第23話 渡せなかった手紙
中野さんが、ゆっくりと奥から戻ってきた。
その手には、一通の封筒があった。
年季の入った紙の色が、やけに目につく。
「……これは?」
俺が尋ねると、
中野さんは小さく息を吸った。
「これは……
悟平君のお母さんからの手紙なんだ」
「え?」
思わず声が漏れる。
だが中野さんは、
そんな俺を気に留めることもなく、
静かに話し始めた。
「順を追って話すとね。
悟平君は、大会で準優勝したあと……
この東栄将棋センターに、来なくなったんだ」
そう言って、
中野さんは窓の外へと視線を向けた。
「え? 準優勝したのに?
何があったんですか?」
「ああ。
あれは、小学校低学年の部の決勝戦だった。
難しい戦いが続いてね。
ようやく悟平君が優勢になった、そのとき――」
中野さんは、
次の言葉を探すように、
ほんの少しだけ間を置いた。
「思わぬ形で、対局は決着した。
……悟平君は、反則をしてしまったんだ」
「反則……?」
「角を打ち、相手が角を合わせた。
そして、角を交換したんだが……」
中野さんは、
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「本来なら、
その角は、角のまま盤に置かねばならなかった。
だが悟平君は――」
一拍、間があった。
「無意識に、駒を裏返してしまった。
成れない位置で、
馬として置いてしまったんだ」
俺は、ごくりと喉を鳴らした。
「普段の悟平君なら、
絶対にしないようなミスだった。
周りから『あっ』という声が上がってね。
対局相手の子も、すぐに気付いた」
中野さんは、
淡々とした口調で続ける。
「……それで、
対局はそのまま、終わってしまった」
「……」
言葉が、見つからなかった。
「準優勝でも十分すごいと、
お母さんは必死に慰めていたよ。
でも――」
中野さんは、
ほんの少しだけ目を伏せた。
「……よほど恥ずかしかったんだろう。
悟平君は、そのとき――
お母さんに、八つ当たりしてしまった」
胸の奥が、ずしりと重くなる。
「そして、その数日後――」
中野さんは、そこで一度、言葉を切った。
「悟平君のお母さんは、
不幸な交通事故で、亡くなってしまった」
「……ええっ!?」
声になったのは、
それだけだった。
お母さんが亡くなったことは、
佐久間先生から聞いていた。
だが――
交通事故だったなんて。
言葉が、続かない。
沈黙が、場を満たす。
その静けさの中で、
中野さんは一通の封筒を、
そっと机の上に置いた。
「そして……
この手紙は、
お母さんが亡くなったあとに、
ここへ届いたものなんだ」
中野さんは、
それ以上は何も言わず、
封筒を俺の方へ差し出した。
俺は、しばらく迷ってから――
そっと、それを受け取った。
そして、
静かに、手紙を読み始める。
「中野さん。
いつも悟平をありがとうございます。
センターの皆さんに、
いつも良くしていただいて、
あの子は先日の大会で、
準優勝することができました。
大会では、
お見苦しい姿も見せてしまいましたが、
悟平も、後悔しているようです。
……きっともう、
私に謝って、
センターに行きたくて、
しょうがないんじゃないかしら。
あの子は本当に落ち着きのない子で、
少し心配でしたが、
将棋を始めてからは、
本当に悟平かしらと思うくらい、
集中力のある子になりました。
これからも、
この子は将棋を続けていくのだと思います。
また、すぐに
お世話になると思いますので、
その際は、どうぞよろしくお願いします」
読み終えたとき、
自然と視界が滲んでいた。
「……そんな……
そんなのって……」
胸の奥が、
どうしようもなく苦しかった。
その沈黙を縫うように、
中野さんが、再び口を開く。
「……実はね。
悟平君は、お母さんが亡くなってから――
一度だけ、このセンターに来たことがあるんだ」
「……え?」
思わず声を上げたのは、
吉田さんだった。
「それは初耳だぞ。
将棋を指していったのか?」
中野さんは、
静かに首を横に振った。
「私と一局だけ、指そうとした。
いや――正確には、指せなかったんだ」
俺は、何も言わずに耳を傾ける。
「盤に向かった途端、
悟平君は俯いてね。
苦しそうな顔をしたまま――
涙を流したんだ」
中野さんは、
当時の光景をなぞるように、続けた。
「将棋に触れると、
お母さんのことを、思い出してしまう。
……それで、指せなくなってしまったんだ」
俺は、
無意識に拳を握りしめていた。
……俺は、父を亡くして、
将棋の記憶そのものを、捨てた。
悟平君は、
将棋を指すと、母を思い出してしまうから、
将棋から離れた。
とても――
他人ごととは、思えなかった。
「悟平君は泣き叫びながら言っていた。
お母さんに謝れなかった――と。
私は、その悟平君の姿を見て……
この手紙を、渡せなかった」
中野さんは、
自分に言い聞かせるように続ける。
「今思えば、
何か行動を起こすべきだったのかもしれないが――」
その言葉を聞いたとき、
俺の中で、一つの決意が静かに固まった。
「……中野さん」
俺は、ゆっくりと顔を上げる。
「その手紙、
僕に預けてくれませんか」
中野さんは驚いたように、
俺を見つめた。
「……悟平君に、渡すのかい?」
「はい。
でも、ただ渡すだけじゃありません」
一度、息を吸った。
「悟平君に、
あの頃の気持ちに、
なんとか触れてもらうために――
俺にできることを、します」
中野さんは、
しばらく黙って俺を見つめていたが、
やがて、静かにうなずいた。




