【婚約破棄ざまぁ】愚かな第二王子を三年かけて完璧に育て上げました。――ええ、私が貴方を愛するためではなく、失ったものの価値を思い知らせるためですわ。
三年かけて理想の王子に育てましたが、完成したので婚約解消いたします
秋の風が、王立庭園の薔薇を揺らしていた。
硝子張りの温室カフェには柔らかな陽光が降り注ぎ、白磁のティーポットから立ち上る湯気が、花々の甘い香りに溶け込んでいる。
私の目の前には、焼きたての洋梨のタルト。
香ばしいパート・シュクレの上には、白ワインとシナモンで丁寧に煮込まれた琥珀色の洋梨が、花弁のように美しく並べられていた。
銀のフォークを入れると、さくり、と心地よい音がする。
ひと口いただけば、洋梨の上品な甘酸っぱさと焦がしバターの芳醇な香りが、舌の上でゆっくりとほどけていった。
素晴らしい。
今日という日に、これほどふさわしい菓子はないだろう。
「……セリア。聞いているかい?」
向かい側から、控えめな声がした。
私はフォークを置き、顔を上げる。
そこに座っているのは、この国の第二王子、リュシアン殿下。
蜂蜜色の金髪は美しく整えられ、濃紺の上着に包まれた背筋は真っ直ぐに伸びている。端整な顔立ちには知性と落ち着きが宿り、オリーブグリーンの瞳には、かつて見られなかった思慮深さがあった。
今や社交界では、彼を理想の王子と呼ばない令嬢のほうが珍しい。
文武に優れ、民を思いやり、国政にも明るい。
三年前には想像もできなかった姿である。
「ええ、聞いておりますわ。東部領地の治水事業についてのお話でしょう?」
「ああ。先日、現地の視察を終えたんだ。君に言われたとおり、役人の報告だけでなく、実際に堤防を築いている職人たちにも話を聞いてきた」
「それは結構です」
「彼らの意見を取り入れたところ、工期を短縮できる見通しが立った。しかも、当初の予算より費用を抑えられそうなんだ」
リュシアン様は嬉しそうに微笑んだ。
「君の教えのおかげだよ、セリア」
「いいえ。現場に赴き、自ら判断されたのは殿下です。以前の殿下でしたら、泥で靴が汚れるとお怒りになっていたでしょうに」
「……それは、もう言わないでくれ」
彼は苦笑した。
その表情には、かつての傲慢さなど微塵もない。
「昔の自分を思い出すたび、恥ずかしくなるんだ」
「恥を知るのは結構なことですわ」
「君は相変わらず厳しいな」
「殿下が甘やかされることをお望みなら、ほかの方にお願いなさいませ」
「いや」
彼は即座に首を振った。
そして、ひどく優しい眼差しで私を見つめた。
「君がいいんだ」
私は再びタルトにフォークを入れた。
「……セリア」
「何でしょう?」
「三年間、本当にありがとう」
私は手を止めなかった。
「君がいなければ、今の私はなかった。父上にも、兄上にも、国民にも見放されていただろう」
「そうでしょうね」
「だからこそ、これからは私が君を幸せにしたい」
銀のフォークが、皿の上で小さな音を立てた。
「……幸せに?」
「ああ」
リュシアン様は頬を染めた。
「もう二度と、君を悲しませたりしない。君にふさわしい男であり続けると誓うよ」
その言葉を聞いて、私は静かに微笑んだ。
三年前。
私も、似たような言葉を信じていたことがある。
私、セリア・ヴァレンシュタインは、公爵家の長女として生まれた。
王家に次ぐ権勢を誇るヴァレンシュタイン家の娘として、幼い頃から礼法、歴史、外交、財政、統治学を叩き込まれた。
七歳のとき、第二王子リュシアン殿下との婚約が決まった。
当時の彼は、明るく人懐こい少年だった。
勉強は嫌いで、剣術の稽古からは逃げ回り、難しい話になるとすぐに欠伸をした。
けれど、決して悪い子ではなかった。
庭園で転んだ私に手を差し伸べ、泥だらけになったドレスを気にする私へ、笑って言ったことがある。
『セリアが泣くくらいなら、僕の服も汚してしまえばいいよ』
そして彼は、本当に自分の上着を泥まみれにした。
あのときの私は、心から笑った。
この人となら、きっと幸せになれる。
そう思っていた。
だから、私は努力した。
彼が苦手な勉強を手伝い、面倒な課題を分かりやすくまとめ、王族として必要な知識を一緒に学んだ。
彼が失敗すれば励まし、成功すれば誰よりも喜んだ。
いつか二人で国を支えていくのだと、信じていた。
