第15.8話 戸惑いと絶望
部屋の中を見渡せば、
何から何まで、見たことのない景色であった。
悟平殿の記憶を頼りに、
部屋の戸を開け、階段を下りる。
降りて右に曲がると、
顔を洗う場所があるらしい。
その場所に至ったとき、
私は、言葉を失った。
何者かが、目の前に立っている。
「何奴……!」
そう叫びかけた、その刹那。
悟平殿の記憶が、私を呼び戻した。
これはなんと“鏡”らしい。
――これが、鏡だと?
これほどまでに、
大きな鏡があるとは……
よほど悟平殿の家は、
裕福であるのかと思ったが――
この世では、
かかる鏡は、いたるところにあるという。
それも驚きではあったが……
さらに驚いたのは、
鏡に映った私の姿であった。
若い。若すぎる。
私は宗歩様のもとへ戻る決心をするまで、
幾年もの月日を費やし、
齢は、すでに三十を超えていた。
しかしこの姿は、年端もいかぬ、
せいぜい十五、十六の青年であった。
……これが、悟平殿の姿。
やはり、私の魂は、
この身体に宿っている。
私は、しばし、
その場に立ち尽くしていた。
「悟平? 早く顔洗って、
朝ごはん食べなよ?」
その声に、
私は、はっと現実へと引き戻される。
悟平殿の父、佐久間殿が呼んでいた。
私は、水のありかが分からなかったが、
記憶に導かれ、
この“蛇口”なるものを捻ったとき――
また大声が出そうになるのを、
必死にこらえた。
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何とか顔を洗い終えて、朝の食卓につく。
見覚えなき様式の机や椅子。
器。
そして、器の上に置かれた四角い物体。
少し焼かれたような跡がついている。
これに、この隣に置かれた
“マーガリン”なるものを、
つけて食べるらしい。
(これは……パン、というのか)
恐る恐る、口に運んだ瞬間、
思わず声が漏れそうになる。
「これは……美味で……」
――いや、違う。
「……美味しい」
言い直すと、父上は目を瞬かせた。
「……急にどうしたんだ?
いつもの食パンだろ?」
確かに、悟平殿の記憶によれば、
これは日常の朝食らしい。
だが、私にとっては――
驚くほど、滋味深かった。
これまで一度として、
味わったことのないものだ。
(ぜひ……
宗歩様にも、
これを差し上げたかった……)
自分だけが、
このような贅沢を味わっている。
その自責の念とともに――
悟平殿の記憶が、
次々と私の中へ流れ込み、
胸の内が、静かに軋んでいく。
その迫りくる波に、
私は今にも、
押しつぶされてしまいそうだった。
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何とか、制服なるものに着替え、
必要なものを、この鞄に詰め込む。
この世では、
成人前の若者は、皆一様に、
「学校」なる場所へ通うらしい。
江戸の世では、
考えられぬことだ。
「悟平?
じゃあ、私は先に出るから、
戸締り、頼んだよ」
「……えっ?
……は、はい」
佐久間殿は、どうやら悟平殿と同じ
“学校”へ向かうらしい。
悟平殿は、学ぶ側。
佐久間殿は、
学びを教える側のようだ。
行き先が同じであるなら……
一緒についていきたい。
素直に、そう思った。
この見知らぬ世で、
果たして本当に――
“学校”なる場所まで辿り着けるのか。
正直、自信はなかった。
……だが。
本来、
二人は一緒には行っていないようだ。
これ以上、
違和感を抱かせるわけには――
そう思った、その矢先。
「……うん? どうした?
一緒に行くかい?」
思わず、目が見開かれた。
「……はい」
「……えっ? はいって言った?」
佐久間殿は、
一瞬だけ目を瞬かせた。
「珍しいね。
一緒に行きたいだなんて。
……なんだかおかしいな。
今日の悟平は」
胸の奥が、ひやりとする。
だが――
「……まあ、いいか。
一緒に行こう」
佐久間殿の笑顔と、その言葉に、
胸の奥が、ほっと緩んだ。
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学校へ向かう道すがら、
私は、ひたすら戸惑っていた。
見知らぬ建物。
平らな灰色の道。
そして、この恐ろしいまでの速さで走る乗り物。
――自動車、というらしい。
これを平然と操る佐久間殿を見て、
私は、改めて思い知らされた。
ここは、
私の知る世ではない。
この車を操縦する佐久間殿に、
私は、色々なことを尋ねた。
悟平殿は寡黙な性格だったようで、
佐久間殿は怪しんだかもしれないが――
これから向かう
“学校”のことについて、
どうしても、
聞かずにはいられなかった。
これから、
学校で自分がするべきこと。
悟平殿の記憶と照らし合わせながら、
不自然な問いにならぬよう、会話を続ける。
頭の中は、ひどく忙しかった。
そして、
私は佐久間殿の仕事について尋ねた。
「ちち……父さんは、
いま忙しい……の?」
「そうだな。
もうすぐテスト期間だから、その準備でね。
……本当は、将棋部の練習に、
顔を出したいんだけどね」
――将棋!?
思わず、
大きな声を上げそうになるのを堪えた。
胸の奥で、
心臓が強く跳ねる。
「今、強い子が入ってきてね。
神矢君っていうんだ。
放課後、理科室で指してるんだよ」
……神矢。
私は、当然聞いたことのない名だ。
悟平殿の記憶の中にも、
その名は、見当たらない。
しかし――
なぜだ。
聞いたこともない名なのに、
胸が、熱を帯びてくる。
「悟平はクラスが違うから……
知らないだろ?」
「……は、……うん」
この胸の熱さの正体は、
まだ、わからない。
だが、この世にも将棋はある。
そして、その理科室に行けば、
その強い者と会える。
それを聞いただけで、
この世に、
一筋の光が差し込んだように思えた。
――だが。
その光は、
なぜか、
突然、色を失っていく。
そして――
突然の心臓をつかまれたような息苦しさ。
(これは……なんだ?
……まさか!?)
気づいてしまった真実。
悟平殿は将棋を拒絶している。
(……なぜだ?)
悟平殿の記憶を探るが、
その理由は、見当たらない。
ただ――
この体は、間違いなく、
将棋そのものを拒んでいる。
では、私はこの世で、
将棋を指すことすら――
叶わぬというのか。
全身から、
力という力が、抜けていく。
将棋が、指せない。
それは五平にとって――
将棋と共に生きてきた、この身にとって、
あまりにも残酷な絶望であった。




