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【婚約破棄ざまぁ】愚かな第二王子を三年かけて完璧に育て上げました。――ええ、私が貴方を愛するためではなく、失ったものの価値を思い知らせるためですわ。

掲載日:2026/10/27

三年かけて理想の王子に育てましたが、完成したので婚約解消いたします


秋の風が、王立庭園の薔薇を揺らしていた。


硝子張りの温室カフェには柔らかな陽光が降り注ぎ、白磁のティーポットから立ち上る湯気が、花々の甘い香りに溶け込んでいる。


私の目の前には、焼きたての洋梨のタルト。


香ばしいパート・シュクレの上には、白ワインとシナモンで丁寧に煮込まれた琥珀色の洋梨が、花弁のように美しく並べられていた。


銀のフォークを入れると、さくり、と心地よい音がする。


ひと口いただけば、洋梨の上品な甘酸っぱさと焦がしバターの芳醇な香りが、舌の上でゆっくりとほどけていった。


素晴らしい。


今日という日に、これほどふさわしい菓子はないだろう。


「……セリア。聞いているかい?」


向かい側から、控えめな声がした。


私はフォークを置き、顔を上げる。


そこに座っているのは、この国の第二王子、リュシアン殿下。


蜂蜜色の金髪は美しく整えられ、濃紺の上着に包まれた背筋は真っ直ぐに伸びている。端整な顔立ちには知性と落ち着きが宿り、オリーブグリーンの瞳には、かつて見られなかった思慮深さがあった。


