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車上に落ちた犬を打つ



 確証も物的証拠も無かったが、警察や弁護士、そして謎の黒スーツを自由に動かせる存在、と考えると、辻褄が合ってしまうのもまた事実で。

 つまり、大学から帰っての千尋のへこみっぷりは半端ではなかった。

「よりによって……本物の国家権力……」

 死んだ赤坂弁護士が『先生』とか言ってた事とも符合する。

 薄々政治家辺りではないのかと想像はしていたが、いざそれが大当たりとなると、どう足掻いても絶望。法的にも実力的にも全く勝てる気がしなかった。本気で国外逃亡でも考えた方がいいかもわからん。

 ホテルに戻ってからこっち、判明してしまった事実に打ちのめされて、薄汚れたベッドの上でぐったりと動かない少年。

 美人ティーチングアシスタントによる色ボケも、遥か遠くへブッ飛んでいった。


                           ◇


 千尋程ではないが、野口も気持ちの整理を付けるのには時間を要した。

 事件記者といっても『自称』の勘、自身どこかで半信半疑でネタ元(千尋)を追いかけ、子供に付き合って色々動くのも少し面白いと思っていた所で、辿り着いてみると掛け値無しの〝超〟大ネタだった、と。

 同時に、ヤバすぎるネタでもある。

「………フゥー……」

 野口は住処すみかのマンションへ帰ってくると、カーテンを締め切りPCの電源を入れて、問題の映像を表示させていた。

 そうしてもう1時間、飽きもせずに映像へ目を向けながらタバコを吹かしている。

 仮にも記者だ。メディア人としての栄達を求むのは当然。だがどれほど大きなネタでも、それだけでは記事には出来ない。

 今のところ状況証拠だけ。物的証拠など警察が残している筈も無し。死体を調べるのも当然不可能。ヘタにつついて自分の存在が明るみに出ただけでも、美容院の時のように消されかねない。

「……手詰まりだな」

 相手が悪すぎる。

 千尋の先輩、美波楓を殺害したのは現職の総務大臣、富岳玄一とみたけげんいちで間違いないと野口は睨んでいた。

 富岳玄一が単に被害者と歩いていただけであったとか、被害者と援助交際を行っていただけ、という可能性はある。だがそれにしては、警察、弁護士、黒スーツと千尋への攻撃が激し過ぎるし、またそんな事が可能にする権力を持つ人物が何者かと考えた時、富岳玄一なら納得できる。

 汚職警官を自由に動かし、被害者を泣かせる弁護士を使い、この日本で銃を振り回す黒スーツを差し向け、マスコミを従わせ、なにがなんでも牧菜千尋まきなちひろを犯人にしようとする権力と意志。

 そして、調べれば簡単に分かりそうな事実が黙殺されている事こそが、富岳玄一が犯人であるという何よりの証拠に思えるのだ。


 女性問題や政治献金問題、問題発言などで度々追及されながらも、常に勝ってきた剛腕政治家。

 かつての与党からの離党。新党結成。常に政局のキャスティングボードを握り続け、今の与党の政権交代をお膳立てした。

 ほぼ全ての内務大臣を歴任し、しかし総理は経験しない政界の怪物。黒い話の絶えない、そして決して落とされない灰色の政治家。

 富岳玄一。言ってしまえば、この国で最も強い力を持つ政治家である。


(援助交際でトラブル、か何かで……第一発見者を身代りに……か? 運が悪いコゾーだな、あいつも……)

 千尋の事は、少々ねた所が垣間見えるにしても、憎めない少年であると思う。同情もするし、このドツボから抜け出せるものならそうしてやりたい。

 どうやっても難しそうであるが。

 この時点で取るべき選択肢を、野口はボーっとノートPCのディスプレイを眺めながら考えていた。

 全てを忘れて千尋を放りだすというのも一つの手だ。到底いち雑誌記者には手に余るネタ。記事にするなど問題外。ヘタに誰かに漏らせば、逆に大火傷を負うケースだろう。

 正義を行う。というのは良心的には心も痛まないが、見返りは少ない。そもそも具体的な方法も思いつかない。

 総合すると、何も無かった事にするのが一番賢いやりかた、という事になる。

 だが理屈はそうでも、これは人生最大のチャンスかもしれない、という考えも頭から離れないのだ。

 うまく立ち回って最大の利益を上げる、という観点に立った時どうしたらいいか。金、名声、記者としての地位。可能であればその全てを―――無理だ。欲をかけば自滅は目に見えている。その程度の分はわきまえているつもりだ。