……今にして思えば、愚かなことだった。
私が手を貸すほど、彼は自分で努力することをやめていった。
私が課題をまとめれば、彼は読まずに提出した。
私が失敗を補えば、彼は失敗そのものを忘れた。
そして、いつしか彼は、私の献身を当然のものとして受け取るようになった。
それでも私は、彼を愛していた。
愛していたから、いつか分かってくれると信じていた。
けれど。
学園の卒業を控えた春。
その幻想は、無残に砕け散った。
『セリア・ヴァレンシュタイン!』
大講堂に響き渡った声を、私は今でも覚えている。
壇上に立つリュシアン様の腕には、桃色の髪をした男爵令嬢ミレーヌがしなだれかかっていた。
『貴様はミレーヌを陰湿に虐げ、階段から突き落とそうとした!』
会場がざわめいた。
『そのような悪女を、我が妃に迎えるわけにはいかない! 本日をもって婚約を破棄する!』
私は、彼を見つめた。
何かの間違いだと思った。
私の知るリュシアン様なら、少なくとも私の言葉を聞いてくださるはずだ。
そう信じていた。
「殿下。何か誤解がございます」
『言い訳は聞かん!』
彼は私を指差した。
『お前のような冷たい女より、心優しいミレーヌのほうが、よほど王妃にふさわしい!』
その瞬間。
私の中で、何かが静かに壊れた。
怒りではなかった。
悲しみですら、なかった。
ただ、胸の奥にあった温かなものが、すうっと冷えていく感覚だけが残った。
私は一度だけ、彼に尋ねた。
「殿下。本当に、私がそのようなことをしたとお考えなのですね?」
『当然だ!』
「私の言葉より、彼女の言葉を信じると?」
『ミレーヌは嘘などつかない!』
「……承知いたしました」
私は頭を下げた。
そして、控えていた近衛騎士へ合図した。
講堂の扉が閉ざされる。
その場にいた生徒たちが息を呑んだ。
私は用意していた書類を取り出した。
ミレーヌが隣国の不正な商人と接触していた記録。
私を陥れるために使用人を買収した証拠。
自作自演の事故を計画していた手紙。
すべて、すでに調査済みだった。
「殿下。こちらをご覧くださいませ」
『な、何だ、これは……』
「殿下が真実の愛とお呼びになったものの、正体です」
ミレーヌは泣き叫んだ。
リュシアン様は青ざめた。
そして、すべてを理解したとき、彼は私を見た。
『セ、セリア……私は……』
私は何も答えなかった。
あの瞬間、私が彼に伝えたい言葉は、もう一つも残っていなかったからだ。
国王陛下は激怒された。
当然である。
第二王子が公衆の面前で公爵令嬢を侮辱し、婚約破棄を宣言したのだ。
しかも、相手の男爵令嬢には国外勢力との不穏な接触まであった。
王家の権威を揺るがす大失態だった。
ミレーヌは取り調べの末、王都から遠く離れた修道院へ送られた。
リュシアン様には廃嫡が検討された。
私は、その決定を止めた。
『陛下。三年間、お時間をいただけませんか』
国王陛下は怪訝そうに眉を寄せた。
『セリア嬢。そなたは、まだあれを庇うのか?』
『いいえ』
私は即答した。
『王家の体面を守るためです。ここで第二王子を廃嫡すれば、我が公爵家との対立を疑う諸侯も現れましょう』
『では、どうする』
『私が教育し直します』
国王陛下は絶句された。
『……できると思うか?』
『できるようにいたします』
『それほどまでに、あれを愛しているのか』
その問いに、私はしばらく沈黙した。
そして、静かに申し上げた。
『陛下。一つだけ、お約束いただきたいことがございます』
『申してみよ』
『三年後、殿下が独力で王族としての務めを果たせるようになった暁には、私との婚約を正式に解消してくださいませ』
国王陛下は、長いこと私を見つめておられた。
やがて、深く息を吐かれた。
『……そなたには、取り返しのつかぬことをしたな』
私は微笑んだ。
『いいえ、陛下』
取り返しがつかないのは、私ではない。
そう申し上げようとして、やめた。
『ただ、もう十分でございます』
それからの三年間は、まさしく地獄だった。
もちろん、私にとってではない。
リュシアン様にとって、である。
朝は夜明けとともに起床。
剣術と体力鍛錬を終えた後、朝食を取りながら前日の課題を確認する。
午前中は統治学と財政学。
午後は外交史、法律、領地経営。
夕刻には実務書類の処理。