今や社交界では、彼を理想の王子と呼ばない令嬢のほうが珍しい。


文武に優れ、民を思いやり、国政にも明るい。


三年前には想像もできなかった姿である。


「ええ、聞いておりますわ。東部領地の治水事業についてのお話でしょう?」


「ああ。先日、現地の視察を終えたんだ。君に言われたとおり、役人の報告だけでなく、実際に堤防を築いている職人たちにも話を聞いてきた」


「それは結構です」


「彼らの意見を取り入れたところ、工期を短縮できる見通しが立った。しかも、当初の予算より費用を抑えられそうなんだ」


リュシアン様は嬉しそうに微笑んだ。


「君の教えのおかげだよ、セリア」


「いいえ。現場に赴き、自ら判断されたのは殿下です。以前の殿下でしたら、泥で靴が汚れるとお怒りになっていたでしょうに」


「……それは、もう言わないでくれ」


彼は苦笑した。


その表情には、かつての傲慢さなど微塵もない。


「昔の自分を思い出すたび、恥ずかしくなるんだ」


「恥を知るのは結構なことですわ」


「君は相変わらず厳しいな」


「殿下が甘やかされることをお望みなら、ほかの方にお願いなさいませ」


「いや」


彼は即座に首を振った。


そして、ひどく優しい眼差しで私を見つめた。


「君がいいんだ」


私は再びタルトにフォークを入れた。


「……セリア」


「何でしょう?」


「三年間、本当にありがとう」


私は手を止めなかった。


「君がいなければ、今の私はなかった。父上にも、兄上にも、国民にも見放されていただろう」


「そうでしょうね」


「だからこそ、これからは私が君を幸せにしたい」


銀のフォークが、皿の上で小さな音を立てた。


「……幸せに?」


「ああ」


リュシアン様は頬を染めた。


「もう二度と、君を悲しませたりしない。君にふさわしい男であり続けると誓うよ」


その言葉を聞いて、私は静かに微笑んだ。


三年前。


私も、似たような言葉を信じていたことがある。


私、セリア・ヴァレンシュタインは、公爵家の長女として生まれた。


王家に次ぐ権勢を誇るヴァレンシュタイン家の娘として、幼い頃から礼法、歴史、外交、財政、統治学を叩き込まれた。


七歳のとき、第二王子リュシアン殿下との婚約が決まった。


当時の彼は、明るく人懐こい少年だった。


勉強は嫌いで、剣術の稽古からは逃げ回り、難しい話になるとすぐに欠伸をした。


けれど、決して悪い子ではなかった。


庭園で転んだ私に手を差し伸べ、泥だらけになったドレスを気にする私へ、笑って言ったことがある。


『セリアが泣くくらいなら、僕の服も汚してしまえばいいよ』


そして彼は、本当に自分の上着を泥まみれにした。


あのときの私は、心から笑った。


この人となら、きっと幸せになれる。


そう思っていた。


だから、私は努力した。


彼が苦手な勉強を手伝い、面倒な課題を分かりやすくまとめ、王族として必要な知識を一緒に学んだ。


彼が失敗すれば励まし、成功すれば誰よりも喜んだ。


いつか二人で国を支えていくのだと、信じていた。


……今にして思えば、愚かなことだった。


私が手を貸すほど、彼は自分で努力することをやめていった。


私が課題をまとめれば、彼は読まずに提出した。


私が失敗を補えば、彼は失敗そのものを忘れた。


そして、いつしか彼は、私の献身を当然のものとして受け取るようになった。


それでも私は、彼を愛していた。


愛していたから、いつか分かってくれると信じていた。


けれど。


学園の卒業を控えた春。


その幻想は、無残に砕け散った。


『セリア・ヴァレンシュタイン!』


大講堂に響き渡った声を、私は今でも覚えている。


壇上に立つリュシアン様の腕には、桃色の髪をした男爵令嬢ミレーヌがしなだれかかっていた。


『貴様はミレーヌを陰湿に虐げ、階段から突き落とそうとした!』


会場がざわめいた。


『そのような悪女を、我が妃に迎えるわけにはいかない! 本日をもって婚約を破棄する!』


私は、彼を見つめた。


何かの間違いだと思った。


私の知るリュシアン様なら、少なくとも私の言葉を聞いてくださるはずだ。


そう信じていた。


「殿下。何か誤解がございます」


『言い訳は聞かん!』


彼は私を指差した。


『お前のような冷たい女より、心優しいミレーヌのほうが、よほど王妃にふさわしい!』


その瞬間。


私の中で、何かが静かに壊れた。


怒りではなかった。


悲しみですら、なかった。


ただ、胸の奥にあった温かなものが、すうっと冷えていく感覚だけが残った。


私は一度だけ、彼に尋ねた。


「殿下。本当に、私がそのようなことをしたとお考えなのですね?」


『当然だ!』


「私の言葉より、彼女の言葉を信じると?」


『ミレーヌは嘘などつかない!』


「……承知いたしました」


私は頭を下げた。


そして、控えていた近衛騎士へ合図した。


講堂の扉が閉ざされる。


その場にいた生徒たちが息を呑んだ。


私は用意していた書類を取り出した。


ミレーヌが隣国の不正な商人と接触していた記録。


私を陥れるために使用人を買収した証拠。


自作自演の事故を計画していた手紙。


