Crisis hunter on crisis
浜崎南署刑事課。
強行犯、窃盗犯、暴力犯、知能犯、など各係を統括する立場の刑事課長の滝口に、名指しで直接タレ込み(情報提供)の電話が来る事はほとんど無い。特に今の立場になってからは皆無だ。
彼の仕事は専ら部下のやらかした行為の尻拭いと、違法行為の後始末、書類の改竄、または抹消。
公になれば首が飛ぶだけでは済まない汚れ仕事に、足を突っ込む度に胃が痛い思いをしているが、出世に縁遠い身には、あまりにも報酬が魅力的過ぎた。
現金や、時に高価な金品で支払われる特別ボーナス。社会的な後ろ盾。警察内部での特権。
仕事の方は優秀な部下がやってくれる。表も裏も、中間管理職としての仕事をこなすだけ。タレ込みがあったとしても、部下に指示して対応させればいい。
だが、今回だけは少し事情が違った。
「どういう事……でしょうか? その事件は……いや、そちらはどうしてその事を―――――」
『知り合いなのよ。出頭させたいんだけど彼怯えてて。なるべく偉い人に相談に乗ってもらいたいんだけど。あなたじゃダメかしら、刑事課長さん?』
「いや……私は……な、ならば本人も出頭させて―――――」
『だから彼ね、警察でそちらの生理的に受け付け難い刑事にかなり絞られたって言うから。だからまず私がそちらにお伺いするわ。14時に受付で』
「ま、待ってくれ! いや、ここには―――――」
『それじゃ後ほど』
会話しているようで、全然話を聞いていない女は一方的に電話を切ってしまった。
女が『出頭させたい』と言う容疑者、牧菜千尋の件は上から下まで違法尽しだ。強力な援護はあるが、関わる人間は最小限に留めたい。
相手の正体は不明だが、自分を指名してきた上に、年端も往かない青少年が例の刑事に拒否反応を催すのは全く無理からぬ事。相手の言うとおりに行かざるを得なかった。
ところが、指定の時刻を5分過ぎても10分過ぎても受付から連絡は無く、ようやく受付から内線が来たと思ったら、待合場所には誰も居ない。
イタズラだったのか、相手の気が変わったのか、何にしてもスッキリしない話だった。
◇
千尋の視力は両目共に2.0。以前に測った時にはそうだった。
今千尋がいるのは、懐かしき浜崎市。
たった2日他所にいただけ。それに、自分の庭とするほどに慣れた場所でもなかったのに、街の空気は千尋に郷愁を感じさせた。
浜崎南署正面ロビーの壁面はガラス張りになっており、道路の向かいから中を見る事が出来た。
ただし道路は片道2車線、中央分離帯は植え込みでスペースを取っている幅広の4車線道路で、警察署はスクランブル交差点の一角に存在していた。
警察署の対角線上には1階にファミリーレストラン、2階にレンタルビデオ店の入っている建物があった。
ファミリーレストラン(以下ファミレス)から警察署へは直線距離で約70メートル。視力2.0はかなり良い方ではあるが、ファミレス店内から警察署のロビーの中を見るのは真昼間でも難しい。
『あれが刑事課長さん。帰り際を見逃したくなかったら、しっかり覚える事ね』
「………なんか気分悪い……」
千尋の視界が絞り込まれ、警察署のロビー内を拡大する。突然、自分の焦点と被写界深度が増大したような、異常な視覚に文字通り眩暈がした。
異常に拡大した視界の中心には、痩せた中年男が受付の受話器を持って怪訝な顔をしている。
『声』の言うことが正しければ、その痩せた男が刑事課長なのだろう。受付まで呼び出しをかけたのも『声』だという事だ。メールが送れるのならば、電話だって出来るだろうが。
標的の顔を確認した千尋は、久々に飲んだように感じる熱いコーヒーを名残惜しく思いながら、ファミレスを後にする。
