人の気持ちが分からない?――占い令嬢とその従者のお話――
「君には人の気持ちが分からないのか!?」
婚約者の怒声が、応接室に響き渡った。
――あなたには人の気持ちが分からないの!?
その瞬間、別の女性の声が頭の中で重なった。
紫色の布が敷かれた小さなテーブル。向かい側に座る女性。テーブルの上には、色鮮やかなカードが並んでいる。
『彼が浮気しているなんて、そんなはずないでしょう!?』
『ですが、カードには表れています』
『そんなこと聞きたくなかった!』
女性が椅子を蹴って立ち上がる。
私は、その後ろ姿を見送った。
ああ。
そうだった。
私は、占い師だった。
前世で、タロットカードを使って人々の悩みを聞いていたのだ。
「ヴァイオレット!聞いているのか!」
再び怒声が響いた。
私はゆっくりと瞬きをした。
目の前にいるのは、バーク・クラウゼン。
クラウゼン侯爵家の嫡男であり、私の婚約者である。
そして私は、ローゼンフェルト侯爵家の娘、ヴァイオレット・ローゼンフェルト。
どうやら前世の記憶を取り戻したらしい。
……よりにもよって、こんなときに。
「聞いておりますわ」
「だったら、何か言うことがあるだろう!」
「そうですわね」
私は扇を開いた。
「月に一度しかない婚約者同士の茶会を、わたくしが到着してから中止するとおっしゃるのは、いかがなものかと思います」
「だから!ミネットの具合が悪いと言っているだろう!」
「ええ。お見舞い申し上げますわ」
「少しも心配していないじゃないか!」
……困った人だ。
そもそも今日は、両家の取り決めによって設けられた月に一度の茶会の日だった。
ところが、クラウゼン侯爵邸に到着した私を待っていたのは、茶会の席ではなく、不機嫌な婚約者だった。
『今日は中止だ。ミネットの具合が悪い』
ミネット・ベル。
バークの乳母の娘で、幼い頃から彼と一緒に育った少女である。
昔から身体が弱かったらしく、バークは彼女を実の妹のように可愛がっている。
それ自体は構わない。
問題は、彼が何かにつけてミネットを優先することだ。
『それでしたら、なぜ事前にお知らせくださらなかったのです?』
『急に具合が悪くなったんだ。仕方ないだろう』
『まあ……医師はお呼びになりましたか?』
『ミネットは医者が怖いんだ。ちゃんと薬だけは処方してもらっているから心配ない』
『……』
『僕がそばについている。それで十分だ』
そこで、私は思わず言ってしまった。
『バーク様の成績では、医者と同じ役割は無理かと存じますが』
どうやら、それがいけなかったらしい。
バークは顔を真っ赤にして怒鳴った。
――君には人の気持ちが分からないのか!?
そして、現在に至る。
「……バーク様」
「何だ!」
「わたくし、本日は失礼いたしますわ」
「待て!話は終わっていない!」
「茶会は中止なのでしょう?」
「それはミネットが――」
「ええ。承知しております。どうぞ、お大事になさってくださいませ」
私は立ち上がり、淑女らしく礼をした。
これ以上、話しても無駄だろう。
今はそれよりも、考えなければならないことがある。
なにしろ、前世の記憶を取り戻してしまったのだから。
◇◇◇
「お嬢様。随分とお早いお帰りですね」
馬車の扉を開けたルシアン・クロフォードが、わずかに眉を上げた。
彼は私付きの従者兼護衛である。
黒髪に灰色の瞳。整った顔立ちをしているが、口を開けば遠慮のない皮肉が飛び出してくる。
もっとも、仕事は優秀だ。
「茶会は中止ですって」
「またでございますか」
「ええ」
「クラウゼン侯爵家は、随分とご事情の多いお屋敷ですね」
「婉曲な言い方ね」
「お嬢様ほど率直に申し上げる度胸はございませんので」
私は馬車に乗り込んだ。
ルシアンも向かいの席に腰を下ろす。
「ねえ、ルシアン」
「はい」
「タロットカードをご存じ?」
「……たろっと?」
「占いに使うカードよ」