すべて、すでに調査済みだった。


「殿下。こちらをご覧くださいませ」


『な、何だ、これは……』


「殿下が真実の愛とお呼びになったものの、正体です」


ミレーヌは泣き叫んだ。


リュシアン様は青ざめた。


そして、すべてを理解したとき、彼は私を見た。


『セ、セリア……私は……』


私は何も答えなかった。


あの瞬間、私が彼に伝えたい言葉は、もう一つも残っていなかったからだ。


国王陛下は激怒された。


当然である。


第二王子が公衆の面前で公爵令嬢を侮辱し、婚約破棄を宣言したのだ。


しかも、相手の男爵令嬢には国外勢力との不穏な接触まであった。


王家の権威を揺るがす大失態だった。


ミレーヌは取り調べの末、王都から遠く離れた修道院へ送られた。


リュシアン様には廃嫡が検討された。


私は、その決定を止めた。


『陛下。三年間、お時間をいただけませんか』


国王陛下は怪訝そうに眉を寄せた。


『セリア嬢。そなたは、まだあれを庇うのか?』


『いいえ』


私は即答した。


『王家の体面を守るためです。ここで第二王子を廃嫡すれば、我が公爵家との対立を疑う諸侯も現れましょう』


『では、どうする』


『私が教育し直します』


国王陛下は絶句された。


『……できると思うか?』


『できるようにいたします』


『それほどまでに、あれを愛しているのか』


その問いに、私はしばらく沈黙した。


そして、静かに申し上げた。


『陛下。一つだけ、お約束いただきたいことがございます』


『申してみよ』


『三年後、殿下が独力で王族としての務めを果たせるようになった暁には、私との婚約を正式に解消してくださいませ』


国王陛下は、長いこと私を見つめておられた。


やがて、深く息を吐かれた。


『……そなたには、取り返しのつかぬことをしたな』


私は微笑んだ。


『いいえ、陛下』


取り返しがつかないのは、私ではない。


そう申し上げようとして、やめた。


『ただ、もう十分でございます』


それからの三年間は、まさしく地獄だった。


もちろん、私にとってではない。


リュシアン様にとって、である。


朝は夜明けとともに起床。


剣術と体力鍛錬を終えた後、朝食を取りながら前日の課題を確認する。


午前中は統治学と財政学。


午後は外交史、法律、領地経営。


夕刻には実務書類の処理。


夜はその日の復習と、翌日の予習。


最初の一週間で、リュシアン様は泣いた。


『もう無理だ! こんな生活、耐えられない!』


「では、おやめになりますか?」


『え……?』


「王族としての責務を果たせないのであれば、廃嫡を受け入れるしかありませんわね」


『そ、それは……』


「殿下は、何もせずとも誰かが助けてくれるとお思いなのでしょう」


私は彼の前に、一冊の帳簿を置いた。


「こちらは、昨年の凶作で食糧の配給を受けた領民の記録です」


『……それが何だ』


「殿下が今朝、食べ残されたパン一切れを得るために、何日も働かなければならない者もいるのです」


彼は黙り込んだ。


「王族であることは、贅沢をする権利ではありません。人々の暮らしを背負う義務です」


『……分かった』


「聞こえませんでしたわ」


『分かった! やればいいんだろう!』


最初は、そんな調子だった。


だが、半年が過ぎた頃。


彼は初めて、自分から書物を開くようになった。


一年後には、私が指摘する前に書類の不備を見つけるようになった。


二年後には、地方の税制について自ら改善案を提出した。


そして三年目。


彼は、私の助言なしでも公務をこなせるようになった。


その成長を、私は認めている。


努力を重ねたことも。


自分の過ちから逃げなかったことも。


他者の苦しみを理解できるようになったことも。


すべて、素晴らしいことだ。


ただ。


それと、私が彼を愛するかどうかは、まったく別の話だった。


「……セリア?」


現在に引き戻される。


リュシアン様が、不安そうに私を見つめていた。


「どうしたんだい? 急に黙り込んで」


「昔のことを思い出しておりました」


「昔……?」


「ええ。三年前のことです」


彼の表情が強張った。


「……あの日のことか」


「はい」


「セリア」


彼は真剣な顔になった。


「私は、あの日の過ちを一生忘れない」


「そうでしょうね」


「君を傷つけたことを、何度後悔したか分からない。だが、君は私を見捨てなかった」


彼はそっと手を伸ばした。


私の手に触れようとする。


私は自然な動作でティーカップを持ち上げた。


彼の指先が、何もない空間で止まった。


「……セリア?」


「殿下。ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「ああ。何でも聞いてくれ」


「なぜ、私が殿下を教育し直したのだと思われます?」


彼は不思議そうに瞬いた。


「それは……」


そして、照れくさそうに微笑んだ。


「私を愛してくれていたからだろう?」


私は静かにカップを置いた。


「……そうですか」


