Escape From ……
警察に連行されてから、牧菜千尋は結局一滴の水も与えられないまま、地方検察庁に移送される事となった。それも、容疑者を弱らせて体力と気力を奪う、卑劣な刑事の手管だったのだが。
「……ふむ、思ったより元気そうじゃないか?」
「………」
手錠をかけられ、腰縄を付けられ、陰影の濃い廊下を警官に牽かれて往く少年に、衰弱した所は見られない。足取りもしっかりしていて、警官に牽かれるまでもなく自ら歩いている。
相変わらずニヤニヤとしたイヤらしい微笑の刑事は、しかし目だけは冷酷に少年を観察する。衰弱した様子もないが、他にどこか変わったという感じでもない。
だが、気になるのは少年の眼だ。
「……覚悟が決まった、ということか。それでいい。くれぐれも、検察で証言を変えたりしない事だ。そんな事をすれば、も~っと酷い事になる」
「………」
刑事という職業柄、相手の目を見れば何を考えているのか、どんな心理状態なのかは分かる。在職20年。特に相手の恐れや弱気、痛い所を見逃さない絶対の自信がある。
その目を以ってしても、少年の心理は読み切れなかった。
恐れ、戸惑い、緊張、混乱は前と同じ。しかし先日までと違い、恐怖の色が無い。気に入らない眼だった。
移送にはベージュ色をしたセダンタイプの覆面パトカーが使われた。千尋の両サイドには私服の刑事が座り、運転席と助手席にも制服警官が座っている。
千尋の右隣りに座る私服は、例のイヤらしいニヤニヤ笑いの刑事だった。だが今は、千尋の反対側に、やたらと体格の良い刑事が座ってスペースを圧迫しているので、窮屈そうに顔を顰めていたが。
ベージュのセダンは、目が眩むほどに陽光が照りつける街中を、地方検察庁へと走る。
時計の針も太陽も天井に近く、ほとんど影の出来ていないビルの合間を多くの車が行き交っていた。
「もうお昼かぁ、何を食べようかな」
「それなら倉林さん、テレビでやっていた天丼食べにいきませんか」
「え~、あの天丼かい? スカイタワー丼ってアレちょっと食べ辛そうじゃないか――――――」
千尋を間に空々しい口調で昼食の相談などを始めた両刑事だったが、その会話は車が交差点に入ったところで強制的に中断させられる。何故ならば、
ゴシャッ!!! と、千尋を移送している覆面パトカーを、真横から10トントラックが直撃したからだ。
◇
冗談ではない、というのが千尋の第一印象。
謎の声が提案した計画は、以下のようなものだった。
『明日になったらあなたは地方検察に移されるんでしょう? だったらその時に逃げなさい。警察署からよりは、まだ逃げやすいでしょう』
『……見張りの刑事がいますよ、きっと。それに、逃げられてもすぐ捕まる……』
『逃げたいって言ったのはあなたなんだから、少しは自分でも逃げる努力をしなさいよ』
呆れたような声だったが、言われなくても千尋自身情けないとは思っていた。
とにかく、このままでは本当に犯人にされる。犯人は他にいる。先輩は殺されている。なにより自分が、先輩を殺した犯人だと決めつけられるのは我慢できない。
なので、脱走。
基本的な方針、と言っても、逃げる以上の事はまだ考えていない。逃げる方法も、得体の知れない『声』任せである。心の中で美波先輩に土下座したい気分だった。
『わかったわ。日本の男の子はバイタリティーも行動力も無いソーショクケーばかりっていうのは本当だったのね。………まぁ他に手頃な素体もなかったし――――――』
『……実在するかどうかも怪しい人に言われたくねっス。……「素体」って?』
留置場の入口にいる警官に聞かれないように、小声でブツブツ相談する千尋と『声』。
千尋はその『声』の『ソーショクケー』というイントネーションや、『素体』という単語が気になったが、その時は特に追及しなかった。なんとなく、それを聞くと相手の警戒を呼びそうな気がしたからだ。
唯一の協力者(?)に引かれてしまうのは、今は困る。
『わかったよ……。とにかくチャンスは移動中だな。……檻がない分まだチャンスがありそう』
『そうそう、あなたのスペックならそこから逃げる事だって本来は可能なんだから。チャンスは作ってあげるから、そしたら全力で逃げなさい』
『「作る」? 作るって、なにを??』
『声』の正体は気になったが、それよりも『声』が作ると言う『チャンス』とやらに、その時は気を取られてしまった。
翌日の千尋の移送。その時に、事故を起こすからその機に乗じて逃げろ、とは聞かされたが。
「ゥ……んぅ……!!!」
(こ、こんなの聞いてねぇ……)
事故っていうレベルじゃねーぞ、と天地を逆にした車内で、天井に側頭部から着地しながら千尋は思った。
覆面パトカーよりも遥かに質量のある金属の塊に横っ腹から激突され、覆面パトカーは10メートル以上飛ばされていた。ウィンドウのガラスは残らず木っ端微塵となり、車内と車外のアスファルト上へ散らばっている。
前部座席の制服警官からは、呻き声一つ聞こえない。千尋の位置からだとどうなっているのか分からなかったが、千尋の両側にいた私服警官は、千尋同様に頭からひっくり返った車の天井へ落ちていた。
後部座席といえどもベルトはしておくべきだな、と的外れな事を千尋は思っていた。
しかし、ハッと我に我に帰る。これは『チャンス』だ。誰がどうしてこうなった、というのは意図的に考えないようにした。今はとにかく逃げなければ。
「――――ま、待て……どこにも行かせない、よ」
だがその時、後頭部から落ちていたイヤらしい笑みの刑事―――倉林が頭を支点にして強引に千尋へと向きを変えた。
10トントラック激突の瞬間、千尋の頭が叩きつけられた為に鼻血を吹きこぼし、鬼気迫るモノになった笑みで千尋に掴みかかる。
頭部を打ったダメージと体勢のせいで、モゾモゾとした緩慢な動きだったが、それがかえって恐怖を煽った。
だが千尋は、
「キミは――――学校の先輩を殺したストーカーなんだから……逃げちゃーダメだろぉ!」
「ッ、違う!!!」
纏わりついてくる刑事の両腕を、力尽くで引き剥がし、
「オレは絶ッ対に―――――」
相手を遠ざけたい一心で刑事と自分の間に脚を捻じ込み、クツの裏を刑事に押しつけ、
「―――断ッッじて先輩を殺していねぇえええええええ!!!」
力の限り、刑事の身体ごと後部ドアを蹴り抜いた。
イヤらしい笑みを張り付けたまま倉林刑事は、爆発したような勢いで車の後部ドアごと外に蹴り飛ばされたに止まらず、アスファルトの地面で10メートル以上も身体を擦り下ろした。
そんなボロ雑巾のようになった刑事を顧みる事もなく、千尋は車の外に這い出すと、方向も定めず走り出す。興奮状態の為か身体は軽く、いくらでも力が湧いてきた。
件の『声』が何か言っていた気がしたが、千尋は全く意識を向けずにただひたすら走りまくった。
「ッ……ぅ……ぅゥ……ッぅ………!!」
先輩を殺され、無実の罪を着せられ、理不尽と不条理の鍋底に投げ込まれた平凡な少年は、誰かに見られるのも構う事なく、激情に突き動かされるままに全力で駆けていった。