「存じ上げません」
「そうでしょうね」
私は窓の外へ視線を向けた。
この世界にも占い師はいる。
星を読む者、魔力の流れを感じ取る者。
しかし、前世で私が使っていたタロットカードは存在しないらしい。
ならば、作ればいい。
「帰ったら、厚手の紙と絵の具を用意してちょうだい」
「何をなさるおつもりですか?」
「占いよ」
「……お嬢様」
「何?」
「本日の茶会で、頭を打たれましたか?」
「失礼ね!」
「それならば安心いたしました。いつもどおりでいらっしゃいます」
本当に、この従者は。
しかし、屋敷に戻ってからも、ルシアンは妙に私を気にしていた。
夕食の前には、私の好きな茶葉を使った紅茶が用意されていた。
机には、頼んだ紙と絵の具が揃っている。
しかも、私が使いやすいよう、厚みの異なる紙が数種類用意されていた。
「……随分と準備がいいのね」
「お嬢様は、何かを始めるときに妥協なさいませんので」
「よく分かっているじゃない」
「長年お仕えしておりますから」
ルシアンはそう言って、静かに一礼した。
◇◇◇
三日後。
私の机には、七十八枚のカードが並んでいた。
大アルカナ二十二枚、小アルカナ五十六枚。
前世の記憶を頼りに描いたものだから、細部は多少違う。それでも、象徴さえ押さえておけば占いはできる。
私はカードを混ぜながら、静かに問いかけた。
「このまま婚約を続けたら、どうなるのかしら」
一枚目。
恋人たちの逆位置。
不調和、選択の誤り。
二枚目。
正義の逆位置。
不公平、不正、誤った判断。
三枚目。
塔の正位置。
突然の崩壊。
「……あらまあ」
実に分かりやすい。
婚約関係が破綻し、不当な扱いを受け、何かが崩壊する。
ただし、タロットは未来を一字一句教えてくれるものではない。
カードが示すのは象徴であり、可能性だ。
前世でも、私は何度も相談者にそう説明してきた。
『未来は決まっているのですか?』
『いいえ。今のまま進んだ場合に、何が起こりそうかを考えるためのものです』
そう。
未来は、変えられる。
私は追加で一枚引いた。
魔術師の正位置。
意志、行動、新しい始まり。
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれた。
それなら、やることは決まっている。
「ルシアン!」
扉の外に控えていた従者が、すぐに顔を出した。
「お呼びでしょうか」
「わたくし、占い師になるわ!」
「……」
「何か言いなさいよ」
「お嬢様の突飛なご発想には慣れているつもりでしたが、まだまだ修業が足りなかったようです」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
私はカードを揃えた。
「街の人々の話を聞いてみたいの。貴族の屋敷にいるだけでは、見えないものがあるでしょう?」
「ございますね」
「それに、占いは好きなのよ」
正確には、前世からの仕事だ。
けれど、それを説明したところで、ルシアンが信じるとは思えない。
「承知いたしました。ですが、お嬢様が侯爵令嬢と知られれば騒ぎになります」
「変装するわ」
「お声で分かる方がいるかもしれません」
「では、話し方も変えましょう」
「お嬢様にできますか?」
「……あなた、わたくしを何だと思っているの?」
「率直すぎる侯爵令嬢だと」
「間違っていないところが腹立たしいわね」
ルシアンは小さく笑った。
「では、店舗を探してまいります」
「……反対しないの?」
「お嬢様が、ご自身で何かを始めたいとおっしゃるのは珍しいことですから」
「そう?」
「ええ。これまでは、侯爵令嬢としてのお務めを何より優先なさっていました」
私は言葉に詰まった。
確かに、そうだったかもしれない。
婚約者として、侯爵令嬢として、求められることをこなす毎日。
自分が何をしたいのかなど、考えたこともなかった。
「……そうね」