「君は厳しかった。だが、私が熱を出したときには、温かいスープを運んでくれた。仕事が終わらない夜には、最後まで付き合ってくれた」


彼の声が、少しずつ熱を帯びる。


「君が私を信じてくれているのだと思うと、どんな苦労にも耐えられたんだ」


「殿下」


「だから、これからは――」


「スープを運んだのは、殿下に倒れられては困るからです」


彼の言葉が途切れた。


「……え?」


「夜遅くまで付き添ったのは、殿下が仕事を放り出さないよう監督するためでした」


「セリア……?」


「もちろん、殿下が努力されたことは評価しております。ですが、それを私の愛情の証だとお考えになるのは、少々都合がよすぎませんか?」


彼は、まるで知らない言葉を聞いたかのように私を見つめた。


「……何を、言っているんだ?」


私は微笑んだ。


「殿下。三年前、私がどれほど殿下を愛していたか、覚えていらっしゃいます?」


「あ、ああ……もちろんだ」


「私は、殿下と生涯を共にするつもりでした」


彼の瞳が揺れた。


「どれほど勉強がお嫌いでも、どれほど失敗をなさっても、支えていこうと思っておりました」


「セリア……」


「殿下が私を信じてくださる限り、私は何があっても殿下の味方でいるつもりでした」


私は、ティーカップの縁を指先でなぞった。


「けれど殿下は、私を信じなかった」


「……っ」


「長い年月を共に過ごした私より、出会って間もない令嬢の言葉を信じた」


「そ、それは……!」


「私が何を言っても、聞こうとはなさらなかった」


リュシアン様の唇が震えた。


「すまなかった……本当に……!」


「ええ。謝罪は何度もいただきました」


「だったら……!」


「ですが、殿下」


私は彼を真っ直ぐに見つめた。


「謝罪されたからといって、失った愛情が戻るとは限らないのですよ」


彼の顔から、血の気が引いた。


「……そんな」


「割れてしまった器を、職人が美しく繕うことはできます」


私はテーブルの白磁のカップへ視線を落とした。


「金継ぎを施された器を、以前より美しいと感じる方もいらっしゃるでしょう」


「……ああ」


「ですが」


私はゆっくりと告げた。


「私は、あの日割れた器で、もう一度お茶を飲みたいとは思わないのです」


リュシアン様は動かなかった。


まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。


「……嘘だ」


ようやく、かすれた声が漏れた。


「嘘だろう、セリア……?」


私は答えなかった。


「君は……君は、私を許してくれたから、三年間も……!」


「許した覚えはございません」


「だ、だが……!」


「殿下が王族として立ち直ることと、私が殿下を許すことは、別の問題です」


彼は椅子から立ち上がった。


「そんなはずはない! 君は、私が成長するたびに褒めてくれた! 私の努力を認めてくれたじゃないか!」


「ええ」


私は頷いた。


「殿下は立派になられました」


「だったら!」


「本当に、立派になられました」


私は心からそう思っていた。


かつての彼は、自分がどれほど恵まれているかも知らなかった。


他人の苦しみを想像することもできなかった。


責任を負うことから逃げ続けていた。


けれど、今は違う。


彼は国民の暮らしを思い、己の行動がもたらす結果を理解し、過去の過ちを省みることができる。


だからこそ。


「今の殿下なら、理解できるでしょう?」


「……何を」


「ご自身が、何を失ったのか」


彼の表情が凍りついた。


私は続けた。


「三年前の殿下は、私を失っても、きっと本当の意味では後悔なさらなかったでしょう」


「……っ」


「男爵令嬢に騙された。周囲が悪かった。セリアが冷たかった。そうやって、いくらでも言い訳ができたはずです」


彼は何も言わなかった。


「けれど今は違います」


私は微笑んだ。


「殿下は、もう十分に賢くなられました」


リュシアン様の喉が、小さく鳴った。


「人の献身がどれほど尊いものか。信頼を築くために、どれほど長い時間が必要なのか。そして、それを壊すことがどれほど容易いのか」


彼の膝が震え始めた。


「すべて、理解できるようになられましたね」


「……やめてくれ」


「ですから、もう私が教えることは何もございません」


「やめてくれ、セリア……」


彼は頭を抱えた。


「そんなことを言わないでくれ……!」


私は静かに彼を見つめた。


三年間。


私は彼を育てた。


彼が自分の罪を理解できる人間になるまで。


かつて私がどれほど彼を愛し、どれほど深く傷ついたのかを、想像できるようになるまで。


そして今。


彼はようやく、理解したのだ。


自分が失ったものの大きさを。


「……セリア」


リュシアン様は、震える声で私の名を呼んだ。


「私は……君を、取り戻せないのか?」


「はい」


「何をしても?」


「ええ」


「これから一生、君だけを愛すると誓っても?」


「殿下のお気持ちは、殿下ご自身のものです」


私は穏やかに答えた。


「ですが、私の人生は私のものですわ」


