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 日曜朝の公園に響いていた、怒りと憎しみが圧縮された声。

 しかしそれは唐突に止み、今は小鳥のさえずりと木々のざわめき、それに遠くからの車の走行音だけが聞こえていた。

 一瞬の甲高い風切り音。それは遠く離れた駅の屋上から、千尋の背中目がけて発射された一発の弾丸によるものだった。

 弾丸が正確に命中し、目を見開いて前のめりに倒れ伏す千尋は、その姿のまま微動だにしない。異常な瞳の色も、元の焦げ茶色に戻っている。

「…………」

 狗城は足下に転がる少年の首元に指をやる。まだ温かくはあったが、脈動は感じられなかった。

 そして、

「フンっ……ようやく片付いたか」

 撃たれた未成年の遺体を見下し、富岳玄一は吐き捨てるように言う。

 富岳の足元には、千尋の手から零れた携帯電話が転がっていた。液晶画面が天を向き、そこには録画中であるとの表示が出ている。

 富岳はその携帯電話を、鼻息を立てて踏み砕いた。

「まったく無駄な時間を使った。子供ひとりに何てザマだ。大人しく流されていれば、誰も面倒な思いをせずに済んだものを」

 狗城は千尋の遺体を見て、その異常をいぶかしんでいた。だがそんな狗城の様子など気にもかけず、富岳は身体の熱を冷ますかのように独り言を続ける。

「いや、そもそもの原因はあの小娘か。まだ稼がせてやれたのに、私を拒絶するなどアレも身の程を知らなかったな。大人しくしてさえしていれば、うっかり殺さずとも済んだのだ。このガキもこんな事にはならなかった。あの記者も。この国の……いや、この国そのものと言っても良い私に刃向って、この国で生きていけるとでも本当に思ったのか? バカな奴らばっかりだ! なあ、そうは思わんか狗城君?」

 狗城は答えなかった。雇用されている身ではあるが、権力に凝り固まった傲慢ごうまんな男の醜悪しゅうあくな自己満足に付き合うのは、彼の業務に含まれないからだ。

「おい狗城、聞いておるのか?」

 だと言うのに、尚も話を振ってくる雇い主。それにどう返事を返したものかと考えている所へ、

『こちら公園東側入口……!』

「……なんだ」

 公園周囲を見張らせていた部下から連絡が。

 ほんの僅かだけ有難いと思う狗城だったが、連絡があったという事は、何か問題があったという事だろう。喜んでばかりもいられない。

 報告の内容は、パトカーや覆面車両で公園入り口に乗り付けて来た制服警官と私服警官らしき人間が約20名、大挙して公園内部に入ったとの事だった。正式な任務でやって来ているワケでもない、肩書きばかりが公安の人間では止めようもなかったらしい。

「役立たずどもが……まぁいい」

 何故ここに警官が、とは思ったが、そういう事もあるだろうと思い直した富岳玄一は、今は比較的心が大らかだった。喉に刺さった小骨が取れた直後だからだろう。

 臨時とはいえ国会会期中なら議員は逮捕されない。加えて、国務大臣である自分は、内閣総理大臣の許可なくしては誰であろうと訴追そついも出来ない。そして、今の総理大臣を党代表の椅子に据えたのは自分なのだから、総理大臣がそんな許可を出す筈がない。以って、それほど重要な問題でもない。

 しかし、死体と一緒の所を警察に見られるのも拙いかもしれない。主に、国家公安委員長にまた借りを作る方面で。

 そこまで考えた富岳玄一は、死体を含めた諸々の処理を狗城に任せて、自分はその場を離れる事にした。

 死体が見つかる前に隠せれば、何の問題も起こらない。警察と出くわす事になって、何か聞かれたとしても、「散歩だ」の一言があればそれで十分だ。どの道死体とセットじゃなければ、警察には何も出来やしないのだから。

「そうだな、そいつには遺書でも用意してやれ。私が先輩に乱暴して殺しました。申し訳ございません、ってな。何の役のもたたないクズのような国民が、せめて私の身代りになれるのだから名誉な事だろう? そいつの好きな『先輩』よりは役に立ったな。ハッハッハ!!」