私が呟くと、ルシアンは穏やかに微笑んだ。
「楽しそうなお嬢様を拝見するのは、私も嬉しゅうございます」
◇◇◇
王都の商業区。
大通りから一本入った場所に、小さな貸店舗があった。
そこが、私の占いの店になった。
看板には『紫のカード占い』とだけ書いてある。
濃紺の衣装に身を包み、髪を結い上げ、薄いヴェールで顔を隠す。
もちろん、父には内緒だ。
最初の客は、若い商家の娘だった。
「婚約者が最近、冷たいんです」
「なるほど。それで?」
「ほかに好きな人ができたんでしょうか」
私はカードを混ぜ、三枚引いた。
月の正位置。
剣の二の正位置。
節制の正位置。
「不安が必要以上に大きくなっているようね。思い込まずに、まずは落ち着いて、話し合ってみるのをお勧めするわ」
娘はしばらく黙り込んだ。
やがて、小さく頷く。
「……そうですね。わかりました。聞いてみます」
「それがいいわ」
彼女は少しだけ明るい顔で帰っていった。
その翌週、娘が再び訪れた。
「先生!婚約者、仕事が忙しかっただけでした!」
「あら、よかったわ」
「私を心配させたくなくて黙っていたんですって」
「次からは、心配させないために黙るのは逆効果だと教えてあげなさい」
「はい!」
そんなことが何度か続いた。
恋愛、仕事、家族関係。
私は前世と同じようにカードを読み、話を聞き、必要なら厳しいことも言った。
そして、少しずつ客が増えていった。
◇◇◇
最初に気になる話を聞いたのは、店を始めて半月ほど経った頃だった。
「実は、うちの店が困ったことになっておりまして」
訪れたのは、老舗の調度品商の主人だった。
占ってほしいのは、店の今後の商売運だという。
「大きな注文が入っていたのですが、支払いが遅れているんです」
「契約書はありますか?」
「もちろんです」
「でしたら、まず契約内容の確認を。支払いの期日が過ぎているなら、正式に請求できるでしょう?」
「しかし、お相手が……」
「もしかして貴族?」
主人は困ったように頷いた。
私はカードを三枚引いた。
金貨の五の正位置。
金貨の六の逆位置。
皇帝の逆位置。
「……随分と、相手に振り回されているようね」
「ええ、まさに」
「ただ、相手が貴族だからといって、約束を守らなくてよいわけではないでしょう?」
「それは、そうですが……」
「あなたの店にも、従業員がいるでしょう。支払いが遅れれば、その人たちも困るわよね?」
主人は黙り込んだ。
やがて、深く頭を下げる。
「……おっしゃるとおりです」
「でしたら、まずは書面で請求を。それでも駄目なら、商業組合に相談するといいわ」
主人は礼を言って帰っていった。
私はその話を、特に気に留めなかった。
王都には貴族が大勢いる。
支払いの遅い屋敷が一つあったところで、珍しい話ではない。
ところが、数日後。
別の客から、少し奇妙な話を聞いた。
「最近、どうにも仕事がやりにくくて」
訪れたのは、冒険者ギルドで働く若い職員だった。
相談は、仕事を続けるべきかどうか。
「買い取りの担当になったんですが、どうにも向いていない気がするんです」
「何か失敗したの?」
「失敗というほどではありません。ただ、高額な品物の買い取りが続いていて……」
「高額な品物?」
「ええ。未開封の高級回復薬です」
私はカードを混ぜる手を止めなかった。
高級回復薬。
魔力を使って傷や衰弱を癒やす、非常に高価な薬だ。
製造元の封印が破られていなければ品質が保証されるため、冒険者ギルドでも買い取りができる。
「それが、どうかしたの?」
「同じ種類の薬が、何度も持ち込まれるんです。もちろん、買い取り自体は規則どおりなんですが……」
「確認が大変なのね」
「そうなんです!」
職員は大きく頷いた。
「金額も大きいですし、もし偽物だったらと思うと怖くて」
私は三枚のカードを並べた。
金貨の八の正位置。
節制の逆位置。
正義の正位置。
