Starting system
牧菜千尋は容姿、体型から見ても特別な所は何も無い、極普通の高校生だった。
顔は整っている方だが、かといって特別な魅力があるワケでもない。
極端に痩せてはいないが、ガッシリしているとも言い難い。
中肉中背の、どこにでも転がっていそうな高校一年の、青年への過渡期にいる少年。
特定の部活には所属せず、学外でスポーツをやっているワケでもない。趣味は専らTVゲームと漫画、それに映画といったインドア嗜好。ゲームソフトの中古販売店巡りは、ほぼ毎日の習慣だった。
外見、内面、人格、趣味、どれもが普通の範疇に収まる少年は、今現在二つの問題を抱えていた。
一つ目は体調。
先週まではやたらと身体がダルく、所々が痛み、眩暈も頻繁におこり、トイレの便器には赤いモノが
混じる事が、日に日に多くなってきていた。
もしかしなくてもオレ、ヤバい事になってない?
年に一回、学年が始まった直後に健康診断は受けていたが、その時には何ら異常は診察されてない。
だからと言って半年以上前の診断結果などに最早すがりついている場合ではなく、週明けにでも大きな病院で診てもらおう。
そう思っていたのだが、いざ週が明けてみると、これが劇的に変った。
身体は軽く、動くに不便不足は全くない。原因不明の身体の痛みは全くなくなり、便通も全く健康なも
のとなった。
これだけなら体調がやたら良くなった、だけで済むが、代わりに少年の身の回りで奇妙な事が起こり出す。
家の床板が歩く度にやたらと軋み、ベッドに寝転ぶと、かつてないほどに沈み込み、エレベーターに乗ると高い確率で重量オーバーの警告音に「ビー!!」とやられる。
そんな現象の数々に、まさかねぇ、と思いながらここ数年使った覚えのない体重計を引っ張り出し、体重を量ってみたらならば、
指し示す数値は、120キロを超えていた。
「め、メタボリックステロイド!?」
大した混乱ぶりであった。
ちなみに、慢性的肥満を示す『メタボリック・シンドローム』と、筋肉増強効果のあるステロイドホルモンの『アナボリックステロイド』がごっちゃになっている。
少年の体型が、最近急激に変わった、などという事実は無い。腹が出ているでもない。にもかかわらず
、いつの間にか体重がに倍近くに増えてしまっていた。
牧菜千尋の身長は170センチ。理想体重を逸脱するにも甚だしい。
前述の健康診断で計った時には正常な値だった。仮に、夏休み中に食っちゃ寝し過ぎたせいだったとしても、いきなりひとり分体重が増えたりはしないだろう。夏休み中、ほぼ引き籠り状態だったとしても。
ここまで飛び抜けると、病院にかかるのも怖い。探ったら何か、身体の中から出てきたり、科学的に愉快なモノが発見されて、実験動物的な注目をされたり。体重計の目盛りは、そんな嫌な想像をさせるのに十分な破壊力を持っていた。
突然変異(?)か、自分の脳がおかしくなったのか、それとも世界の法則の方がおかしくなったのか。
答えは出なかったが、体重以外はすばらしく体調も良い事だし、病院には行かなくても良いだろう。
問題を先送りにしたとか、逃げたとかは言わないで欲しかった。
体重や身体の事は、それなりに深刻な問題とは言えたが、今すぐ命に関わるような事ではない。と思う。
それよりも、牧菜千尋が抱える問題は、二つ目の方が遥かに重く、洒落にならず、限りなく深刻だった。
何故ならば現在、神奈川県浜崎市に住む平凡高校生、牧菜千尋は美波楓の殺人容疑で警察に留置されているからだ。
◇
「それでぇ? その、ゲーム屋〝メディア・デポ〟から帰る途中、『偶々』改装中のビルの中で遺体を発見した、と?」
「……はい」
青い顔で項垂れる平凡な少年に、ドラマで見たような簡素な机の向こうに座る、威圧的な警官は、胡散臭そうな表情を隠そうともしなかった。
明らかに、遺体の第一発見者を疑う様子。見方としては間違ってはいない。千尋もテレビドラマのサスペンスで見て知っている。
脳裏から離れない顔見知りの死体と、現実に警察で受ける、取り調べのプレッシャー。大して苦労もして来ていない高校1年の少年を押し潰すには、十分過ぎる現実の重みだった。
事件に関して千尋に語れる事はそれほど多くない。
4時半頃に学校から家に帰ってきて、それから中古のゲームソフトを探して数件の中古販売店を巡り歩き、結局どことも価格で折り合わなかったので家に帰る事にした。それはいつもの事なのだが、今日はいつもと少し違う出来事があった。
それは、一件目の中古販売店に向かう途中で、同じ学校に通う顔見知りを見かけたこと。