夜はその日の復習と、翌日の予習。
最初の一週間で、リュシアン様は泣いた。
『もう無理だ! こんな生活、耐えられない!』
「では、おやめになりますか?」
『え……?』
「王族としての責務を果たせないのであれば、廃嫡を受け入れるしかありませんわね」
『そ、それは……』
「殿下は、何もせずとも誰かが助けてくれるとお思いなのでしょう」
私は彼の前に、一冊の帳簿を置いた。
「こちらは、昨年の凶作で食糧の配給を受けた領民の記録です」
『……それが何だ』
「殿下が今朝、食べ残されたパン一切れを得るために、何日も働かなければならない者もいるのです」
彼は黙り込んだ。
「王族であることは、贅沢をする権利ではありません。人々の暮らしを背負う義務です」
『……分かった』
「聞こえませんでしたわ」
『分かった! やればいいんだろう!』
最初は、そんな調子だった。
だが、半年が過ぎた頃。
彼は初めて、自分から書物を開くようになった。
一年後には、私が指摘する前に書類の不備を見つけるようになった。
二年後には、地方の税制について自ら改善案を提出した。
そして三年目。
彼は、私の助言なしでも公務をこなせるようになった。
その成長を、私は認めている。
努力を重ねたことも。
自分の過ちから逃げなかったことも。
他者の苦しみを理解できるようになったことも。
すべて、素晴らしいことだ。
ただ。
それと、私が彼を愛するかどうかは、まったく別の話だった。
「……セリア?」
現在に引き戻される。
リュシアン様が、不安そうに私を見つめていた。
「どうしたんだい? 急に黙り込んで」
「昔のことを思い出しておりました」
「昔……?」
「ええ。三年前のことです」
彼の表情が強張った。
「……あの日のことか」
「はい」
「セリア」
彼は真剣な顔になった。
「私は、あの日の過ちを一生忘れない」
「そうでしょうね」
「君を傷つけたことを、何度後悔したか分からない。だが、君は私を見捨てなかった」
彼はそっと手を伸ばした。
私の手に触れようとする。
私は自然な動作でティーカップを持ち上げた。
彼の指先が、何もない空間で止まった。
「……セリア?」
「殿下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ああ。何でも聞いてくれ」
「なぜ、私が殿下を教育し直したのだと思われます?」
彼は不思議そうに瞬いた。
「それは……」
そして、照れくさそうに微笑んだ。
「私を愛してくれていたからだろう?」
私は静かにカップを置いた。
「……そうですか」
「君は厳しかった。だが、私が熱を出したときには、温かいスープを運んでくれた。仕事が終わらない夜には、最後まで付き合ってくれた」
彼の声が、少しずつ熱を帯びる。
「君が私を信じてくれているのだと思うと、どんな苦労にも耐えられたんだ」
「殿下」
「だから、これからは――」
「スープを運んだのは、殿下に倒れられては困るからです」
彼の言葉が途切れた。
「……え?」
「夜遅くまで付き添ったのは、殿下が仕事を放り出さないよう監督するためでした」
「セリア……?」
「もちろん、殿下が努力されたことは評価しております。ですが、それを私の愛情の証だとお考えになるのは、少々都合がよすぎませんか?」
彼は、まるで知らない言葉を聞いたかのように私を見つめた。
「……何を、言っているんだ?」
私は微笑んだ。
「殿下。三年前、私がどれほど殿下を愛していたか、覚えていらっしゃいます?」
「あ、ああ……もちろんだ」
「私は、殿下と生涯を共にするつもりでした」
彼の瞳が揺れた。
「どれほど勉強がお嫌いでも、どれほど失敗をなさっても、支えていこうと思っておりました」
「セリア……」
「殿下が私を信じてくださる限り、私は何があっても殿下の味方でいるつもりでした」
私は、ティーカップの縁を指先でなぞった。
「けれど殿下は、私を信じなかった」
「……っ」
「長い年月を共に過ごした私より、出会って間もない令嬢の言葉を信じた」
「そ、それは……!」
「私が何を言っても、聞こうとはなさらなかった」
リュシアン様の唇が震えた。
「すまなかった……本当に……!」
「ええ。謝罪は何度もいただきました」
「だったら……!」
「ですが、殿下」
私は彼を真っ直ぐに見つめた。