「あなたは、仕事そのものが嫌なのではなくて、判断を間違えるのが怖いのでは?」
「……そうなんです!」
「でしたら、一人で抱え込まず、確認の手順を整えてもらって。高額な品物ほど、担当者一人の判断に任せない方がいいわ」
職員は何度も頷いた。
「ありがとうございます!上司に相談してみます!」
彼が帰ったあと、私はカードを揃えた。
◇◇◇
「お嬢様。少々、気になることがございます」
ある日の帰り道。
馬車の中で、ルシアンが口を開いた。
「何かしら」
「クラウゼン侯爵邸の使用人が、最近、何人か辞めたようです」
「辞めた……?」
「以前から勤めていた方々です。中には、バーク様が幼い頃からお仕えしていた者もいるとか」
「理由は?」
「表向きは家庭の事情です。ただ、屋敷の雰囲気がよくないという話も聞きました」
「……ミネット?」
「名前は出ております」
私は扇を閉じた。
クラウゼン侯爵家の使用人たちが、ミネットを快く思っていないことは知っていた。
彼女は乳母の娘でありながら、バークから特別扱いされている。
主人の息子がそうしている以上、使用人たちは強く言えない。
「ミネットは、今もそんなに身体が弱いのかしら」
「それが、どうも妙なのです」
「妙?」
「古くから勤める者の話では、幼い頃は確かに病弱だったそうです。しかし、成長してからは随分と丈夫になったとか」
「……へえ」
「もっとも、体調というものは外から見ただけでは分かりません。断定はできませんが」
「そうね」
私は頷いた。
元気に見えるからといって、本当に健康とは限らない。
それくらいは分かっている。
「それにしても、あなた、よくそんな話を聞いてきたわね」
「知り合いの使用人から、仕事の愚痴を聞いただけでございます」
「ふうん」
「何か?」
「いえ。あなた、意外と顔が広いのね」
「お嬢様が思っていらっしゃるよりは」
「生意気」
「お褒めいただき光栄です」
私は思わず笑った。
◇◇◇
それから数日後。
私は再び、調度品商の主人を占うことになった。
「先生のおっしゃったとおり、商業組合に相談してみました」
「そうなの!どうだった?」
「ようやく先方から返事がありました」
「それはよかったわね」
「ただ、支払いがもう少し先になると言われまして……」
主人は肩を落とした。
「うちは、婚礼用の調度品を扱っているんです。今回も大きな注文だったものですから、材料を先に仕入れてしまって」
「婚礼用?」
「ええ。侯爵家のお客様でして」
私は一瞬、手を止めた。
侯爵家。
婚礼用の調度品。
支払いの遅延。
……まさかね。
「注文書の内容は、きちんと残っているのね?」
「もちろんです」
「そのまま商業組合を通して請求を続けて。契約があるのなら、相手の都合だけで諦める必要はないわ」
「ありがとうございます」
主人は頭を下げた。
私はそれ以上、相手の名前を尋ねなかった。
占いの相談に来た客から、無理に秘密を聞き出すつもりはない。
ただ。
帰宅後、私は父に尋ねた。
「お父様。わたくしたちの婚礼準備は、順調に進んでおりますの?」
父は書類から顔を上げた。
「どうした、急に」
「少し気になりまして」
「……実は、バーク君から準備金の追加拠出について打診があった」
「追加?」
私は眉を上げた。
婚礼準備金は、両家が合意した金額をすでに確保しているはずだ。
結婚式の準備や、新居の調度品などに使うための資金である。
管理は両家で分担しており、クラウゼン家側が発注を担当する品もある。
「理由は?」
「物価の上昇だというが、詳しい明細がない」
「それはおかしいですわね」
「私もそう思う」
父は書類を置いた。
「先方の侯爵にも確認するつもりだ。お前は気にしなくてよい」
「承知いたしました」
私は素直に頷いた。
調度品商の支払い遅延。
婚礼準備金の追加要求。
偶然かもしれない。
けれど、もし同じ話だったとしたら?