 まずは命を大事に。命あっての物種。極力危険は冒さない方向で。その上で、リスクを秤にかけて、釣り合う報酬を考える。

 そんな風に、自分では冷静にモノを考えているつもりの野口だったが、巨大なチャンスに目が眩んで最初の一歩から踏み外している事には、結局最後まで気が付かなかった。


                           ◇


 受話器を戻すと、総務大臣、富岳玄一は不遜そのものの様子で鼻を鳴らし、応接用ソファーの向こうに立つアゴに傷のある男を睨んだ。

「……ゴキブリがタカって来たぞ。例の件、証拠を握ってるだと……? この私を、脅してるつもりになってな………!!」

「………」

 苛立ちを見せて吐き捨てるように言う男の剣幕に、アゴに傷のある男は眉ひとつ動かさなかった。この程度、まったく動じるに値しない。

「どんな証拠か知らんが消せ! 脅迫してきたヤツも処分しろ! 子供はまだ見つからんのか!?」

「……具体的な要求は……?」

カネだ。全くゴキブリらしい……。それに例の子供の容疑を取り下げろ、と。バカな」

 外国人のように大仰に手を上げ首を振る総務大臣、富岳玄一は失笑をらす。検討する事すら思慮の外だ。

「金と、容疑の取り下げ……飲めば証拠は表に出さないと言う事でしょう」

「お前まで馬鹿な事を言うな! この手合いは一度味をしめれば要求に際限など無い! 第一、この私を脅迫するなど、許し難い! 身の程知らずの害虫が!」

 乱暴に机へ二度三度と拳を叩きつける。その度に、灰皿が細かく灰を巻き上げた。

「……人物の見当は付きます。恐らくは例の少年も一緒と思われますが」

「それならすぐに片づけたまえ。これ以上公安委員長に貸しを作りたくはない。また違う人間が関わる前に……間違っても他の議員に知られるような事になる前に頼むぞ。連中は敵も味方もないからな」


                           ◇


 公衆電話からの発信に、テレビから拾った音声を繋げてメッセージを作るという、用心にも念の入った事までやったにも関わらず、電話をしてから30分後には野口の家に黒スーツが踏み込んで来た。

 次の電話で具体的な取引場所と取引方法を指示しようと、新たな合成メッセージを作っている最中だった野口には、危険を感じる暇さえ無かった。

「な、なんだよお前ら!? け、け、警察……? な、なら令状はあるんだろうな!?」

「必要無い。証拠と牧菜千尋は?」

 個性も人間性も消したような黒スーツが、たった今野口が作っていた合成音声のような声で言い放つ。

 野口が証拠も千尋の居場所も知っていると断定する言い方だ。そして、それは全く事実だった。

 何故こうも早く特定されてしまったのか。野口の思考はその疑問に満たされたが、同時にこの場を切り抜ける算段もフル回転で思索していた。

 相手は警察ではない、非合法な手段も平気でとれる連中だろう。人数は当然、それに高確率で個人の力も野口より遥かに上だ。

 美容院で銃口を突き付けられた、文字通りの悪夢がよみがえって来た。

「お前を脅迫容疑で逮捕する事も出来る。その前に言え。『証拠』と『牧菜千尋』はどこだ?」

 とぼける事も許さないらしい。平坦なくせに高圧的な言い方で、4人の黒スーツが四方から過剰なまでに野口に詰め寄りプレッシャーをかけてくる。

「で、データはここには無い……。俺に何かあれば公開される事になっている。そーなれば、お宅の所の『先生』にまで捜査の手が行くのは確定だろうなー」

 だが窮地打開の為、野口が取った手段は至極テンプレな口上だった。

 何のひねりもないハッタリではあったが、事実である可能性がある以上は、黒スーツ達も強引な手段に出られないだろう、という目論見だったのだが。

「構わない。お前の勤め先や実家、知り合い、取引先の銀行、全て残らず調べてデータを探す。もし公開されたとしても、それは捏造だと証明される。お前が総務大臣への名誉棄損と殺人容疑者の隠避で訴えられるだけだな」