 その時、ドスンッ……、と。

 それなりに堅牢な作りの橋を揺るがす振動。表面からは分からなかったが、基礎のコンクリート部分に亀裂が入った。

 地響きは死体――千尋が拳で路面を殴りつけた事によるものだった。死んじゃいない。止まっていた心臓も、動き出している。

「グゥ…………!」

 低く唸り、多くの目を集める前で、千尋は隆起する地面のように身を起こした。

「な、なに……? おい狗城、まだ生きてるではないか!? 死んだと言ってたではないか!」

 狗城は「死んだ」などとは一言も言ってないが、今はこんな男に関わっている場合ではない。

 おかしな部分は今までも多くあった。

 止まった脈拍。なのに、出血は無く銃創も無い。

 鍛えられた元自衛隊レンジャー隊員や元特殊部隊の人間を、力で破壊して見せる圧倒的な身体能力。

 銃撃を加え、命中したと思われたのに効果を確認できなかったという報告。

 初めから分かっていたのだ。牧菜千尋という少年は、ただの子供などではない事を。

 狗城は今度こそ、迷わず銃を抜いた。至近距離から千尋の胸のど真ん中に、パシュパシュパシュッ!! と連続して3発の9ミリ弾を撃ち込む。

 全ての疑問は氷解した。牧菜千尋は、初めから死ぬ気などなかった。

 反則もいいところだろう。至近距離からの銃撃で、弾丸を弾き返すなんて。

「ど、どうなってる!? なんだお前は!!?」

 銃撃を受けて小揺るぎもしなかった千尋を真っ正面から見せつけられ、恐慌状態に陥った大臣が情けない叫びを上げた。

 同時に、我に返った狙撃手達が千尋を再び狙撃する。今度の照準は頭。一発目を喰らってどうして生きているのかは分からなかったが、頭部を砕かれれば生存は不可能。7.62ミリ、.308ウィンチェスター弾は、人間の頭蓋骨ずがいこつなど簡単に貫通する。

 その認識は間違っていないが、千尋には当てはまらなかった。

 ピュンッ、と再び風切り音が鳴り、射手の狙い通りに千尋の後頭部に命中した。だがその弾丸は、千尋の頭を揺らす以上の効果は発揮できなかった。

 勢いよく後頭部を叩かれた千尋だったが、直後には肩でもほぐすかのように首を大きく廻らせる。

 銃弾に乱された前髪の隙間から覗く千尋の両眼は、この上なく真っ赤に燃えていた。

「ふぅうウううウぅ――――――――……」

「お、おいうて! う、撃て撃て撃て!! 何をやっとるか、さっさと殺せ!!」

 狗城は実戦経験もあるベテランであり、自分が何を相手にしているかも大よその想像が出来ていたが、身体はついてこれなかった。

 狗城の身体は自動的に、迷いなく銃口を再度千尋に向け、

 バキンッ! と、目にも止まらぬ速度で振り抜かれた千尋の手によって、狗城の銃は遥か遠くへはたき飛ばされた。

 ジンッ、と銃を構えていた狗城の両手の平が鈍く痺れる。右手の甲の骨は砕けていた。

 少し距離を置いて千尋を包囲していた狗城の仲間も、銃を構えて四方から千尋に迫る。サイレンサー付きの銃から、空気の抜けるようなプシッという音が連続で放たれ、何発もの鉛弾が千尋を撃ちすえた。

 それでも千尋には全くダメージがない。それどころか銃撃者達の方を見ようともしない。目の前に立つ狗城さえ無視して、装甲車のように真っ直ぐ富岳玄一へとにじり寄る。

「ち、近づくなバケモノが! わ、私に手を出せば国家反逆罪だぞ!!」

 悪魔のように双眸に赤い光を灯し、唸りを上げながら喰いしばる歯を剥き出しにした千尋は、確かに『バケモノ』にも見えただろう。だが残念な事に、そのバケモノから富岳玄一を守ってくれる『国家反逆罪』という罪状は、日本には無い。