◇◇◇
翌日。
私は店の奥で、カードを並べていた。
金貨の四の逆位置。
月の正位置。
金貨の七の逆位置。
「……お金の問題、ね」
私は小さく呟いた。
「ルシアン」
「はい」
「ギルドの買い取りの件があったでしょう?」
「はい」
「正式な記録を確認してほしいの」
「お嬢様にしては、随分と慎重ですね」
「わたくしはいつでも慎重よ」
「……そういうことにしておきましょう」
私は扇を持ち上げた。
「あなた、本当に一言多いわね」
「お嬢様ほどではございません」
ルシアンは一礼し、部屋を出ていこうとした。
「……待って」
「はい?」
「危ないことはしないでちょうだい」
彼が振り返った。
「危ないこと、でございますか?」
「ええ。クラウゼン侯爵家が関わっているのなら、相手は貴族よ。あなたが無理に調べようとして、何かあったら困るわ」
ルシアンは、少し驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
「当たり前でしょう。あなたはわたくしの従者なのだから」
「……そうですね」
なぜか、少しだけ残念そうな声だった。
私は首を傾げた。
「何?」
「いえ。何でもございません」
◇◇◇
父がクラウゼン侯爵家へ正式に照会した結果、支出明細が提出された。
そこには、不可解な項目があった。
婚礼準備に使うはずの資金の一部が、別の用途に振り替えられていたのだ。
しかも、バークの指示で。
「療養費……ですか?」
私は思わず声に出した。
父は険しい顔で頷いた。
「クラウゼン家の内部費用として処理されていた。先方の侯爵も、詳細は把握していなかったようだ」
「それを、婚礼準備金から?」
「そうだ」
私はしばらく黙った。
療養費。
「……お父様。その療養費は、誰のためのものですの?」
「現在、確認している」
「でしたら、正式な回答をいただくまで、追加の拠出はお断りくださいませ」
「もちろんだ」
父は頷いた。
「お前の婚約に関わる金だ。曖昧なままにはしない」
私は深く頭を下げた。
◇◇◇
「療養費ですか?」
ルシアンは私の話を聞いて目を細めた。
「ええ。無断で支出されていたそうよ」
「偶然にしては、気になりますね」
「でしょう?」
ルシアンは手元の資料を開いた。
「先日依頼された回復薬についてですが、ギルドで買い取りが可能なものは限られています。封印が破られていないこと、製造元が確認できること、使用期限内であることが条件です。これが買い取りされた日付と、製造元を記した記録です」
「……同じ製造元の高級回復薬が、何度も持ち込まれているのね。しかも、すべて未開封?」
「はい。買い取りの日付もご覧ください」
私は資料に目を落とした。
「……随分と定期的ね。まるで、誰かから継続して受け取っているみたいだわ」
「はい」
バークがミネットのために高価な回復薬を買っていたとする。
その薬を、ミネットが使わずに売っていたら?
「……随分と効率の悪い換金方法ね」
「自分の金で購入していなければ、損失を気にする必要はありませんから」
ルシアンが淡々と言った。
私は顔を上げた。
「あなたも同じことを考えたのね」
「まだ仮説でございます」
「ええ。証拠が必要だわ」
◇◇◇
数日後、バークから呼び出しがあった。
場所はクラウゼン侯爵邸。
私が席に着くなり、バークは声を荒らげた。
「ヴァイオレット!君はどこまでミネットを苦しめれば気が済むんだ!」
「……はい?」
「彼女のことを嗅ぎ回っているそうじゃないか!」
私は瞬きをした。
「必要な確認をしているだけですわ」
「ミネットは病気なんだぞ!君のような冷たい女には分からないだろうが!」
……また、それなのね。
私は静かに扇を開いた。
「バーク様。今日はそれについてのお話ですか?」
「僕はもう決めたんだ!」
バークは立ち上がり、私を指さした。
「君のような悪女とは結婚できない!婚約は破棄する!」
応接室が静まり返った。
私は、ゆっくりと瞬きをした。
……あらまあ。
本当に、カードのとおりになってしまった。
恋人たちの逆位置。
正義の逆位置。
そして、塔の正位置。
私は扇を閉じた。
「承知いたしましたわ」
「……何?」
「婚約の解消をご希望なのですね?」
「そ、そうだ!」
「でしたら、その前に一つだけ確認させてくださいませ」
「バーク様。婚礼準備金から、ミネットさんのために高級回復薬を購入なさいましたね?」
バークの顔色が変わった。
「両家の合意なく、婚礼準備以外の用途にお使いになったのですか?」
「ミネットの命がかかっていたんだ!」