彼は唇を噛んだ。


「……私は、君を幸せにしたかった」


その言葉に、ほんの一瞬だけ、胸の奥が痛んだ。


三年前。


私も同じことを願っていた。


彼を幸せにしたかった。


彼の隣で笑っていたかった。


共に歳を重ね、いつか穏やかな老後を迎えたかった。


そんな未来を、確かに夢見ていた。


けれど。


「殿下」


私は静かに告げた。


「私が幸せになるために、殿下のお許しは必要ございません」


彼は顔を上げた。


「……どういう、意味だ?」


「本日、国王陛下より正式なお許しをいただきました」


私は懐から、一通の書状を取り出した。


王家の紋章が刻まれた、正式な文書。


「私たちの婚約は、本日をもって解消されました」


一瞬。


温室の中から、すべての音が消えたように思えた。


「……こん、やく……?」


リュシアン様の唇が、ゆっくりと動く。


「解消……?」


「ええ」


「なぜ……」


「三年前、陛下とお約束しておりました」


私は書状をテーブルに置いた。


「殿下が独力で公務を果たせるようになった暁には、私の役目を終え、婚約を解消していただくと」


「……三年前?」


「はい」


彼は、書状を見つめた。


その瞳が、ゆっくりと見開かれていく。


「では……君は……」


「ええ」


私は微笑んだ。


「最初から、そのつもりでした」


彼の顔が歪んだ。


「そんな……そんな……!」


「殿下を立派な王族に育て上げること。それが、私の最後の務めでした」


「最後……?」


「そして、その務めは本日、無事に終わりました」


私は椅子から立ち上がった。


「おめでとうございます、リュシアン殿下」


心からの祝福だった。


「貴方はもう、私がいなくても立派に生きていけます」


「待ってくれ……!」


彼は慌てて立ち上がった。


「待ってくれ、セリア! 頼む!」


私は振り返った。


「まだ何か?」


「私は……私は、君がいなければ……!」


「そのようなことはございません」


私は首を振った。


「殿下はもう、お一人で判断し、お一人で責任を負える方です」


「違う! そういうことじゃない!」


彼の瞳から、涙がこぼれた。


「私は君を愛しているんだ!」


その言葉を聞いても、私の心は動かなかった。


かつて、あれほど欲しかった言葉なのに。


「……そうですか」


私は静かに答えた。


「三年前に聞きたかったですわ」


リュシアン様は、息を呑んだ。


私は続けた。


「三年前、あの大講堂で。たった一度でよかったのです」


彼の瞳を見つめる。


「私を信じてほしかった」


それだけだった。


豪華な宝石も、甘い言葉も、華やかな舞踏会も、必要なかった。


ただ、私の言葉を聞いてほしかった。


私が嘘をついていないと、信じてほしかった。


「……セリア」


「ですが、もう終わったことです」


私は微笑んだ。


「どうか、お忘れくださいませ」


「忘れられるわけがない……!」


彼は崩れ落ちるように膝をついた。


「君を忘れられるわけがないだろう……!」


その姿を見ても、私は手を差し伸べなかった。


もう、彼を立ち上がらせるのは私の役目ではない。


「それから、もう一つ」


私は日傘を手に取った。


「来月、隣国のエドガー王太子殿下と婚約することになりました」


リュシアン様が、顔を上げた。


「……エドガー?」


「ええ」


隣国の第一王子、エドガー殿下。


文武に優れ、冷静な判断力と優れた統治能力を持つ方だ。


彼とは、外交交渉の席で何度か言葉を交わしていた。


私の意見を聞き、対等な立場で議論し、時には真っ向から反論してくださる。


初めてお会いしたとき、彼は私にこう尋ねた。


『貴女は、何を望んでいるのですか?』


私は驚いた。


それまで、誰からも尋ねられたことのない問いだった。


公爵令嬢として何をすべきか。


王子の婚約者として何を求められるか。


そんなことばかりを教えられてきた私に、彼は尋ねたのだ。


私自身は、何を望んでいるのか、と。


『……まだ、分かりません』


そう答えると、エドガー殿下は微笑んだ。


『では、これから考えればよいでしょう』


そして、こう続けた。


『貴女が何かを望むとき、私も隣で考えさせていただけませんか』


その言葉が、嬉しかった。


誰かを支えるためではなく。


誰かの不足を補うためでもなく。


ただ、私自身として生きていいのだと、初めて思えた。


「……セリア」


リュシアン様の声が震えた。


「君は……その男を、愛しているのか?」


私は少し考えた。


「これから、愛していきたいと思っております」


嘘ではなかった。


エドガー殿下と過ごす時間は、心地よい。


彼となら、互いに尊敬し合い、信頼を育んでいけるだろう。


それがどのような愛情になるのか、今はまだ分からない。


けれど。


「少なくとも、未来を楽しみに思える方ですわ」


リュシアン様は、声を失った。


私は彼に一礼した。


「それでは、失礼いたします」


「待って……」


彼の声は、ひどく小さかった。


「セリア……お願いだ……」