 例え存在しても、人生に例が無い程の怒りの頂点にある千尋には、意味ある言葉は届かない。

「た、助けてくれ狗城君! こんな時の為にキミらを雇ってるんだぞ!!」

「…………」

 どちらかというと、千尋を認めて大臣を軽蔑していた狗城は、手の骨が砕けた以上の義理と忠義を尽す気も起きず、無言だった。

「お、おいお前達、私を助けんか! こ、子供ひとりに何を――――、さっさと押さえ……抑えつけろ!!」

 銃撃に効果が無いと、呆然としていた男のひとりが大臣の言われるがまま千尋に突っ込んだ。

 走り込んだ勢いで赤い双眸の顔面を一撃。ゴキンッと鈍い音がし、殴った男の方が腕を押さえてのた打ち回る。指と手首の骨が砕けていた。

 もうひとりは背後から千尋のえりを引っぱり、膝裏を蹴って地面に引き倒そうとするが、千尋の方は全く動かず。

 逆に、振り払うような千尋の打撃を肩に喰らい、左鎖骨と腕の付け根を砕かれ、数メール吹っ飛ばされ、そのまま動かなくなった。

「おい狗城―――――――ヒッ!!?」

 誰も何も出来ず、守る者もいなくなり、千尋の手が大臣のスーツの襟を鷲掴みに、そのまま持ち上げた。

「グッヘ……ぇえぇええぇえ―――――!!?」

 大臣と千尋の距離が近すぎ射撃も不可能。周囲の男達は、自分達のあるじが吊るされるのを、ただ見ているしか出来ない。

「――――――カハァアアァアアアァアアア!!!」

 灼熱の呼気を吐き散らす千尋は、体重80キロの男を片手一本で吊るし上げる。

 重機のような千尋の握力に大臣の首元が絞まり、気道と首の血管を締め上げ、大柄な肥満体が痙攣した。

 顔色が赤から紫に変わり、酸素を求めてパクパクと醜く口を動かす富岳玄一。

 だらしなく弛んだ口からはナメクジにも似た舌がハミ出て、黄ばんだヨダレが千尋の袖を汚す。だが千尋は意にも介さず、柳眉は吊り上がったままだった。


 そこに警視庁の警官と、そして東京地検特捜部の合同捜査班が到着した。

 今回の事件以前から総務大臣の動向は怪しいものがあり、東京地検特捜部は何度も富岳玄一を起訴して、その度に不起訴となっていた。

 しかし今回の一件。

 浜崎南署の暴力警官として悪名高かった倉林を、内部調査員が秘密裏に調査しており、直属の上司である刑事課長を取り調べたところ、美波楓と牧菜千尋に関わる事件捜査の実態を自白した。

 倉林刑事と上司の刑事課長、そして警察署長の不正行為と不法行為は明らかであり、その件が特捜部の追う富岳玄一と繋がった。

 このままでは殺されるかもしれないと思った。そんな事を訴える刑事課長は、非常に協力的だったという。

 今度の事件で浜崎南署の汚職警官達は全て拘束済み。協力的とはいえない相手もいるが、全ての陰謀の全体像を知る事出来た。後は全てを明るみに出す為、悪の首魁を押さえなくてはならない。

