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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: 一進(にのまえすすむ)
第2章 現代・高校将棋部編
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第18話 十年と一ヶ月

「今日は将棋ができない!」


理科室に入ってくるなり、そう嘆いて、

さっきまで涙ぐんでいた佐久間先生。


一度、深く息をつくと、

気を取り直したように俺へ視線を向けた。


「ということで、神矢君。

 今日は自主練をしておいてくれたまえ……」


顧問の先生らしく、

そう締めかけた――


そのとき。


「……って、悟平!」


佐久間先生が、

悟平君に視線を向けるなり、声を上げた。


「……その目はどうしたんだ!」


悟平君――

中身は五平――

涙はもうないが、その赤く腫れた目を見て、

先生の顔から、さっと笑みが消えた。


(ヤバい……)


俺は内心、焦った。


(この状況、

 変なふうに思われるんじゃ……)


「……まさかとは思うが」


佐久間先生は表情を強張らせ、

大真面目な声で言った。


「実験中に……

 溶液が目に入ったんじゃないだろうな!?」


(……え?)


まさか……

俺らが、仲良く実験していたとでも?


俺がどう答えようか混乱していると、

五平が、静かに沈黙を破り――

悟平君の声で答えた。


「さすがお見通しだね。

 ……でも、大丈夫だよ、父さん」


(父さん!?)


「ちょっと煙が目にしみただけだから」


「そうか!」


佐久間先生は、

ぱっと表情を明るくした。


「それなら、よかった!」


先生は心底安心した様子で、

俺と悟平君を交互に見ながら、

何度も満足そうに頷いた。


「そうか、そうか……

 お互いを知らなかった二人が、

 実験を通して仲良くなった、か」


(……ん?)


「いいじゃないか!」


先生は、

完全に一人で盛り上がり始めた。


「実験は世界を救う!

 これはいい話だ!」


(……何をどう解釈したんだ……)


「よし!」


佐久間先生は、

急にメモ帳を取り出した。


「これはテストに出そう!

 いい問題ができた!」


 ……は?

 テストの問題?


 “実験は世界を救う”を?


 ……ごめん、化学のテストを受けるみんな。


「忘れないうちにだ!」


先生は満足そうに言い切ると、

くるりと踵を返した。


「じゃあ私は、

 テストの準備に戻る!」


そう言い残して、

佐久間先生は扉の向こうへ消えていった。


――残された俺は、

しばらくその背中を見送ってから、

隣の五平を見た。


「……なあ、五平」


「今の受け答え、

 完璧すぎなかった?」


「うむ」


五平は、小さく頷く。


「悟平殿の記憶のおかげだ」


「記憶?」


「父上への話し方や、

 こうした場での受け答え……

 考える前に、体が覚えている」


「……そ、そういうものなのか」


俺は戸惑いながらも、

ようやく腑に落ちた。


――だから、

あんなにも“息子”として、

自然に振る舞えたのか。


「……蓮も、違和感があっただろうが……

 何も言わずにいてくれて、助かったぞ」


お互いの視線が交わり、

二人とも、照れたように口元を緩めた。


俺は今日の将棋部の活動を休みにして、

五平と一緒に帰ることにした。



---



駅へ向かう帰り道。

並んで歩きながら、

俺は、ずっと胸に引っかかっていたことを口にした。


「……さっき、五平は、

 宗歩先生が亡くなってから、

 この世界に来たって言ったよね」


「そうだ」


五平は静かに頷く。


「……蓮は、師が亡くなったことに、

 あまり、驚かないのだな」


「……うん」


五平は多くを語らなかったが、

俺が驚かない理由は、

きっと分かっているのだと思う。


俺は未来の人間で、

宗歩先生が亡くなることを、

すでに知っていた。


だから――

心のどこかで、

覚悟ができていた。


俺は、少し苦笑しながら言った。


「五平が、あれから十年以上も

 時を過ごしていたなんて……

 俺は、まだ戻ってきてから、

 一ヶ月くらいしか経ってないのに」


「何……!」


五平は、思わず目を見開いた。


「そうか……

 姿が変わっておらぬゆえ、

 そうだとは思っていたが……

 まさか、一月とは……」


一瞬の沈黙。


「でもさ」


俺は、わざと軽い調子で続けた。


「俺と五平って、

 もうだいぶ年が離れてるってことでしょ?