ちょっとした切っ掛けで話をするようになっていた3年生の先輩。
特に異性にモテるでもなく、しかし年相応に興味がないこともない千尋にとって、その先輩は少し気になる存在だった。
茶髪のセミロングの髪。軽いメイクをして学校に来るような少し軽めの雰囲気を持ち、割とハッキリものを言う、捌けた性格の女子生徒。誰隔てるでもなく付き合い、千尋にも気軽に話しかけてくれる。
中古販売店に向かう途中でその先輩、美波楓を見かけ、なんとなくその後を追うようにしてしまったのが拙かった。
「殺害現場近くにあるコンビニのカメラに、被害者をつけるお前がハッキリと映ってるんだよ」
「べ、別に付けたとかじゃ……た、偶々向かう方向が一緒だっただけで……」
事実なだけに、若干の後ろめたさが千尋の言葉を濁らせ、それが威圧的な警官の眦を吊り上げさせる。
「まーた『偶々』か? おまえピコピコの中古を買いに出てたって言ったよな? 何度も行ってる場所なのに、この日だけ『偶々』回り道したってか? 『偶々』知り合いだった被害者と『偶々』同じ方向に『偶々』回り道してかぁ?……おい、舐めたこと言ってんじゃねぇぞ」
「で……でも………」
「ああ!?」
ねちっこく啄ばむ様な現職刑事の物言いに、千尋は全方位から身体を押し潰される思いで、縮こまるしかなかった。
警察の取り調べには良い刑事と悪い刑事がいて、悪い方が犯人を精神的に追いつめ、良い方がやさしく対応して自供を引き出しやすくする、とドラマで見たことがあった。
だが、千尋の場合はこのお約束に該当しなかった。
「言い訳はいい。わかってる……キミが犯人だろう?」
窓の外に向かい、千尋に背を向けていたもう一人の刑事は、断定的にそう言い。
「キミは被害者にストーキングを行っており、その日も被害者をつけ狙っていた。そして殺害現場で被害者に迫まり、拒絶されて逆上し、殺した……キミが犯人だ」
短絡的で一方的なストーリー立てに、萎縮していた少年も気弱ながらに反発する。
「ち、違います……! せ、先輩は誰かと待ち合わせしていたみたいで……だからオ……僕はすぐに離れたんです! それから4件ぐらい回って……それで何も買わないで帰ることに―――」
「口から出まかせを――――!!」
「一時しのぎの嘘は、裁判での心証を悪くするぞ?」
背中を向けていた刑事が、覗き込むように千尋の方を向いた。それは、向かい合って威圧してくる刑事とは対照的な、イヤらしい神経に障る笑みを浮かべた刑事だった。
千尋の主張は全く、完璧に受け入れられず、取り調べは千尋が美波楓を殺害した前提においての、殺害状況と動機の聴取に終始した。
肩に手を置くだけのフリして握り潰される勢いで握られ、机の下では皮靴の爪先に脛を小突かれ続けたが、刑事に入れ替わり立ち替わり責められても、頑として無実の主張を曲げなかった。
学校のカツアゲにも負けてしまう少年にしては、驚異的な粘りと言えよう。
頭が真っ白になって何も考えられなくなった為、とも言えたが。
「キミが犯人で決定だ……。後は弁護士の先生とも、良く話し合って今後の事を、よーく考えるんだねぇ」
イヤらしい笑みの刑事は、千尋が留置所に入れられてからも、柵の向こうからもしつこく、千尋が犯人であると刷り込むように語りかけてきていた。
弁護士が来たのが翌日の事。千尋が夜通し取り調べという名の拷問を受け、留置室に移された直後であった。
時刻にして午前11時少し前。
この状況で、その存在は地獄に垂らされた救いのクモの糸に等しく、千尋には救い主にさえ見えた。
しかし、接見した小太りの弁護士は、千尋の話など大して聴きもしないうちから、こう切り出す。
「フゥ……とにかくね、殺人を認めて減刑を求めるのが一番でしょ……。フゥ……キミは未成年だし、反省の態度を見せれば情状酌量も期待できる。でも初めから頑固に否認していると、後から反省の態度なんて見せても受け入れられないよ……フゥ」
救いの糸は、あっさりと断ち切られた。
「ど、どうしてなんです!? そもそもオ……僕は先輩を殺してなんか――――!!」
「フゥ……私の言う通りにしてくれないと、キミは人生を棒に振ることになるよ……? 犯してしまった罪しっかり償ってだね、人生を再出発するんだ。キミはまだ若いんだから……フゥ」
「ぶ、弁護士なら……無実を証明して下さいよ! 調査とか―――――!!」
「キミィ……そんな自分で事件を調べる弁護士なんてテレビの中だけだよ……フゥ……捜査は警察がしっかりやっているんだから……」