「謝罪されたからといって、失った愛情が戻るとは限らないのですよ」
彼の顔から、血の気が引いた。
「……そんな」
「割れてしまった器を、職人が美しく繕うことはできます」
私はテーブルの白磁のカップへ視線を落とした。
「金継ぎを施された器を、以前より美しいと感じる方もいらっしゃるでしょう」
「……ああ」
「ですが」
私はゆっくりと告げた。
「私は、あの日割れた器で、もう一度お茶を飲みたいとは思わないのです」
リュシアン様は動かなかった。
まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
「……嘘だ」
ようやく、かすれた声が漏れた。
「嘘だろう、セリア……?」
私は答えなかった。
「君は……君は、私を許してくれたから、三年間も……!」
「許した覚えはございません」
「だ、だが……!」
「殿下が王族として立ち直ることと、私が殿下を許すことは、別の問題です」
彼は椅子から立ち上がった。
「そんなはずはない! 君は、私が成長するたびに褒めてくれた! 私の努力を認めてくれたじゃないか!」
「ええ」
私は頷いた。
「殿下は立派になられました」
「だったら!」
「本当に、立派になられました」
私は心からそう思っていた。
かつての彼は、自分がどれほど恵まれているかも知らなかった。
他人の苦しみを想像することもできなかった。
責任を負うことから逃げ続けていた。
けれど、今は違う。
彼は国民の暮らしを思い、己の行動がもたらす結果を理解し、過去の過ちを省みることができる。
だからこそ。
「今の殿下なら、理解できるでしょう?」
「……何を」
「ご自身が、何を失ったのか」
彼の表情が凍りついた。
私は続けた。
「三年前の殿下は、私を失っても、きっと本当の意味では後悔なさらなかったでしょう」
「……っ」
「男爵令嬢に騙された。周囲が悪かった。セリアが冷たかった。そうやって、いくらでも言い訳ができたはずです」
彼は何も言わなかった。
「けれど今は違います」
私は微笑んだ。
「殿下は、もう十分に賢くなられました」
リュシアン様の喉が、小さく鳴った。
「人の献身がどれほど尊いものか。信頼を築くために、どれほど長い時間が必要なのか。そして、それを壊すことがどれほど容易いのか」
彼の膝が震え始めた。
「すべて、理解できるようになられましたね」
「……やめてくれ」
「ですから、もう私が教えることは何もございません」
「やめてくれ、セリア……」
彼は頭を抱えた。
「そんなことを言わないでくれ……!」
私は静かに彼を見つめた。
三年間。
私は彼を育てた。
彼が自分の罪を理解できる人間になるまで。
かつて私がどれほど彼を愛し、どれほど深く傷ついたのかを、想像できるようになるまで。
そして今。
彼はようやく、理解したのだ。
自分が失ったものの大きさを。
「……セリア」
リュシアン様は、震える声で私の名を呼んだ。
「私は……君を、取り戻せないのか?」
「はい」
「何をしても?」
「ええ」
「これから一生、君だけを愛すると誓っても?」
「殿下のお気持ちは、殿下ご自身のものです」
私は穏やかに答えた。
「ですが、私の人生は私のものですわ」
彼は唇を噛んだ。
「……私は、君を幸せにしたかった」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、胸の奥が痛んだ。
三年前。
私も同じことを願っていた。
彼を幸せにしたかった。
彼の隣で笑っていたかった。
共に歳を重ね、いつか穏やかな老後を迎えたかった。
そんな未来を、確かに夢見ていた。
けれど。
「殿下」
私は静かに告げた。
「私が幸せになるために、殿下のお許しは必要ございません」
彼は顔を上げた。
「……どういう、意味だ?」
「本日、国王陛下より正式なお許しをいただきました」
私は懐から、一通の書状を取り出した。
王家の紋章が刻まれた、正式な文書。
「私たちの婚約は、本日をもって解消されました」
一瞬。
温室の中から、すべての音が消えたように思えた。
「……こん、やく……?」
リュシアン様の唇が、ゆっくりと動く。
「解消……?」
「ええ」
「なぜ……」
「三年前、陛下とお約束しておりました」
私は書状をテーブルに置いた。
