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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: 一進(にのまえすすむ)
第2章 現代・高校将棋部編
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第15.9話 向かうべき場所

「悟平? 着いたよ?」


茫然としていた私に、

佐久間殿が声をかけた。


重い足取りで、何とか車から降り、

佐久間殿に別れを告げる。


生徒と、教師なる身分の者では、

学校への入り口が別になっているらしい。


私は校門へ向かいながら、

何度も周囲を見渡した。


門をくぐった先に広がっていたのは、

「グラウンド」と呼ばれる、

きれいに整地された広大な広場。


これほどの広場が、

学び舎の内に設けられているとは――

江戸では、考えられぬことだ。


その奥にそびえる「校舎」は、

恐ろしく大きい。

並ぶ窓の数からして、

三階ほどあろうか。


ここに、

七百人余りの若者たちが集い、

日々、学んでいるという。


建物の中へ足を踏み入れれば、

目の前に映るのは木ではない材質の、

つるりとした廊下。

そして、白一色の、凹凸のない壁。


そして――

惜しげもなく使われた、透き通る板。


……硝子が、

これほど当たり前のように

用いられている世であるとは。


やがて私は、

教室と呼ばれる場所で席に着き、

授業なるものを受けることとなった。


正面にそびえるのは、

巨大な緑色の壁。

その表面に、

白い文字が次々と書きつけられていく。


それだけでも、

十分に驚くべき光景であった。


だが――

真に私を打ったのは、

語られる理論の数々であった。


聞いたこともない思考。

見たこともない算法。

世界を捉える、その視点。


悟平殿の記憶のおかげで、

理解できぬということはない。


だが――

あまりにも知らぬ知識が、

洪水のように押し寄せ、

頭の内が、ついていかぬ。


現代文。

数学。

地理。


そして――英語。


異文化の思考までも、

己の内に取り込もうとするとは。


私は、これから先、

このような授業なるものに、

ついていくことができるのか……


いや。


できるのか、ではない。

やらねばならぬ。


私は、この悟平殿の身体を借りているにすぎぬ。

いつになるかは分からぬが――

いずれ、この身を返す時が訪れるであろう。


そのとき、

悟平殿が困らぬように。

恥じぬように。


この世で、

精一杯、生きねばならぬ。


……しかし。


私の心は、

その重みに、

耐えうるのであろうか――



---



昼休み。


周囲では、

幾人かの者たちが輪を作り、

楽しそうに言葉を交わしている。


笑い声。

身振り。

気負いのない空気。


その光景を目にしたとき、

脳裏に浮かんだのは――

蓮との、他愛のない言葉の記憶。


……ずいぶんと、

遠い、遠い記憶になってしまった。


悟平殿は、

あまり交友関係が広くはなかったらしい。

この身体の周囲に、

声をかけてくる者はいない。


私は、記憶を頼りに、

「購買」と呼ばれる場所にたどり着いた。


貨幣の形も、

その単位も、

私の知るものとはまるで違う。


一つ一つ確かめるように、

戸惑いながら――


悟平殿が好んでいたという、

「焼きそばパン」なるものを、

手に取った。


校庭に出て、

「ベンチ」と呼ばれる長椅子に腰を下ろし、

それを口に運ぶ。


……うまい。


朝に口にしたパンに劣らず、

実に、美味である。


しかし、

美味なるものを食すたび、

胸の奥を打つのは、

師への、言い知れぬ罪悪感であった。


そして、食し終えると、

やってきたのは、

得も言われぬ――孤独。


この世で、

私が「五平」であると知る者は、誰もいない。


名を呼ぶ声もなく、

過去を共有する者もいない。


私はただ、

遠くの空を見つめていた。



---



午後の授業を終え、

長い一日を乗り切ったとき、

私の心には、もはや力が残っていなかった。


……そして思う。


この日々が、

明日からも、

続いていくのだ、と。


しかし、先ほど誓った決意。

どれほど困難な道であろうと、

私は、やらねばならぬ。


……そのために、必要なもの。


師を失い、

道を失い、

それでもなお、

私が捨てられぬもの――


それが、将棋なのだ。


これからは、

「放課後」なる時間である。


佐久間殿の言っていた、

「神矢」殿に会いに行こう――


そう思い、

「理科室」へ向かおうとした、その時。


突如として、

胸を締めつけるような痛みが走った。


そして――

足が、動かぬ。


これは――

悟平殿の心が、

私を引き留めているのか。


(……悟平殿、……許せ!)


私は、その呪縛を振り切り、

歩き出した。


だが、

その抵抗は、

一歩ごとに、強さを増していく。


周囲から向けられる、

訝しげな視線。

それを感じながらも、

私は、ただ前へ進んだ。


足はしびれ、

息は苦しい。


それでも――

私は、あきらめない。


ただ将棋がしたいのではない。


そこへ行かねばならぬのだ。

私のために。


――そして、

悟平殿のためにも。


その確信が、

確かに、胸の奥にあった。


やがて私は、

ようやく目的の場所へと辿り着き、

最後の力を振り絞って、

「理科室」なる部屋の、戸を開いた。


――その瞬間。


意識が遠のくような、

霞む視界の中で。


懐かしい光を帯びたような――

一人の少年と、目が合うのを感じた。

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