「う……だ、だから警察が初めから僕を犯人扱いしてるから―――――」
「それこそテレビじゃないんだから……警察は見込み捜査なんかしないよ……フゥ。誤認逮捕が無いように綿密に捜査して、キミ以外に彼女を殺したと思われる容疑者ががいないっていうんだから……検察も告訴するだろうし、裁判所もキミが殺人を犯したと認定するだろう……フゥ……だから、後はどうやって罰を軽くするかだけなんだよ……フゥ」
その話のいったいどこに事実が存在するというのか。
しかし千尋はもう混乱の極みに立っており、何も考える事が出来ない。何もかもが出鱈目で、誰もが理不尽な現実を受け入れろと言ってくる。
そもそも死体発見から僅か数時間で。そんな簡単な疑問にも、千尋は思い至る事が出来ないほどの追い詰められていた。
後はただ、千尋は壊れた音声データのように「俺は犯人じゃない」と繰り返すことしかできなかった。
「キミ自身がそう思い込みたいだけなんだよ……フゥ。無罪を主張するのなら、私は助けてあげられないよ? ……フゥ」
そう淡々と言い残し、溜息が耳につく小太りの弁護士は、千尋と接見した部屋を出て行った。
茫然自失といった体の千尋は、弁護士と入れ替わりで部屋に入ってきた制服警官に留置所に戻される。
それからは、コンクリートを蒸し上げる残暑も厳しさも、夜中のコンクリートの冷たさも、感じ取ることができなかった。
頭の中にあったのは、ただ一つの言葉。
終わった。
何が、とは言えない。しかし漠然と、すべてが終わった、という思いだけが、ジワジワと背中から胸の方へと浸透していた。
警察のあまりにも不自然な強行姿勢も、弁護する気の無い弁護士の態度も、世間知らずの高校生には疑問と思う事すら出来はしない。
目の前は真っ暗で、そのくせまるで現実感が無く、身体がフワフワしている。120キロもあるのに。
今後、自分はどうなってしまうのか。検察、裁判、判決、刑務所、刑期、出所、社会、風当たり、職難、家族。様々な物事、先行き真っ暗であろう人生の諸々が頭の中をグルグルと回り、
『あらあら、もう諦めちゃう? 随分軽い人生だこと』
「……は?」
そこに、千尋の記憶にも全く覚えの無い、事務的な響きの声が割り込んできた。
思考の歯車が想定外の異物を噛んで停止し、千尋は強制的に直視したくない現実に引き戻される。
「………?」
微動だにせず、千尋は周囲に耳を凝らした。すぐ耳のそばで聞こえた声。年齢の読めない女の声。
留置所には千尋以外には誰もいない。正確には入口に見張りの制服警官が座っているが、性別はどう見ても男だ。柔道有段者というような厳つい体形で、アレで女の声とか―――芸人にもいたから全くないとも言い切れないが、アレは違うだろう。
しかし声は近くなんてもんじゃない、耳のすぐそばで聞こえたような気がした。まっすぐ寝転べば、それだけでいっぱいになってしまいそうな留置室の中。当然、千尋以外に人なんかいない。
「………ヤバい……やっぱり脳が……」
極限にテンパった状況(高校生視点)で、遂に脳がおかしくなったか。と自分に戦慄する少年。
辛過ぎる現実に、脳が自己防衛機能を働かせたのかと、うろ覚え知識で漠然と思う。
「………霊?」
あるいは自分と同じように、無実なのに留置放り込まれ、失意の底で命を絶った先客がいたのか。千尋はまだ死んでいないが。
『どっちも外れ。……貧しい想像力ねぇ。まだ脳だけは若いのに』
「――――ぅヒィ!?」
その声がまた、耳のすぐそばで言う。
答えが返ってくるとは思っていなかった千尋は、思わず上ずった悲鳴を上げていた。監視の警官が、留置中の容疑者の奇声に気付いて僅かに腰を上げる。
千尋は何も考えずに座ったまま全速後退。明り取りの窓の下に後頭部をぶつけてもだえる事になった。
超常現象。二重人格。霊。電波。千尋に思いつけたのはこの程度だった。謎の声の言うとおり、想像力に乏しいと言えなくもない。
非現実に上塗りされる非現実。もう何度これが夢なら、と思った。だがこうなると、いよいよ夢だという説が有力になる。ヤッター、早く目が覚めるといいなぁ。
『現実を見ない事は緩慢な自殺と同じよ。生き残るのは環境に適応する者ではなく、環境に合わせようと努力する者なのだから』
しかし、夢に諭されてしまってはオシマイである。
「だ、誰? ……か、いらっしゃるん……ですか?」
声はするのに姿が見えない、その一種寒気がする状況に、自然と敬語になってしまう小心者の少年。