 最後に入ってきたアゴに傷のある男の科白セリフに、そんな目論見など、完全に甘かった事を思い知らされた。

 黒スーツもその背後にいるヤツにも、自分達の存在は問題とも障害ともと思われていないのだ。

 法も人権も自分達には関係なく、他人など何とでも出来る。そんな傲慢な思考を、野口は黒スーツを透かして見た気がした。

 その傲岸な力の信奉者たちを相手にして、いち雑誌記者に過ぎない野口に、何か出来るという道理も無かった。


                          ◇


 容疑者が逃走して6日目となり、警察も当然捜査範囲を拡大する。

 逃亡者の移動距離、衣食住の予測状況から寄りつく先、想定される潜伏場所を割り出し、警察官は容疑者を追うのだ。

 日本の警察は優秀だ。経験と実績の積み重ねられた捜査手法。警察官達の脚による捜査と、科学捜査による合理的な裏付け。その結果が世界に誇る捜査力と検挙率だ。

 特に、猟犬とも狂犬とも云われる浜崎南署の刑事、倉林満くらばやしみつるは獲物を追う嗅覚に優れていた。人格、方法、目的、いずれも問題だらけではあるが、権力者に目を付けられて特別扱いを許されるには、それなりの理由があると言うワケだ。

 倉林は弱り、傷付いた獲物がどこに逃げ込むかを熟知している。袋小路に追い詰めて、弄りものにする為に。それを思えば、今日もご飯が美味い。

 食生活をはじめとして、日々の生活をより良いモノへする為に、倉林は今日も素晴らしき労働に従事するのだ。

 社会的に居場所が無くなった人間が行く先は多くない。都市に存在する、ロクデナシが逃げ込む穴倉。法と秩序のエアポケット。

 例えば橋や高架下、廃屋、公園のトイレの裏、繁華街の路地裏、遠洋漁業船、採用条件の緩い住み込みのバイト。

 そして、後ろ暗い人間御用達(ごようたし)の宿泊場所。

 そんな場所に目星をつけ、消火設備の不備や営業法上の弱みを突いて情報を提供させる事は至極簡単な事で、倉林は早々に目的の少年が身を隠しているビジネスホテルを特定した。

 だが、その情報は捜査本部にも誰にも伝えられる事はない。


                            ◇


 小市民らしく早くも国家権力に屈しかけている千尋は、相変わらずの死に体でホテルの部屋に転がっていた。

 警察も弁護士も、多分検察にも裁判にもマスコミにも影響力を持つ政治家。もうこうなってしまうと、事件記者の野口だけが頼りだ。最初に信用できないとか言ってたのは、もう忘れた。

 しかし野口には申し訳ないが、正直なところ事態が万事解決できるとは、千尋自身到底思えなかった。敵の大きさが分かっただけで、良い材料が全く無い。これでは安心しろという方が無理だろう。

 日がな一日ボーっと過ごし、現在時刻は午後5時。そういえば今日は土曜日だった。

 土曜日の夕方といえば、先週は――というか先週も、中古のゲームを探して歩き回っていた。

 翌日が日曜なので、土曜の内に学校が早引けしてから良いゲームを見つけておくと、週末がかなり楽しくも疲れる事になるのだ。

 そんな日々が、今は遠い。

『またゲーム? 暇だったら身体鍛えなさいよ。海行く時とか恥ずかしいじゃんか』

(海とか行かないし恥ずかしいのはカホじゃなくてオレだしほっとけってそもそもゲームするんだから暇なんかねー……って――――――)