ファミレスへ入るのに苦労するなど、最近―――4日前―――まで考えもしなかった。
だが空き缶を拾ったり、自動販売機の下や釣銭受けを調べてみると、小銭は意外に見つかるものだ。
◇
〝ピエール・レストランテ〟は近場ながら、そこそこに満足できる食事を出す店だ。倉林が珍しく贔屓にしており、特にビーフカレーが美味い。
通常は出前などしてはいないが、倉林はこの料理が食べたくなる度に署まで届けさせていた。今日がそんな日だ。
刑事課の前までカレーを届けさせ、受け取ったのと課長が戻ったのがほぼ同じ。
倉林は上役とはいえ、この課長があまり好きではない。嫌いというよりは軽蔑していると言った方が良い。公然と誰かに言ったりはしないが。
軽蔑はしているが、暴力等の問題行為で昇進の見込みも無い身の上では、こういった使いやすい上司は貴重だ。
出世できない者同士―――境遇が似てるとか思うと反吐が出るが―――、常に情報共有程度の意思疎通は心がけていた。
「どぉしました課長? そんなに食欲が無さそうな顔して。食欲無くすほど仕事してないでしょう?」
「ん? ああ倉林君、昼食かね………」
「ええ、課長はお弁当でしょう?」
何故かこの冴えない課長は、どういうワケか美人で気立ての良い奥さんが居る。その奥さんが毎日弁当を作っているというのだから、分不相応な事この上ない。
それだけでも罰当たりな刑事課長は、倉林に生返事を返した後も、何かを考え込んで美人の奥さんの愛妻弁当を開こうとはしない。
独身の身には何かと毒な家庭の味。それを想うと、美味いカレーも褪せて思えた。
「いったいどうしたとい言うのです、課長? 深刻ぶった顔でいられてもご飯が不味くなるんですがね」
「あ、ああ……すまないな……少し考え事をしていてね……弁当は後にするよ」
「考え事って言ったって、そんな深刻な事件は起こって無いでしょう。例の事件もどこかの誰かさんにひっ浚われて――――――」
「うんッ! うんんッッ!!」
言葉に気を付けて欲しかったのだろうが、逆に課長の咳払いは課内の人間の注意を引いてしまった。
こんな迂闊で考え無しで行き当たりばったりな行動が倉林は大っ嫌いだった。同族嫌悪だという事には気が付いていない。
「フンっ……いったい何だって言うんです課長。全員注目させてスピーチでもやる気ですか?」
「いや、あの……うむ……タレこみがな……」
「……はい? 待ってください課長、何の『タレこみ』です?」
課長は少し逡巡した後、倉林をひとり取調室に呼び出して、謎のタレこみ電話があった事を伝えた。
話の聞き始めこそ、何の事やらと要領を得ない表情の倉林だったが、終わった頃には喜びを堪え切れない満面の不気味な笑みを滲ませていた。
◇
そして、長い時間が始まった。
イカれた刑事や謎の黒スーツに追われるよりはよほど平和だが、漫然と、いつ出て来るか分からない刑事課長を待って警察署入口を観察するのは、緊張と精神的な疲労を強いられる。
コーヒー一杯分のお金は使ってしまったので、いつまでもファミレスには居座れない。
長い時間一つの場所に居るのも、誰かに不審に思われたりするかもしれないので危険だ。
しかし、この頃になると千尋も異常に慣れるもので、直接跳び上がるなりよじ登るなりして建物の屋上に侵入したり、錠をかけられた門を跳び越えヒトの居ない場所へ入り込んだりもする。
人目を気にしないで棲む潜伏場所の選択肢は多かった。
50メートルはある携帯電話の電波塔へ登った時、滅多に体験しない高さに少し感動を覚えた。
街中からは見られない山の稜線を燈色に染め、初秋の太陽が沈んでいく。その僅かな間だけ、千尋は現実を忘れられた。
思い出すのは小さな頃。幼馴染と夕暮れまで外で遊び、遠くに聞こえる音の歪んだ〝夕焼け小焼け〟。
