第19話 準優勝
翌日の放課後。
俺は意を決して、職員室の重い扉を引いた。
佐久間先生を訪ねるなんて、
これまでに何度もあったはずなのに。
なぜか今日だけは、
心臓の鼓動が耳の奥まで響いてくる。
「おお、神矢君。
どうした?
ちょっと待ってくれたまえ」
先生は机の上のパソコンに向かったまま、
軽く手招きをした。
(やっぱり、テストの準備中か……)
ふと、画面が目に入る。
◆問 題:( )に入る言葉を答えなさい。
◆回答欄:実験は( )!
……。
二度見した。
昨日、理科室で言っていた、
あの言葉じゃないか。
(いや、先生。
それは、あの場にいた人しか、
正解できないだろ……)
「よし、完璧だ!」
先生は勢いよくエンターキーを叩き、
椅子を回転させてこちらを向いた。
「待たせたね。
それで、何か相談かな?」
「あの……先生。
この前、悟平君は将棋ができないって、
言ってましたよね」
「うん、言ったね」
「悟平君って、
昔から全く指さなかったんですか?
その……子どもの頃とかも」
「ああ……」
先生は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「確かにこの前は
『できない』とは言ったけどね。
あの子、子どもの頃はよくやっていたよ」
「そうなんですか!?」
静かな職員室に、
俺の声が響き渡った。
周りの先生たちの視線が、
一斉にこちらへ集まる。
「あ、す、すみません……」
俺は縮み上がりながら、小声で謝った。
先生は苦笑し、少し身を乗り出す。
「びっくりするよ、急に。
どうして、それが気になるんだい?」
来た。
昨日から、何度も頭の中で
シミュレーションしてきた質問だ。
「……昨日、放課後に少し悟平君と話したんです。
でも、将棋の話になると、急に黙り込んじゃって。
ただ……将棋を知らない、
という感じじゃなかったので……気になって」
「そうか」
先生はそう言って、
少しだけ視線を窓の外へ泳がせた。
「小学校に入る前かな。
将棋教室に通うくらい、
熱心に指していた時期があったんだよ」
その声は、
いつもの快活な響きを失い、
どこか遠い記憶を愛おしむような――
そんな優しさを帯びていた。
「……強かったんですか?」
「強かったよ」
先生は小さく、
それでも誇らしげに笑った。
「名門の東栄将棋センターに通っていてね。
子ども大会で、準優勝したこともあった。
あの子は……
私なんかより、ずっと筋が良かった」
準優勝。
その言葉が、
胸の奥を、ちくりと刺した。
そこまで強かった子が、
なぜ――。
「でもね……」
先生はそこで言葉を切り、
深く息を吐いた。
「そのあたりからかな。
将棋を、ぱったり指さなくなったのは」
「……何か、理由があったんですか?」
俺が踏み込むと、
先生は、しばらく黙り込んだ。
カチ、カチ、と、
職員室の時計が時を刻む。
「……ちょっと、言いづらい話なんだけどね。
悟平はもともと活発で、よく笑う子だった」
一拍、間を置いて。
「でも……
私の妻が亡くなってから、
すっかり寡黙になってしまってね」
俺は、かける言葉に詰まった。
「将棋を指さなくなったのも、
妻が亡くなった時期と重なるんだよ。
たぶん……
いや、それ以上のことは、
本人にしか分からないんだろうけどね」
「……そう、だったんですか」
先生は、悲しい話をしたばかりなのに、
どこか無理をしたように笑って、
俺の肩を軽く叩いた。
「いや、変な話をしてしまったね。
謝ることはないよ。それよりも……」
少し照れたように、先生は続ける。
「悟平のことを、そんなに気にかけてくれて、
私は嬉しいよ。
あの子は、友達も多いほうじゃないし……
神矢君、これからも仲良くしてやってくれ」
「はい!」
俺は力強く頷き、
礼をして、職員室を後にした。
……本当は、
もっと詳しく聞きたかった。
将棋をやめたことと、
悟平君のお母さんの死が、
どこまで結びついているのか。
でも、
にこやかに笑う先生の瞳の奥に、
消えない悲しみを見た気がして、
これ以上は、聞けなかった。
職員室を出て、
校門へ向かいながら、
俺は考えていた。
この事実を、
そのまま五平に伝えていいものか。
無理に、記憶の戸を叩こうとすれば、
また、五平が激痛に襲われるかもしれない。
それでも――
先生の言葉の中に、
ひとつだけ、確かな手がかりがあった。
「……東栄将棋センター、か」
悟平君が通っていたのは、
もう十年以上前だ。
当時のことを知る人が、
まだ残っているかどうかは分からない。
それでも、
じっとしているわけにはいかなかった。
「……行ってみよう」
もし、本当に――
悟平君が将棋をやめた理由が、
お母さんの死と結びついているのなら。
それは、
俺にとっても、他人ごとじゃない。
お父さんの死によって、
将棋を忘れてしまった俺。
でも、江戸の町で。
その俺に、将棋の楽しさを
思い出させてくれた五平。
今度は――
俺の番だ。
悟平君の記憶の戸を開く、
その鍵の手がかりを――
俺が、探してみせる。




