第20話 棋聖の孫、将棋センターに立つ
ある土曜日。
腕時計の針は、ちょうど十時を指していた。
「……ここが、東栄将棋センターか」
俺は自宅の最寄り駅から三つ先、
その駅近くにある、
将棋センターの前に立っていた。
外観は、どこにでもある雑居ビルの一角。
だが、扉の向こうからは、
確かに“将棋の気配”が漂っている。
俺は一度、深呼吸をしてから――
恐る恐る、ドアを開けた。
カラン、と小さな音。
次の瞬間、視界いっぱいに広がる光景に、
思わず足が止まる。
――人。人。人。
休日ということもあってか、
ざっと見ただけでも、
三十人はいるだろうか。
いくつもの机が並び、
その上には、盤と駒。
子どもから、お年寄りまで。
年齢も性別もばらばらな人たちが、
誰一人として無駄口を叩くことなく、
盤面に向かって思考を巡らせている。
その光景を見た瞬間――
脳裏に、別の場所の記憶がよみがえった。
江戸の町。
団子屋の奥で、
黙々と盤を挟んでいた、二人の客。
――あのときと、同じだ。
時代も、場所も違うのに。
将棋に向き合う人間の姿は、
驚くほど変わっていない。
「こんにちは」
不意に声をかけられ、
俺ははっとして顔を上げた。
受付に座る女性が、
にこやかにこちらを見ている。
「あ、こんにちは」
俺は慌てて軽く頭を下げた。
女性の名札に目をやると、
「宮崎」と書いてある。
「このセンターは、初めて?」
「はい。あの……」
一瞬、言葉に詰まる。
どう切り出すべきか、
昨日から何度も考えてきたはずなのに。
「このセンターに、
昔からいるスタッフの方って……
いますか?」
「え?」
女性は少し意外そうな顔をした。
俺は、できるだけ簡潔に事情を説明した。
ーー昔、このセンターに通っていた子のこと。
その子のことで、少し話を聞きたくて来たこと。
「ああ……そういうことなのね」
女性は、納得したように頷いた。
「昔からいるのは、
席主の中野さんなんだけど……」
そう言って、
机の上の書類に目を落とす。
席主。
――このセンターの責任者、ということだ。
「ちょっと待っててね」
しばらく紙をめくり、
再び顔を上げた。
「今日はお休みじゃないから、
そのうち来ると思うわ」
少しだけ、胸が軽くなる。
「どうする?
将棋でも指しながら待つ?」
「……はい。そうします」
「棋力はどのくらい?」
「えーと……」
来た。
一番困る質問。
自称アマ五段の先生と、
結構いい勝負。
……でも“自称”だし。
(天野宗歩とは飛車落ちでした、
とか言ったら、
頭おかしいと思われるよな……)
俺が言葉を探していると、
女性はくすっと笑った。
「わからない?
初段はある?」
「あ、それは……あると思います」
「じゃあ、初段ね」
あっさりと決まった。
「ちょっと座って待ってて。
対局相手が決まったら呼ぶから」
席料を支払い、
俺は空いた椅子に腰を下ろす。
盤を前にすると、
自然と背筋が伸びた。
――さて。
ここからだ。
悟平君の過去に、
確かに繋がっている場所。
この東栄将棋センターに、
彼の“記憶の鍵”の手がかりは、
まだ残っているのか。
俺は、静かに盤を見つめながら、
席主・中野という人物の到着を待った。