 記憶の幼馴染に突っ込んで、ちょっと泣きそうになった。あんな口煩くちうるさい幼馴染であっても、もう会えないのかと思うと、少し残念。


                            ◇


 管轄も何もかもを無視し、倉林は警官を引き連れ、新宿は歌舞伎町にあるビジネスホテルを静かに包囲していた。

「倉林さん……課長に報告は……」

「ああ、あいつはビビってもう駄目だ。ケツの穴がちっさいったらありゃしない」

 倉林に千尋諸共(もろとも)かれかかった事が、刑事課長には大きなシコリとして残っていた。

 違法行為に手を染めて、いずれは自分も何かの拍子に殺される側になるのでは。そんな考えで刑事課長か疑心暗鬼になっているのを、倉林は鋭敏に感じ取っていたのだ。

 そうなれば、刑事課長にはもう利用価値が無い。

『……しばらくは大人しくしておきたまえ、倉林君……。また内部調査を臭わせる話も聞こえて来ている……。目立つ事は控えてくれ』

 挙句の果てに、内部監査をちらつかせて自分を脅すとは。

 今まで何度そんな話が出て、何度監査自体を強制終了させてきたと思っているのか。今更監査など恐れる必要もないのに、ヘタな脅しだ。

「容疑者は5階だな。非常階段の出口と5階の入り口、一階ロビーのエレベーター前、それに正面入口と裏口、全部制服警官に固めさせろ」

「他の宿泊客はどうするんです?」

「知らん。ホテルのヤツには伝えてあるんだ。何かあってもホテルの責任だ」

 万が一何かあっても、後ろめたい営業をしているホテル側は警察を訴える事は出来ない。そう見越しての事だった。

「渡辺、それにお前ら来い」

 相棒と4人の私服警官を連れ、倉林はフロントの受付の人間を見る事もなくエレベーターへと進む。


                            ◇


 携帯電話は電源を切っていた。野口ならホテルの電話にかけるだろうし、誰かから電話がくるのが望ましい端末でもない。何せ拾い物だ。

 しかし、何故だか千尋はこの携帯電話から目が離せずにいた。ここ最近の慌ただしさで忘れていた病気――ホームシック――がブリ返してきたのだ。

 どうせもうどうにもならないのなら、せめて知り合いの声を聞きたい。でも盗聴とかされたらどうしよう。

 自分が連絡するような所には、必ず網が張ってあるような気がした。

 しかし知り合いに電話といっても、両親は海外だし祖父や祖母といった存在とは産まれてこのかた会った事が無い。他の親戚も同様だ。

 幼い頃、その理由を両親へ尋ねた事があったが、煙に巻かれて応えてもらえなかった。何か理由があるのだろうと思い、その後同じ質問をした事はない。

 両親以外に声を聞きたい人物となると、思い付くのはただ一人。だったのだが。

(い……イヤないないない。大体何話せばいいいんだ……つか多分まともな話にならない)

 自分がこんな状況に陥っている事で、果たして幼馴染は怒るのか泣くのか怨むのか。オッズは7:1:2といった感じだろうか。

 なんにしても同情は引けそうもない。


                          ◇


 制服警官の基本装備の一つに、伸縮式の超硬スチールとFRP製の特殊警棒がある。

 逮捕に抵抗する犯罪者や、武器を持った者へ打撃を与える為のモノだが、非常に固い上に重量もあるので、殴られるとかなり痛い。

 しかもこれが非常にヒトを殴り易い作りになっている。サディストの刑事が大好きな武器だ。

 合法的に、ヒトを思う存分叩きのめせる、などと言うと警察職務でも余裕で過剰暴行なのだが、倉林は気にしない。正義の名のもとに犯罪者へ適正な暴力を振るう。それが出来なくて何の警察権力か。