「つまり、無断で使用なさったことはお認めになるのですね?」
「だから!病人を助けるためだったと言っているだろう!」
「そうですか」
私は頷いた。
「では、そのお薬がどうなったか、ご存じですか?」
「……何?」
「ミネットさんにお渡しした、高級回復薬ですわ」
「飲んでいるに決まっているだろう!」
「いいえ」
私は、用意していた封筒を取り出した。
「冒険者ギルドに売却されております」
「…………は?」
「未開封のまま、定期的に」
バークは、私を見つめたまま動かなくなった。
「こちらは、ギルドから正式に提供された取引記録です。製造番号も、バーク様が購入されたお薬と一致しております」
私は書類を机に置いた。
「売却したのは、ミネット・ベルさん。買い取りを担当したギルド職員にも、ご本人の容姿を確認していただきました」
「……嘘だ」
「さらに、売却代金で衣装や宝飾品を購入なさっていたことも確認されています」
「そんな……」
バークは、震える手で書類を取った。
何度も目を走らせる。
そして、首を振った。
「……違う。ミネットは、そんなこと……」
「バーク様」
私は静かに呼びかけた。
「あなたが守っていたのは、本当に病気のミネットさんだったのでしょうか?」
バークは何も答えなかった。
「もちろん、ミネットさんの行動については、別に責任を問う必要がございます。ですが、婚礼準備金を無断で使用なさったのは、あなたご自身ですわ」
「……」
「騙されていたからといって、その責任がなくなるわけではございません」
「……ヴァイオレット」
バークが、かすれた声を出した。
「バーク様。婚約の解消、承りましたわ」
「ヴァイオレット」
「何でしょう?」
「君は、本当にそれでいいのか?」
私は首を傾げた。
「それで、と申しますと?」
「僕との婚約がなくなるんだぞ!」
……ああ。
そういうこと。
私は思わず笑ってしまった。
「バーク様」
「何だ」
「わたくし、あなたとの婚約がなくなっても、何も困りませんわ」
「……!」
「むしろ、今後は月に一度の茶会のために予定を空ける必要もなくなりますもの」
私はにっこりと微笑んだ。
「お互い、時間を有効に使えそうですわね」
バークの顔が真っ赤になった。
私は最後に優雅に膝を折ると、クラウゼン侯爵邸を後にした。
◇◇◇
その後の処理は、思った以上に早く進んだ。
婚約は両家の合意によって正式に解消された。
クラウゼン侯爵家は、不正に使われた準備金を補填し、また請求があった商家等に対して必要な精算を行った。
バークは当面、家の財務や対外的な契約に関わる権限を取り上げられた。
将来の侯爵家当主としての資質も、改めて問われることになったらしい。
今回の一件が明るみに出て、どうやら、社交界での信用も大きく損なったようだ。
一方、ミネットについては、ギルドへの売却記録と商家での買い物の記録が揃っていた。
クラウゼン侯爵家は、彼女に対して金銭の返還を求めた。
もっとも、すでに大半を使ってしまっていたため、簡単には返せないという。
その後、彼女がどうなったのか、詳しいことは知らない。
クラウゼン侯爵家の管理下で、返還について話し合いが続いていると聞いた程度だ。
結局、私は最後までミネット本人と顔を合わせることがなかった。
不思議なものだ。
あれほど私の婚約に影響を与えた女性なのに、直接話したことすらないのだから。
「……まあ、会わずに済んだのなら、それでいいわね」
私はそう呟き、カードを混ぜた。
◇◇◇
婚約が解消されてからも、占いの店は続けていた。
私はカードを読み、話を聞き、ときには厳しいことも言った。
けれど、不思議なことに、客は減らなかった。
むしろ、増えていった。
「先生は、はっきり言ってくれるから好きです」
ある客にそう言われたとき、私は思わず笑ってしまった。
前世では、同じような性格のせいで怒鳴られたこともあったのに。
世界が変われば、受け取り方も変わるものらしい。
「本日も予約がいっぱいでございます」
ルシアンが帳簿を片手に言った。
「あら、ありがたいことね」
「そろそろ助手を雇ってはいかがでしょう」
「あなたがいるじゃない」
「私は従者兼護衛でございます」
「占い師の助手も兼ねてちょうだい」
「……給金の交渉をお願いしても?」
「いいわよ。いくら欲しいの?」
「そうですね」
ルシアンは少し考えたあと、微笑んだ。
「では、お嬢様のお時間を、もう少しいただければ」
「……時間?」
「はい」
「仕事の時間なら、今でも十分に使っているでしょう?」
「仕事以外のお時間です」
私は首を傾げた。
ルシアンは、なぜか困ったように笑った。