壁に張り付いたまま、千尋は目だけを動かして周囲を探った。目の前には、千尋の居る留置室の床と、自分を閉じ込め鉄の檻に、通路の向かいの留置室が見える。他に目についたのは壁に備え付けの簡易ベッド。下に誰かいたら怖すぎるが。
『私の事はどうでもいいわ。キミに現状把握能力を期待する気はないし、理解できないのなら説明するだけの労力が無駄よね。能力が無いなら無いなりに、それが出来る相手に従っておけばいいのよ、人間はね』
「はぁ……」
それほど幅が広くもない簡易ベッドの下に、誰かが潜んでいるという事もなかった。
そして千尋は遠回しに『低能』とバカにされているのだが、憤る事にまで気が回らなかった。むしろこんなワケわからない状況を理解し、把握しろという方が理不尽だ。
そんな風に思えるようになった少年は、少し冷静になってきたのだろうか。
「……それで……あの……なに?」
『何についての疑問なのか分からないわ。自分が直面する状況についての説明を求めているのなら。あなた、要するに濡れ衣着せられているよの。わかる?』
出来の悪い生徒へ言うような呆れを含む声だったが、そんなこと今更言われなくても分かってる。普通なら自己紹介から始めるのが筋だろう、と千尋は言いたかったが、そもそも実在するかどうかも怪しい存在へ、どこに向かって疑問を呈すれば良いというのか。
なんら事態の改善を図れず、ただ混沌の度合いを深める千尋が、謎の声に現実を直視しかねていた所へ、
「ご苦労様です!」
留置所の入り口で見張りについていた警官が、直立不動でしゃちほこばって敬礼する。
入ってきたのは千尋を取り調べた刑事の一人。イヤらしい笑みを浮かべている男だった。
制服警官の敬礼には応えない刑事は、その手に漆塗りの重箱を持って千尋の檻の前に立つ。
「キミは明日の朝、地検に移送される。そこで自分の罪を認めるんだ」
穏やかなのに酷薄な声が、千尋を型に填めるように、お前が犯人だと押しつける。
手にした漆塗りの重箱が開かれると、そこから何ともいえない甘く香ばしい香りが漂ってきた。見なくとも分かる。鰻重だ。
イヤらしい笑みの警官は口だけで割り箸を割ると、タレの滴るカバ焼きを摘み上げて口へと運んで見せた。
瞼を閉じ、香りと味と歯応えを愉しむように租借し、次にタレの染み込んだ白米を口に運ぶ。
「フム……。被害者の絞殺痕はキミの手と一致。キミの上皮組織も検出され、DNAが一致する。動機もある。キミが犯人だ」
「う、嘘だ! お、オレは殺してないのに、一致するなんて事があるワケがない!!」
一瞬、刑事の食べている物に目線を釘付けにされた千尋。緊張や混乱で忘れていたが、まる一日以上何も食べていない上に過酷な取り調べを受け、成長期の少年はもうこの上ない空腹感に晒されている。気がした。
だが、そんな被疑者の心境など手に取るように分かる刑事にとっては、今こそが至上の晩餐。経費で出前させた特上の鰻重はそれだけでも十分美味いが、これを不条理や理不尽でもがき苦しむ人間を眺めながら食べると、また格別に美味くなるのだ。
「いいや、キミが犯人だ。犯人はキミしかいないし、マスコミにもそう報道される。警察は後からどんな証拠が出ても再捜査はしない。証拠はすべてキミを指し、キミを犯人とする証拠しか出てはこない。キミが彼女を殺したと言う自白調書もある。世間もキミが犯人だと思う。だから……どうしたってキミが犯人だ」
『あなたが行ったショップの監視カメラ映像はアリバイにならないのかしら? それに、最後に被害者の娘と一緒にいた男の事とか、後から困った事にならないかしらね?』
「お、オレのあ……アリバイ? アリバイは!? それに先輩は他に一緒にいた男が――――!!」
「そんなモノも人間も存在しない。全てキミの出まかせだ」
イヤらしい笑みの刑事は尚も鰻重を咀嚼しながら、その千尋の指摘にだけは、冷たい目で見下してきた。観賞していた下等な生き物が、身の程知らずにも牙を剥いてきて、気分を害した目だ。
それでも、それなりに大好物を堪能できた刑事は、心底満足そうな溜息をついて漆塗りの重箱を閉じた。
「あ、そうだ……キミ、お腹すいてるかね? 拘置所まで我慢したまえ」
最後まで、ひたすらいたぶってくる刑事の背を、千尋は見送る気も起きない。
千尋が冷静だったならば、その刑事が愉しみの為に、わざわざ自分を打ちのめしに来たのだと分かっただろうが、
「……っしょう……なんだよ……こんなの、ズルイじゃんかよ……」
ただコンクリートに拳を突き、整理のつかない怒りとも迷いとも言えない未消化の感情に、歯を食いしばり、涙を堪えて耐えるしかなかった。