私は歩き出した。


「行かないでくれ……」


足を止めなかった。


「君がいなければ、私は……!」


温室の扉に手をかけたとき。


背後から、絞り出すような声が聞こえた。


「……私は、これからどうすればいいんだ……?」


私は、ゆっくりと振り返った。


リュシアン様は床に膝をつき、涙に濡れた顔で私を見上げていた。


三年前なら、きっと私は駆け寄っていただろう。


彼の手を取り、慰め、励まし、次に何をすればいいのか教えていたはずだ。


けれど、今は違う。


私は穏やかに微笑んだ。


「それを、ご自分でお考えになれるように、三年間お教えしてきたのですわ」


彼の瞳から、また涙がこぼれた。


「……ああ」


小さな声だった。


「……そう、だったね」


私は頷いた。


「どうか、立派な王族であり続けてくださいませ」


それが、私から彼への最後の言葉だった。


温室を出ると、秋の風が頬を撫でた。


青空は高く、庭園には薔薇が咲き誇っている。


私は日傘を開き、ゆっくりと石畳を歩いた。


背後から、かすかに泣き声が聞こえた。


胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。


けれど、それは後悔ではなかった。


長い年月を共に過ごした人との別れに、何も感じないほど、私は冷たい人間ではない。


ただ。


その痛みを理由に、もう一度彼の隣へ戻るつもりもなかった。


三年前、私は彼を愛していた。


心から愛していた。


だからこそ、彼の裏切りは深く胸を抉った。


そして私は、三年間を費やした。


彼を立派な王族へと育て上げるために。


彼が、自分の犯した過ちを理解できる人間になるために。


それが復讐だったのかと問われれば、私はきっと頷くだろう。


けれど、それだけではない。


あの三年間は、私自身が彼から自由になるための時間でもあったのだ。


私はもう、彼の失敗を補わなくていい。


彼の未来を案じて眠れない夜を過ごさなくていい。


彼の代わりに責任を背負わなくていい。


そして何より。


彼を愛し続けなくていい。


私は立ち止まり、空を見上げた。


不思議なほど、心が軽かった。


遠くで、馬車の車輪が石畳を踏む音がした。


門の向こうには、隣国の紋章を掲げた馬車が停まっている。


その傍らに立つ銀髪の青年が、私の姿を認めて微笑んだ。


エドガー殿下だった。


「セリア嬢」


彼は歩み寄り、私に手を差し出した。


「お迎えに上がりました」


「まあ。お約束の時間には、まだ早いのでは?」


「ええ。少し待ちきれなくなりまして」


私は思わず笑ってしまった。


「王太子殿下ともあろう方が、随分と率直ですこと」


「貴女の前では、できるだけ正直でいたいのです」


その言葉に、胸の奥が温かくなった。


エドガー殿下は、私の表情を見つめた。


「……お話は、終わりましたか?」


「はい」


「そうですか」


彼は、それ以上何も尋ねなかった。


ただ、差し出した手をそのままにして、私の返事を待っていた。


私は、その手を取った。


温かく、大きな手だった。


「エドガー殿下」


「はい」


「私、少しわがままを申し上げてもよろしいでしょうか」


彼は目を細めた。


「もちろん」


「これから先、私が間違っていると思われたときは、どうか遠慮なくおっしゃってくださいませ」


「ええ」


「そして、私の言葉も、きちんと聞いていただきたいのです」


「約束します」


彼は迷いなく答えた。


「貴女を尊重することと、貴女の言うことを何でも肯定することは、違いますから」


私は、彼を見つめた。


そして、心から微笑んだ。


「……ありがとうございます」


エドガー殿下は、私の手を優しく握った。


「こちらこそ。これから、よろしくお願いいたします」


私は頷いた。


秋の風が、二人の間を吹き抜けていく。


遠く、温室の硝子屋根が陽光を反射していた。


あの場所には、三年間をかけて立派になった一人の王子がいる。


彼はこれからも、国を支えていくだろう。


きっと、多くの人々に感謝される立派な王族になる。


私は、その未来を心から願っている。


けれど。


そこに、私がいる必要はない。


私はもう、誰かを立派に育てるためだけに生きるのではない。


これからは、自分自身の幸せを選ぶのだ。


「参りましょうか、セリア嬢」


「ええ、エドガー殿下」


私は彼の手を取り、馬車へと歩き出した。


一度も、振り返ることなく。


――三年かけて、理想の王子を育て上げた。


その完成を見届けた今日。


私はようやく、私自身の人生を取り戻したのだった。


〈完〉



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― 新着の感想 ―
面白い。そして、えっぐw愛の深さが解ったし恨みの深さが解った。けど、3年の時間は少し長すぎると思う。ヒロインの評価と経験と自信にはなったのだろうけど。
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