 特に今回は楽しみでしょうがなかった。散々手をわずらわせてくれたストーカー殺人者のクソガキを、力いっぱい殴る事が出来る。

 骨を折りながら床に倒れてのた打ち回り、痛みから逃げようと泣きじゃくりながら許しを乞う。それを思うと、今から腹が減って仕方なかった。

 心置きなく愉しむ為に、連れて来たのは倉林と繋がりが深い浜崎南署の刑事のみ。とはいえ、手を出させる気も無かったが。基本的に愉しい事はひとり占めだ。

 エレベーターは5階へ着き、倉林は懐の固い感触を確かめてほくそ笑む。

 千尋の居る512号室はすぐそこだ。


                              ◇


 ゴミゴミとした繁華街の一角。薄汚れたビジネスホテル5階の目線には、全国展開の居酒屋チェーンやダーツバーのネオンが見える。

 窓際に立つのは拙いだろうなぁ、と思いながらも、千尋は携帯電話を握りしめて、急速に濃さを増す狭い秋の空を見上げていた。郷愁の想いが大加速だ。

 この際罵倒(ばとう)される覚悟をしてでも、相手がただの知り合い(重要)であっても話がしたくて堪らない。

 そして、そのたびに理性が邪魔をして、やるせない気持ちにもだえて千尋はベッドに倒れ込むのだ。

 安物のベッドのスプリングは、既に10回を超える120キロダイブで大分軋みを増していた。

 そうして優柔不断そのものの有様で、電話をかけるか否かで悶える千尋だったが、そこに部屋備え付けの電話が鳴りだす。

 ビクンッと飛び起き受話器へ手を伸ばす千尋だったが、寸での所で手を止めた。

 電話をかけて来るとしたら野口だけだろうが、違う相手だったりホテルのフロントとからだったら何と言えばいい。

 部屋は野口が宿泊している事になっている(と思う)し、自慢じゃないがひとりでホテルに泊まるなんて今回が初めてだ。

 コール5回までの間考えた千尋は、万が一野口だった場合を考えて受話器を取る。ホテルのフロントだったら声変えて誤魔化そう、いう浅知恵を用意して。

 だが、

「―――――――」

「………?」

 千尋は最初から無言で、と決めていたが、電話口の相手も無言だった。電話の向こうで生活音が聞こえるので、通じてないのではないだろうが。

 イタズラ電話か、と一瞬ごく普通の推測をしてしまうが、この部屋に直接か。誰が泊まっているかも、そもそも空き部屋かもしれないのに。

 あるいは、誰がこの部屋に泊まっているかを知っているのか。

 そこで千尋の脳裏に、パッと蘇る映画のワンシーン。

(あれ……? なんかこれ……なんかあったこういうの……なんかあった)

 事の顛末は思い出せないが、確かこんな無言電話の後に、物凄く(マズ)い展開になっていた気がする。

「………!?」

 深くは考えずに、千尋は即座に部屋を出る決断をした。

 全身の肌が危機感に泡立ち、脳がカッと熱くなって機敏な行動を少年に促す。

 つい6日前までごく普通の世界に生きていた事を考えれば、その判断と速度は手放しで褒めても良かっただろう。


 それでも、絶対的に時遅し。


 取るモノも取らず部屋の扉に向かった千尋だったが、ノブを回すその直前、叩きつける勢いで開いた扉に撥ね飛ばされた。


                            ◇


 跳ねるように開け放たれた扉にひっくり返された千尋は、状況が良く分からないまま、何かで頭を殴られた。特殊警棒という凶器で、普通の人間であれば頭骸骨を骨折しかねないほど力いっぱに。

「ッ――――――グゥ!?」

「いよッッしゃあああああああ!!!」

 激痛で千尋の視界が眩む一方で、イカレた刑事の哄笑が薄汚れた室内を震えさせた。

「うゥウうゥウぅぅううぅぅ……グッ!?」

「ザマーザマーザマー! あーッハッハッハ!!!」

 短調かつ容赦の無い殴打が立て続けに千尋へ降り注いだかと思うと、今度は顔面に靴底が叩きつけられる。やってる側の倉林には待ち望んだ瞬間だ。夢中になって千尋を叩きのめせる、この瞬間が。

 その悦びの前に、法も倫理も自身の肋骨と鼻の怪我の痛みも関係なく―――むしろ痛みが怒りと憎しみと喜悦を加速させていた。

「く、倉林さん、殺しては―――――!?」

「やかましいナベぇ!! 逮捕に抵抗! 捜査官に危険が及んだ為に已むを得ず自衛! 死亡は事故! これでいいだろうが!!」

「――――! ――――!!?」

「で、ですが殺してしまうと上に――――――!?」

「これ以上気ぃ散らすとお前も殺すぞ石場ぁ!!」

「ごフゥッ―――――!!?」

 サッカーボールでも蹴り飛ばすような革靴のつま先が、床を転がる千尋の水落に突き刺さった。全身を鈍く痺れる痛みが覆い、感覚をあやふやにして行動の自由を奪う。

「ったまったくまったく手こずらせてくれましてアリガトウ牧菜千尋くんんん!! 

 見当違いの怒りと煮えたぎった憎しみが、筋違いの恨みが、腐った喜びを加速させていた。

「死刑台行きは決まっているのに無駄な事ばっかりやって無駄なんだよムダムダムダお前のようなガキが何か出来るとでも思ったかよ!!?」

「だ、大臣に言われてオレを嵌めてんだろうがクソ警官!!」

「ああッ!?」

 身体を丸めて顔を庇っていた千尋が、痛みでワケが分からなくなりながらも夢中で叫んだ。

「違うってんなら先輩と一緒に居たデブ親父調べてみろ! オレを犯人にでっち上げろって命令されてんだろうが!!!」

「く、倉林さ――――!?」

「だったらなんだクソが!!」

「おグッ!?」

 千尋の呻きに、刑事達はうろたえた様だった。狂気の刑事、倉林以外は。

 野良イヌに手を噛まれた、と一瞬にして頭に血を昇らせた倉林は、ヒステリーを起こしたかのように千尋を蹴飛ばし、殴り、暴れまくる。

「分かったような事言ってんじゃねぇ! お前のような世間知らずの糞餓鬼が警察様に刃向ってイイとでも思ってんのか! てめぇは政治家や警官が決めた事に逆らえる程偉いんか!!? 弁護士に法律で意見するんか!? てめぇはストーカーの性犯罪者だってもう決まってんだよ同じ学校でオヤジ相手に援交してた売女に執着して殺したって―――――」