「殿下が独力で公務を果たせるようになった暁には、私の役目を終え、婚約を解消していただくと」
「……三年前?」
「はい」
彼は、書状を見つめた。
その瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「では……君は……」
「ええ」
私は微笑んだ。
「最初から、そのつもりでした」
彼の顔が歪んだ。
「そんな……そんな……!」
「殿下を立派な王族に育て上げること。それが、私の最後の務めでした」
「最後……?」
「そして、その務めは本日、無事に終わりました」
私は椅子から立ち上がった。
「おめでとうございます、リュシアン殿下」
心からの祝福だった。
「貴方はもう、私がいなくても立派に生きていけます」
「待ってくれ……!」
彼は慌てて立ち上がった。
「待ってくれ、セリア! 頼む!」
私は振り返った。
「まだ何か?」
「私は……私は、君がいなければ……!」
「そのようなことはございません」
私は首を振った。
「殿下はもう、お一人で判断し、お一人で責任を負える方です」
「違う! そういうことじゃない!」
彼の瞳から、涙がこぼれた。
「私は君を愛しているんだ!」
その言葉を聞いても、私の心は動かなかった。
かつて、あれほど欲しかった言葉なのに。
「……そうですか」
私は静かに答えた。
「三年前に聞きたかったですわ」
リュシアン様は、息を呑んだ。
私は続けた。
「三年前、あの大講堂で。たった一度でよかったのです」
彼の瞳を見つめる。
「私を信じてほしかった」
それだけだった。
豪華な宝石も、甘い言葉も、華やかな舞踏会も、必要なかった。
ただ、私の言葉を聞いてほしかった。
私が嘘をついていないと、信じてほしかった。
「……セリア」
「ですが、もう終わったことです」
私は微笑んだ。
「どうか、お忘れくださいませ」
「忘れられるわけがない……!」
彼は崩れ落ちるように膝をついた。
「君を忘れられるわけがないだろう……!」
その姿を見ても、私は手を差し伸べなかった。
もう、彼を立ち上がらせるのは私の役目ではない。
「それから、もう一つ」
私は日傘を手に取った。
「来月、隣国のエドガー王太子殿下と婚約することになりました」
リュシアン様が、顔を上げた。
「……エドガー?」
「ええ」
隣国の第一王子、エドガー殿下。
文武に優れ、冷静な判断力と優れた統治能力を持つ方だ。
彼とは、外交交渉の席で何度か言葉を交わしていた。
私の意見を聞き、対等な立場で議論し、時には真っ向から反論してくださる。
初めてお会いしたとき、彼は私にこう尋ねた。
『貴女は、何を望んでいるのですか?』
私は驚いた。
それまで、誰からも尋ねられたことのない問いだった。
公爵令嬢として何をすべきか。
王子の婚約者として何を求められるか。
そんなことばかりを教えられてきた私に、彼は尋ねたのだ。
私自身は、何を望んでいるのか、と。
『……まだ、分かりません』
そう答えると、エドガー殿下は微笑んだ。
『では、これから考えればよいでしょう』
そして、こう続けた。
『貴女が何かを望むとき、私も隣で考えさせていただけませんか』
その言葉が、嬉しかった。
誰かを支えるためではなく。
誰かの不足を補うためでもなく。
ただ、私自身として生きていいのだと、初めて思えた。
「……セリア」
リュシアン様の声が震えた。
「君は……その男を、愛しているのか?」
私は少し考えた。
「これから、愛していきたいと思っております」
嘘ではなかった。
エドガー殿下と過ごす時間は、心地よい。
彼となら、互いに尊敬し合い、信頼を育んでいけるだろう。
それがどのような愛情になるのか、今はまだ分からない。
けれど。
「少なくとも、未来を楽しみに思える方ですわ」
リュシアン様は、声を失った。
私は彼に一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「待って……」
彼の声は、ひどく小さかった。
「セリア……お願いだ……」
私は歩き出した。
「行かないでくれ……」
足を止めなかった。
「君がいなければ、私は……!」
温室の扉に手をかけたとき。
背後から、絞り出すような声が聞こえた。
「……私は、これからどうすればいいんだ……?」