 そうして準備を整えていた彼らのもとに謎の情報提供電話があり、ここ浜崎市は大掬おおすくい駅前公園へと急行して来たのだが、

「やめなさいキミィ!!」

「おい手を放せ死んでしまうぞ!!」

 まさか、絶体絶命の被害者と思われた牧菜千尋が、諸悪の権化である総務大臣、富岳玄一をくびり殺そうとしている現場に当たるとは、誰か予測し得ただろうか。

 急ぎ駆けつけた警察官が、四方八方手当たり次第に千尋と大臣に取り付き引き離そうとする。しかし、5対1程度では力の差は微塵も埋まらず、千尋は全く動かない。

 首の血管を圧迫された富岳玄一の目玉は零れそうなほど飛び出し、窒息死寸前の様相。あと1分もこのままにしておけば、主犯の死亡という事にもなりかねない。

 憤怒の少年相手に誰ひとり何も出来ず、その場にいる全員が最後の瞬間を覚悟した。

 ただ一人を除き。

「……そんな男の為にキミが人生を違える事はない。そんなクズのような男の為に、キミが手を汚す事はない。彼女の為にも、キミは手を汚すべきではない」

 怒鳴り声だらけの中でも、何故か最後の科白だけはハッキリ聞こえた。

 科白セリフぬしは、砕けた手を抑えていた黒スーツのひとり。狗城だった。

 『彼女』と言うのが果たして誰を指しているか。千尋はそれを悟り、ビクリと震えて富岳玄一を吊っていた手を放す。

 顔色が白くなっていた大臣が、足下から地面に崩れ落ちた。その大臣を、警察と東京地検特捜部の人間が引き上げる

「富岳先生、浜崎市での女子高生殺人の件、渋谷での弁護士殺人の件、他にも色々と話をお聞かせ願えますか?」

 ヒトの群れの中で、明らかに雰囲気の違う男性。白髪交じで顔にも深いしわを刻む、真面目一徹といった印象の壮年男性が、両脇を抱えられてようやく立っている大臣に正面から言う。相手が現職総務大臣であるといったてらいも気負いもなく 真っ直ぐ斬りこんでいった。

 大臣はゼヒューゼヒューと息をつきながら、

「な、なん、なんなんだキミ達は……わ、わたし、私は総務大臣だぞ! 会期中だから不逮捕特権もある! だいたい私が一体何をしたと言うのだね? こんな大勢で寄ってたかって――――――」

「浜崎南市の刑事課長、警察署長、それに検察支部の人間からも聞き取り調査を行っていますが、色々手を回しておられたようですな。ですが、今回ばかりは先生もやり過ぎだったようで」

 鼻を鳴らしてこの期に及んでも不遜な態度の大臣。

 そんな大臣の機嫌など知った事ではなく、白髪混じりの壮年男性は続ける。

「公安委員長もご自身の身の振り方で忙しくなるでしょうから、貴方をかばう暇は無いでしょうなぁ。臨時国会が終わり次第、総理の承認を以って訴追させていただくか、それとも即日議員辞職ですかな?」

「バカを言うな、私は辞めんぞ! 仮に総理を押し切って起訴した所で、私を訴追することなど出来る筈がない! 下っ端警官が何を言おうが、他の政治家が何を言おうが、受けて立とうじゃないか!!」

 飽くまでも傲岸不遜に、圧倒的な権力で踏みにじる気満々の政治家、富岳源一郎。

「私を引きずり落とす事など誰にも出来はしない! 政治とは力だ! 私以上に力を持つ者などいはしない! 見ていろ、法務大臣が変わろうが公安委員長が変わろうが総理が変わろうが、私が動かす事の出来る者などいくらでもいるのだからな! 貴様ら全員を閑職に回すことだって出来るのだぞ! 分かったらその手を放せ! 私はどこにも行かない! あとそのガキを逮捕しろ! お前らの言う女子高生殺人の犯人だぞ!!」

 そしてどこまでも横柄に、囲まれているつもりなど全く無い、逆に周囲を見下す政治権力の権化。

 心底救いようが無い醜悪な生き物を、改めて千尋は睨みつけたかと思うと、

「―――――ヒッ、や、やめろ! 私に手を出すな!! 何をしている早く逮捕しろ!」

 わめく総務大臣に背を向けて歩きだし、全員の視線を集める前で、橋のたもとすぐそばにあった木の一本を、ドゴスッ!! と殴りつける。

 見た目とのギャップの激し過ぎる派手な音に、全員がビクリと身体を震わせた。

 八つ当たりにも似たその行為にも、きちんと千尋なりの意味がある。

 殴りつけ、若干傾いた木の上からポトッと落ちてくる携帯電話。それを、地面に落ちる前に千尋がキャッチした。


 富岳玄一に踏み潰された携帯とは別の、もう一台の携帯電話。

 逮捕され、地検への移送中に覆面パトカーから逃げだした際、偶々目の前にあったので持ってきてしまった携帯電話だった。ちなみに浜崎南署の汚職警官、倉林の所有物だった。

 踏み潰されて壊れた携帯電話は、富岳や狗城に印象付ける為のオトリ。携帯電話が一台だけだと思い込ませ、もう一台の存在など想像もさせない為の、千尋が以前使っていた古い携帯電話。