「う――――」

「―――検察もそう言うし弁護士もそうだし裁判員も満場一致、テレビの報道もお前がいかに歪んだ現代の若者かって事を報道してくれるぜ分かったかもうお前が援交オンナのストーカー殺人犯だってのは決・定・事・項! なんだよさっさと諦めて惨めったらしくクソして泣けぇ!!!」

「―――――ゥウううウルせぇエエえゑええエエぇええェ嗚呼アぇ亜あぁああア!!!!」

 その叫びは、ホテルどころか喧噪の繁華街全体にまで響き渡るほどだった。

 滅多打ちにされているのもお構いなしに、千尋が床を殴って起き上がる。

 尚も殴りつけてくる警棒を腕を振り回して弾き飛ばし、その警棒は運悪く他の刑事の顔面を直撃し、昏倒させた。

「てん……めぇええぇえ先輩が何だってぇえぇえええええ……!!?」

 ズンッ……、とやけに重たい足音を響かせ、肩を怒らせた少年が倉林の真正面に立つ。双眸から真っ赤な光が漏れているのは、見間違いや気のせいではない。

 刑事全員がたじろぎ、倉林さえ顔を引き攣らせていたが、この刑事は並みの腐り方はしていなかった。

「は……ハッ! 何だ知らなかったのかい千尋くん? 美波楓はいつもパパにおこずかいを貰って売春してたんだよ? ショックだったかなー―――――!!?」

「ッゥらァアああアアああぁァアア!!!」

 千尋は、この期に及んでニヤニヤと、侮蔑するような笑みを浮かべた倉林へ突撃する。

 力加減も考えずに頭から我武者羅に突っ込み、


 倉林ごと、窓ガラスを突き破って5階から空中へと飛び出した。


「ヒッ―――――!!?」

「ぬぅウぅウウぅウウ!!!!」

 無重力と浮遊感で刑事と少年の血液が持ち上がるが、既に頭に血が上っていた千尋には関係ない。逆に倉林の全身からは血の気が引いた。

 しかし、それも一瞬の事。次の瞬間には映像のコマが飛んだかの如く、ホテル前に停めてあった警察の覆面車の上へ、倉林を下敷きにして千尋が墜落する。

 既に何度も捕捉しているが、千尋の現体重は120キロ。それが、地上5階――約15メートル――からの重力加速を以って倉林へと叩きつけられる。クルマが潰れて緩衝材になったが、慰めにはならなかった。

 クルマは金属とガラスが砕ける爆発音にも似た音を響かせ、巨人か怪獣にでも踏み潰されたかの様な有様となっていた。周囲の人間の目を引いているが、何が起こったのかを理解できた者は少ない。

 落着の衝撃で軽い眩暈を起こした千尋だったが、すぐ目の前、というか自分の下で白目を剥いて鼻や耳や口から血を流している男の顔を見て、酔いが醒めた。

 怒りのあまり何をしたのか分からなくなっていたが、千尋の方を見ているヒトとその背景で、自分がホテルの部屋からダイブしたのに気が付く。自覚してみて、一気に動悸と冷や汗が来た。

 周囲にはヒトの目。目の前には不気味なツラを晒している男。何にしてもこの場に――特にクルマの上に――居るのはよろしくないと思い、千尋が立ち上がろうとした。

 その時、

「―――ん~~~~に……にぃがぁさぁなぁいぃいぃいい……!」

「ぅヒィ――――!?」

 ホラー映画で聞いた様な声とともに、身体を浮かせかけた千尋の服を、半分死んだような血塗れの男が掴んだ。

 両目が出鱈目な方向を向いた、ニマァと虚ろな笑みの刑事が迫る。ゾンビのような緩慢な動きのクセに、千尋を掴む力は想像し難い程に強かった。

「お、おい、ちょ―――!? 離! 離し―――――」

「ぅう………ぁあああ……ぅへ………!」

 これも狂犬の執念か。不気味に過ぎる倉林の有様に怖気を振るわされた千尋は、

「―――離せッ!!」

「グヒャ―――!!?」

 ほぼ無意識に、倉林の壊れた顔面へトドメの拳を振り下ろした。



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