私は、ゆっくりと振り返った。
リュシアン様は床に膝をつき、涙に濡れた顔で私を見上げていた。
三年前なら、きっと私は駆け寄っていただろう。
彼の手を取り、慰め、励まし、次に何をすればいいのか教えていたはずだ。
けれど、今は違う。
私は穏やかに微笑んだ。
「それを、ご自分でお考えになれるように、三年間お教えしてきたのですわ」
彼の瞳から、また涙がこぼれた。
「……ああ」
小さな声だった。
「……そう、だったね」
私は頷いた。
「どうか、立派な王族であり続けてくださいませ」
それが、私から彼への最後の言葉だった。
温室を出ると、秋の風が頬を撫でた。
青空は高く、庭園には薔薇が咲き誇っている。
私は日傘を開き、ゆっくりと石畳を歩いた。
背後から、かすかに泣き声が聞こえた。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
けれど、それは後悔ではなかった。
長い年月を共に過ごした人との別れに、何も感じないほど、私は冷たい人間ではない。
ただ。
その痛みを理由に、もう一度彼の隣へ戻るつもりもなかった。
三年前、私は彼を愛していた。
心から愛していた。
だからこそ、彼の裏切りは深く胸を抉った。
そして私は、三年間を費やした。
彼を立派な王族へと育て上げるために。
彼が、自分の犯した過ちを理解できる人間になるために。
それが復讐だったのかと問われれば、私はきっと頷くだろう。
けれど、それだけではない。
あの三年間は、私自身が彼から自由になるための時間でもあったのだ。
私はもう、彼の失敗を補わなくていい。
彼の未来を案じて眠れない夜を過ごさなくていい。
彼の代わりに責任を背負わなくていい。
そして何より。
彼を愛し続けなくていい。
私は立ち止まり、空を見上げた。
不思議なほど、心が軽かった。
遠くで、馬車の車輪が石畳を踏む音がした。
門の向こうには、隣国の紋章を掲げた馬車が停まっている。
その傍らに立つ銀髪の青年が、私の姿を認めて微笑んだ。
エドガー殿下だった。
「セリア嬢」
彼は歩み寄り、私に手を差し出した。
「お迎えに上がりました」
「まあ。お約束の時間には、まだ早いのでは?」
「ええ。少し待ちきれなくなりまして」
私は思わず笑ってしまった。
「王太子殿下ともあろう方が、随分と率直ですこと」
「貴女の前では、できるだけ正直でいたいのです」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
エドガー殿下は、私の表情を見つめた。
「……お話は、終わりましたか?」
「はい」
「そうですか」
彼は、それ以上何も尋ねなかった。
ただ、差し出した手をそのままにして、私の返事を待っていた。
私は、その手を取った。
温かく、大きな手だった。
「エドガー殿下」
「はい」
「私、少しわがままを申し上げてもよろしいでしょうか」
彼は目を細めた。
「もちろん」
「これから先、私が間違っていると思われたときは、どうか遠慮なくおっしゃってくださいませ」
「ええ」
「そして、私の言葉も、きちんと聞いていただきたいのです」
「約束します」
彼は迷いなく答えた。
「貴女を尊重することと、貴女の言うことを何でも肯定することは、違いますから」
私は、彼を見つめた。
そして、心から微笑んだ。
「……ありがとうございます」
エドガー殿下は、私の手を優しく握った。
「こちらこそ。これから、よろしくお願いいたします」
私は頷いた。
秋の風が、二人の間を吹き抜けていく。
遠く、温室の硝子屋根が陽光を反射していた。
あの場所には、三年間をかけて立派になった一人の王子がいる。
彼はこれからも、国を支えていくだろう。
きっと、多くの人々に感謝される立派な王族になる。
私は、その未来を心から願っている。
けれど。
そこに、私がいる必要はない。
私はもう、誰かを立派に育てるためだけに生きるのではない。
これからは、自分自身の幸せを選ぶのだ。
「参りましょうか、セリア嬢」
「ええ、エドガー殿下」
私は彼の手を取り、馬車へと歩き出した。
一度も、振り返ることなく。
――三年かけて、理想の王子を育て上げた。
その完成を見届けた今日。
私はようやく、私自身の人生を取り戻したのだった。
〈完〉