 本命は橋のすぐ側の木の上で、前日の夜に取引現場にカメラのアングルを合わせておいた、拾い物の携帯電話だ。

 千尋に自分に万が一の事があっても、後から幼馴染に回収してもらう手筈になっていた。保険の意味合いが強かったが、結局幼馴染を巻き込まずに自分の手で回収できたのは僥倖ぎょうこうだった。

 その場で映像を確認してみると、想像したより綺麗に撮れている。

 富岳玄一が取引現場に来てから、第一チェックポイントの千尋の殺害命令、第二チェックポイントの千尋に濡れ衣を着せた自白、第三チェックポイントの狙撃の瞬間。

 そして、第四チェックポイントの、美波楓殺害の自白。

 全てが計算通りに行った、とは言い難い。大臣と言い合っているうちに、本来の目的を忘れかけた事だし。

 撃たれて死なないかどうかは賭けだった。自身の身体強度を調べる事も出来なかったので仕方なかったが、どうにかライフル弾でも貫通されずに済んだ。

 何故か死んだフリも上手くいった。流石に無理があると思ったが。

 警察だか検察だかの登場は、完全に想定外だった。だが事件を暴いてくれるのなら誰だって良い。


「こっちはオレの名前で投稿しよう、っと」

 一部始終を鮮明に納めた映像に、さしもの総務大臣も肌が真っ青に変色していた。法的にはどうだか知らないが、これが世間に流れれば、社会的にも政治家としても完全におしまいである。

「め、名誉棄損で訴えるぞキサマ……!?」

「だったら、なに? 今更そんなの怖くないです。やっぱりおまえ、社会的にじゃなくて物理的に今、死ぬ……?」

 千尋が赤光を放つ目で睨むと、総務大臣はブルブルと震えだす。

 少し前なら千尋の言も「ハッタリだ」と嘲笑あざわらえただろうが、今はそんな事、考える事も出来なかった。

 この男は今度こそ、徹底的に戦うだろう。そして、心をへし折られてしまった大臣は、もはや全く勝てる気がしなかったのだ。

 総務大臣、富岳玄一は両脇から支えられていなければ倒れ落ちてしまいそうなほどに、ガックリと項垂うなだれてしまう。


 千尋は、長い長い一週間に及ぶ戦いに、こうして勝利した。


「それを預けてもらえないか、牧菜千尋君。キミの容疑が冤罪である事は分かっている。浜崎南署の刑事は逮捕したよ。今は警察病院だが……。警察はキミの無実を認めて全面的に謝罪する用意がある。後の事は我々に任せてくれ」

 大臣と向かい合っていた白髪交じりの男性が、真摯に千尋へ要請する。だが千尋は、もう誰も信用出来ない気持ちだった。

 今までのやり取りを見ていれば、この警官や検察の人間が総務大臣を糾弾しにやって来たのは分かる。

 しかし千尋の頭には、それすら政治権力の成せる偽装や欺瞞ぎまんなのではないかと思わずにはいられなかった。

 この疑念は恐らく、一生ついて回るだろう。

 果たして自分は、一体何を求めて泥沼の中で足掻あがいてきたのか。この泥沼から抜け出せる日は来るのか。そう思うと、先行きも希望も見えない未来に、暗澹あんたんたる気分にさせられるのだ。

 無実と敵討かたきうち。死に物狂いで求めたそれらが、何故か急に虚ろなモノに思える。まかり間違えば明日――いや、1分後にでも、また理不尽に引っ繰り返され得るモノなのだから。

 改めて、映像データの入っている携帯電話をジッと見る千尋は、パタンっとそれを折り畳み、

「……野口真太って事件記者のヒトが、こいつらに拉致されている筈なんです。助けてもらえますか」

 白髪交じりの男性に渡してしまった。

「……わかった、すぐに救出する。約束する。このデータも決して悪いようにはしない」

 不安は感じるが、自分ではネットに上げる以外にデータの使い道が無いのも事実だ。本物の公的な機関なら、正しく使ってくれるだろう。考えるのが面倒臭くなってきた、という事もある。

 自分が撃たれまくっているシーンも録画されている筈だったが、それについてもあんまり心配していなかった。こうして生きているんだから、弾が外れたとか防弾チョッキを着ていたとでも言い訳したり解釈してもらったりしよう。だって自分でも説明できないもん。

