
高山は数人の友達と一緒に喋っている所だった。そこに突然、虎がやってきたものだか
ら彼女以外は皆、すくみあがって三歩は後退した。彼女の腕には分厚い楽譜の冊子。76
本のトロンボーンは一体、この冊子の何分の一だろうか。にもかかわらず、彼女の第一声
がおかえり、だったので健介はまた顔が火照ってきたように感じた。
健介は髄の熱をもう一度確かめる。そうして、あらゆる目玉を無視して彼女に詫びを入
れた。周囲の人間は、ただ見ていることしかできなかった。虎の刺繍に怖れ慄いたからか
もしれない。健介は一途に詫び、そして詫び疲れると健介は彼女の様子を窺ってみた。
やはり、彼女は可笑しそうだ。
「そっか」
彼女は依然として笑みを浮かべていたが、目に強い光を宿していた。なぜだか、ひっぱ
たかれたような心持になった。
「来月ね、地区予選があるの」
健介が聞いてきた彼女の声のなかでは、一番はっきりした声だった。
「場所が遠いから、知り合いはいないよ」
健介の口は、動かせない。
「今度は全部見てね。――約束だよ!」
即答で、行く、と答える。その際なんということだろう、声が裏返ってしまった。酷く
音痴な鶯である。彼女はそんな鶯の声を聞き、今度は吹き出して、声を出し笑った。笑い
声は、あの踊る鶯と一致した。
梅の蕾はまだ小さい。しかし咲くのは、そう遠くない未来だ。
―了―