少し心細くなり、お手々繋いで家路を急いだ昔の記憶。
家に帰るとちょうどテレビの時間。特撮の仮面の変身ヒーローや、特殊能力を持った超人を興奮しながら見ていたものだ。
幼い頃、彼らに憧れたのは千尋だけではあるまい。だが今は、自分がそんな力を持ってみても、持て余すだけだろうと高校生になった少年は思う。
ヒーローが強く、格好良かったのは彼等が特別な力を持っていたからではない。その揺るぎない信念と、断固たる意思が見る者を感動させてたのだと、尋常ではない力を持った今だからこそ千尋は思うのだ。
どちらも俄か超人の千尋には無いものだ。
だが、やらねばならない。
戦力は十分とはいえなかったし、身体の異常も武器として使うほど信頼出来るものではなかったが、この絶望的な状況では無いよりは遥かにマシだった。
20メートルを跳ぶ跳躍力。本物の手錠を引き千切る膂力。銃弾を徹さない肉体強度。
そして、100メートル近く離れている警察署から出てくる人物の顔を識別できる視力。
盛り沢山な事だ。
「………さーてー……」
(いよいよだな………)
手摺に乗り出し、警察署から出て来た刑事課長を注視する。
時刻は午後の6時15分。
刑事課長は脇に鞄を持ち、上着を腕に引っ掛けている。帰り支度に見えた。
これから刑事課長を追尾し、人気の無い所で捕まえ締め上げる。
考えるに気が遠くなるが、今は自分の力を信じるしかない。多分、人間には負けないだろう。
そうは思っていても中身は気が弱い普通の少年。弁護士から話を聞こうとした時の顛末を思い出すと、今でも吐けそうだった。
尾行するという事だけ決めて、相手がクルマや電車での通勤だった場合の事を考えていなかったので、刑事課長が駅に入った時はかなり慌てた。
だがそこは既に色んな意味で道を踏み外している現役高校生。人並外れた身体能力と、なけなしの度胸で不法侵入だってやって見せる。
刑事をつけ、切符無しで電車に乗っている事実に心臓をバクバクさせながら必死に平静を装い、特急で一駅、普通で二駅、計30分の道往き。通勤には悪くない距離だったが、高校生が尾行するには長過ぎた。
駅を出て小さなロータリーの脇を通り、人気の無くなりつつある商店街を住宅街方面へ。近くに有名な寺社があり、店のノボリには土産物らしき饅頭や団子の品名が踊る。
住宅地に入ると街灯は少なく、千尋の暮らす住宅地よりずっと暗闇が濃く思えた。土地によってこんな些細な違いもあるのだなと、どうでもいい事に感心した。
街灯は暗く、家々から洩れる光も少ない。そうなると尾行の相手を見失わないようにするのが大変、と思いきや、全然そんな事無かったぜ。
画面が暗いと感じた時にテレビやディスプレイの光量を上げるように、千尋の眼は夜の闇の中を鮮明に映し出していた。ここまで来ると、これ以上何が出てくるか楽しみでさえある。ごめんやっぱり訂正。
刑事課長は、住宅地の端から一車線のみの上り坂に入った。その先は新たに建て売りする新興住宅地であると、坂の入口に立ててあった工事中の看板が教えていた。
僻地の新築にでも住んでいるのかな、と千尋はいつぞや見た邦画を思い出す。
安くて広いからという理由で、市街地から随分離れた家を買った4人家族のマイホームパパは、家族の不平不満や毎日の長時間通勤でストレスを溜めた挙句、ブチ切れて家を燃やすという暴挙に出て映画は終わっていた。アレはもしかして、ベッドタウンの住宅を売る販売会社へ対する営業妨害ではないのだろうか。
いやベッドタウン全てが都会から離れてるとは言わないが。
汚い事やってる割にあんまり良い目を見てないのか。と思ったが、同情する気も全く無い。
(そうだ、同情なんかしてられるかっての……。また邪魔が入る前に……とりあえず埋めてみるか?)