「野口さん死んでたら、今度こそテメーの首ぃへし折るぞ……」

「ぅ……ぅう……」

 しかし、今だけは最大限に活用させてもらい、正体不明の怪物として振舞わせてもらう。

 千尋は、認めたくはないが理解しかけていた。

 この世の不条理、理不尽、陰謀。そんなモノに牙を剥かれた時、自分の世界を守る為には、つまりダメ元でも命がけで戦う以外に道は無いのだという事が。

 だったら、映像データなんか必要ない。

 ここまでの全てが罠だとしたら、千尋は戦うだけだった。


 完全に、テンションに逆上のぼせ上った考えだったが。


 警察の前でも死刑宣告上等で、精神的に富岳玄一にトドメを刺した所で千尋は「帰ります」と一言ひとことだけ言い、警官や検察官や黒スーツ達に背を向け歩きだした。

 検察官のひとりが引き留めようと動きかけたが、、白髪交じりの壮年男性がその動きを制した。

 どこかトボトボと、途方に暮れた少年の小さな背中をしばし無言で見送った白髪混じり男性は、改めて大臣へ向き直り。

「与党の皆さんには協力していただけると思いますよ。今回は穏便に、とはいかんでしょうからな」

 恐らく、富岳を大臣から降ろして議員も辞職させる方向へ進む。与党の支持率低下は避けられないだろうが、隠蔽いんぺいはもはや不可能なのだから、国民に知られる段で身を正す姿勢を見せた方が怪我が少ない、との判断をするだろう。

 大臣も伊達に今まで政治の世界にいたワケではなく、またそんな事例も何度も見て来ている。

 だがまさか、自分がそうやって切り捨てられる立場になるとは。

 精神的な敗北、社会的な批判、政治家としての失脚、これまで行ってきたツケの総決算。

 政界の巨人、与党の影のドン。総務大臣、富岳玄一は千尋が去っていく僅か数分の間に、まるで十数年の時を経たかのように老け込んでしまったという。


                           ◇


 トボトボと大掬おおすくい駅前公園から徒歩で30分。家に辿り着き、千尋は誰もいない家に入る。

 風呂も入らず、食事も摂らず自分の部屋に入り、外から帰ってきた格好のままでベッドに寝転んだ。

 何年も帰っていなかったような、昨日もここにいたような、奇妙な感じを覚えた。

 こうしてボーっとしていると、まるで何もかもが夢だったかのようにさえ思える。


 公園に政治家の大臣を呼び出し、大喧嘩の末に仕留めた。

 警察にホテルに踏み込まれて、5階の窓から刑事諸共飛び降りた。

 東京の大学に潜り込み、ジェットコースターのようなアドリブを連発して、こっそり映像の解析を行った。

 電話を寄越してきた事件記者、野口真太の家に予告無しで押し入り接触した。

 事件以来初めて先輩の殺害現場に足を踏み入れ、またも黒スーツに襲われ、巻き添えを食った記者と出会った。

 刑事課長を拉致する為に警察署の前に張り込み、追尾し、危うく罠にはまる所だった。

 道玄坂の弁護士事務所に忍び込み、事実の裏を弁護士に吐かせようとして、叶わず黒スーツに暗殺を許してしまった。

 警察署から地域検察庁へ移送中に事故に遭い、覆面パトカーから逃げだした。

 容疑をかけられ留置場に入れられ、異常な刑事にいたぶられた。


 そして、好きだった学校の先輩、美波楓みなみかえではもういない。


「ぅッ……うぁあ………うぁああああ…………」

 今の今まで凍っていた心のどこかが、一瞬で溶け出してしまった。

 つのりに募った想い。不安や絶望、後悔、恐怖、諦観、怒り、悲しみが怒涛の如く蘇ってくる。

 そして、これからも決して枯れ果てる事がないであろう想いが千尋からあふれ、嗚咽おえつとなって流れ出ていた。

「ヒグッ……う……うぅ……ぅえェええええ………」

 押さえようがない感情を隣に住む幼馴染に聞かれないように、少年は枕に顔を埋めて子供のように泣きじゃくり、いつの間にか寝てしまった。



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