「お嬢様は、やはり人の気持ちを理解するのが苦手でいらっしゃいますね」
「何ですって?」
「いえ。何でもございません」
私はむっとした。
また、それか。
前世でも今世でも、どうして私はそんなことを言われるのだろう。
「失礼ね。わたくしだって、人の気持ちくらい分かるわよ」
「では、占ってみてはいかがでしょう」
「何を?」
「私の気持ちを」
私は目を瞬かせた。
……なるほど。
占い師への挑戦状というわけね。
「いいわ。そこに座りなさい」
「承知いたしました」
私はカードを丁寧に混ぜた。
ルシアンが向かいに座る。
問いは、彼の気持ち。
一枚、カードを引く。
恋人たちの正位置。
「…………」
「いかがでしょう」
「……おかしいわね」
「何がです?」
「もう一度」
カードを戻し、混ぜ直そうとする。
しかし、その手をルシアンの言葉が止めた。
「どうなさいましたか?」
「……」
ルシアンが目を細めて笑った。
私はカードを握りしめたまま、彼を睨む。
けれど、胸の奥が妙に落ち着かない。
……まさか。
そんなはずは。
「ねえ、ルシアン」
「はい」
「あなた、もしかして……」
「はい」
彼は穏やかに微笑んだ。
どうやら自分のすぐ隣にあった想いには、まったく気づいていなかったらしい。
「……先に言いなさいよ!」
「お嬢様が婚約なさっている間に、そのようなことを申し上げるわけにはまいりません」
「それは……そうだけれど!」
ルシアンは笑みを深めた。
「それで、お嬢様。占いの結果はいかがでしたか?」
私はカードを見下ろした。
恋人たちの正位置。
「……わ、悪くないと思うわ」
「それは何よりでございます」
「ただし!」
「はい」
「わたくしの相手をするのは、大変よ?」
「存じております」
「口も悪いし、気も強いし、思いついたらすぐ行動するわ」
「ええ。誰よりもよく存じております」
「……それでもいいの?」
ルシアンは、少しだけ真面目な顔になった。
「そういうお嬢様だからこそ、お慕いしているのです」
私は扇を広げた。
顔が熱い。
きっと、今の私はひどい顔をしている。
……まったく。
人の未来を占う仕事をしているというのに、自分の未来ばかりは、どうにも予想がつかない。
けれど。
それも、悪くないのかもしれない。
私は扇の陰で、小さく笑った。
未来は、決まっているものではない。
自分で選び、自分で変えていくものなのだから。
――そして、今度こそ。
私自身が望む未来を、選んでみようと思う。
◇◇◇
ヴァイオレットが店の奥へ消えたあと、ルシアンは一人、帳簿を片づけていた。
ふと、机の上に残された一枚のカードへ目を向ける。
恋人たちの正位置。
「……本当に、よく当たる占いですね」
思わず笑みがこぼれた。
もっとも、今回ばかりは占いのおかげというわけでもない。
すべて、予定どおりだったのだから。
ミネット・ベル。
幼い頃は確かに病弱だったが、今ではすっかり健康になった少女。
彼女に話を持ちかけたのは、ほかでもない変装したルシアンだった。
『バーク様には、今までどおり身体が弱いと伝えてください』
『……それだけでいいの?』
『ええ。あの方は、あなたを疑いませんから』
彼女が欲しがった高級回復薬についても、売却先を紹介した。
もちろん、婚礼準備金に手をつけるよう指示したわけではない。
そこまで愚かな真似をするとは、さすがに予想していなかった。
だが、結果としては好都合だった。
バークはミネットの言葉を信じ、薬を買い与え続けた。
そして、自分の婚約者をないがしろにした。
ルシアンがしたことといえば、ほんの少し、背中を押しただけ。
「……実に助かりましたよ、バーク様」
ルシアンは静かに笑った。
長い間、ヴァイオレットのそばに仕えてきた。
誰よりも彼女を理解している自負がある。
けれど、彼女の隣には、いつも婚約者という存在があった。
その男が、彼女の価値を理解しようともしないことが、ルシアンには許せなかった。
だから、少しだけ運命に手を加えた。
彼女が自分の未来を選べるように。
そして、その未来に自分がいられるように。
「……そろそろミネット嬢にも退場頂きましょう」
ルシアンは、机の上のカードを裏返した。
「運命は、自分で変えるものなのでしょう?」
ヴァイオレットがよく口にする言葉だった。
ルシアンは満足げに微笑んだ。
「ええ。私も、そう思いますよ」
彼女はまだ、何も知らない。
そして、これからも知る必要はない。
ルシアンはカードを箱に戻し、静かに蓋を閉じた。
――ようやく手に入れた、この未来を。
今さら、誰にも邪魔させるつもりはなかった。