ここまでは尾行を気取られないよう距離を取ってきたが、押さえるなら人気が全く無い今しかないと判断した千尋は、早足で刑事課長との間を詰める。
決断の瞬間から、意図的に思考を鈍らせていた。でなければ、刑事を相手取ってどうにかしようなどと、いきなり心が折れそうだ。
だが相手は刑事であってもただの人間だ。千尋の今の身体能力を考えれば、むしろ相手を傷つけたり殺てしまったりを心配しなければなるまい。力で負ける事はない、筈。
一対一なら十分勝算がある。人気の無い今がチャンス。捕まえてから話を聞き出すのも、ヒトが全く住んでいない、このどこもかしこも作りかけの家しかない場所なら誰かに見られる聞かれることも――――――
(……って、なんかおかしくね? なんぼなんでもこのオッサン……こんな骨組しか出来てない家ばっかりの所に住んでるとか―――――!?)
その事に思い至ったのと、前を歩いていた刑事課長の足が止まったのがほぼ同時だった。
振り返る刑事課長の表情は、千尋に負けないくらいに緊張している事が分かる。
「ッ―――!!?」
(ミスった! バレてる!!)
刑事課長の顔が、眩いライトの光に照らされた。
千尋の背中越しに射す光は、タイヤに悲鳴を上げさせ急加速してくるクルマのモノだった。
◇
「よしいいぞ! そのまま轢き殺せ!!」
「ま、拙いです倉林さん! 課長まで――――――!!」
「ウルサイ!! いいからこのまま突っ込め!!」
ニヤニヤ笑いを狂気に染めた倉林が、助手席から渡辺のいる運転席のアクセルへ足を突っ込んだ。
フェンダーミラー付きの覆面パトカーがタイヤから白煙を上げ、突然の事に驚いて硬直している少年へと突っ込み、
ズガッ!!! と激しい衝突音と衝撃を車内へ響かせた。
千尋はボンネットを人型に凹ませるほど強烈に叩きつけられ、バウンドしてクルマの前へ跳ね飛ぶ。
が、その直後、
「アーッハッハー!! よーしよしよしよ……なに!!?」
後ろ向きに一回転二階転三回転とし、部下の暴挙に驚いて身動きが取れない刑事部長の横を紙一重で転がり抜けた千尋は、その勢いで体勢を立て直し、覆面パトカーに背を向け猛ダッシュで逃げだした。
「ウソだ……な、何ともないのか……?」
「ッ~~~~グゥ!! 行け行け行け!!!」
「ほ、他の車両にも連絡します!!」
覆面パトカーが再び暴走を開始し、危うく轢かれかかった刑事課長がよろけてセメントの袋に突っ込んだ。
後ろから見てバタバタとつんのめる様に走る千尋だったが、何故かこれがクルマで追い付けないほどに早い。
「何やってるナベぇ!! あのガキのケツを踏み潰せ!!」
「む、無理ですもう……!」
幹線道路ではないのだ。住宅地の道路はアスファルトも真新しく整備されて走行しやすいが、それでも安全に走行するのなら時速40から60キロがせいぜい。
対して千尋は小回りが利く上、その速度については今更言うまでもない。
クルマのハイビームの中からフッと消えたかと思うと、柱だけの家屋の中を突っ切り遁走していた。
林立する柱をすり抜けブロック塀を跳び越え、千尋はひたすら真っ直ぐ突き進む。
例によってあまり考えて逃げているワケではないが、弁護士事務所でいきなり襲われた時に比べれば、幾分考える余力があった。
(オレの考えなんて全部バレバレかよチクショウ! と、とにかく逃げないと!!)
5軒ほど家の中を抜け、道路に出る直前に別の覆面パトカーが千尋の進路上に出る。
だがその瞬間、千尋は無心でジャンプし覆面パトカーの屋根を蹴って突破する。クルマはその構造上、自分を飛び越え真横に逃げる相手を追えるようには出来ていない。
住宅地の周囲には未だ造成されてない山林が残され、千尋はその中へと走り込んだ。木々と藪、そして照らす物の無い夜の闇で何も見えない。
だが、千尋の眼には何ら問題なく、ハッキリと山の斜面を見て駆け抜ける事が出来た。
千尋が山林に入ったと知る事さえ出来なかった倉林と浜崎南署の警官達は、その後も住宅地を探し続け、千尋が完全に逃げ切れるほどに時間をロスしてしまった。
イヤらしい笑みの刑事が怒り狂ったのは言うまでもない。