 貫禄ある五平もいいけど……

 ちょっと大人になりすぎて、

 寂しいなぁ」


「ははっ!

 なんだ、それは!」


五平が、吹き出すように声を上げて笑った。


「……だが、不思議な感覚だ」


少し照れたように、五平は言った。


「時を重ねたはずが、

 蓮と過ごしたあの頃の……

 若々しい気持ちが、

 今は戻ってきているように思う」


「そうなの?」


「うむ。

 体に活力がみなぎっている。

 本当に、若さを取り戻したかのようだ」


そう言って、

五平は俺を見つめた。


――やはり。

二人の脳裏に浮かんだのは、

将棋だった。


「……ところで、五平」


俺は、歩みを少し緩めて聞いた。


「悟平君が将棋を拒絶してるって……

 どういうことなの?」


「うむ……」


五平は表情を曇らせた。


「理由までは分からぬ。

 だが、悟平殿は明らかに、

 将棋を指すことを拒んでおる」


「……気持ちは、分かるの?」


「悟平殿が具体に、

 何を考えているかまでは分からぬが……」


五平は、胸元にそっと手を当てた。


「将棋に触れようとすると、

 胸を、急激な痛みが襲う」


「え……?」


「今日も、蓮のもとへ向かうとき、

 足が金縛りにあったように動かなかった」


「そんな……!」


五平は、しばらく言葉を探すように黙り込み――

やがて、俺をまっすぐ見つめた。


「……蓮。

 頼みがある」


五平の声に滲んだ覚悟を感じ取り、

俺も無意識に身構えた。


「佐久間殿に、

 悟平殿がなぜ将棋を指さなくなったのか、

 聞いてもらえぬだろ――」


次の瞬間。


「――うっ!」


五平が、突然呻き声を上げ、

その場に膝をついた。


「五平!」


先ほどの言葉。

将棋に触れるたび、胸に走る痛み。


それが決して大げさな話ではないことを、

五平の姿が、はっきりと物語っていた。


苦しげに息を整えながら、

五平は必死に言葉を絞り出した。


「どんな手がかりでもよい……

 その手がかりから、

 必ず、悟平殿の記憶の戸を叩く……

 たとえ、その戸が、

 どれほど固く閉ざされていようとも……」


「もういい!」


俺は、思わず声を荒げた。


「分かったよ、五平!

 だから、それ以上、喋らなくていい!」


五平の真意は、

痛いほど分かっていた。


悟平君が将棋から離れた理由。

それを知っている人がいるとしたら、

おそらく、佐久間先生しかいない。


ただ――

それを、五平が。

悟平君自身が聞くのは、

あまりにもおかしい。


その役目を果たせるのは、

俺しかいなかった。


「五平……」


俺は、深く息を吸って言った。


「わかった。

 俺、何とかやってみるよ」


五平は、静かに頷いた。


「……頼む、蓮」


俺は、この五平の姿を見て、

はっきりと思った。


きっと、五平は――

自分が将棋を指したい、その気持ちだけで

動いているのではない。


悟平君の、将棋に縛られた心。

その痛みごと、

何とかして救いたいんだ。


悟平君にとっては、

もしかしたら余計なお節介かもしれない。


それでも五平は、

自分の気持ちに正直に、

誰かを救おうとしている。


――あのときも、そうだった。


時を越え、

不安でいっぱいのまま、

宗歩先生の屋敷を訪れた俺を。


どこの馬の骨とも分からない俺を、

何も問わず、

当たり前のように迎えてくれた。


あのときの五平。


やはり――

十年以上の時を越えても、

五平は、何ひとつ変わっていない。


その事実が、

胸いっぱいに広がって、

嬉しさで、息が詰まりそうになる。


込み上げてくるものを、

俺はただ、必死に堪えた。

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