第13話 約束のはじまり
季節は、秋の入口を迎えた。
折れていた肋骨もすっかり完治して、
サッカー部の練習に参加できるようになった。
将棋部に専念することも考えたけど……
やっぱりサッカーも好きだ。
顧問の先生に相談してみたら意外にも、
「掛け持ちでいいぞ」
とあっさり許可が出た。
それ以来、サッカー部が休みの火曜日と木曜日は、
将棋部の部室に向かうのが日課になってる。
……まあ、今のところ部員は俺ひとりなんだけど。
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そんな日々の中で、
遥とは手紙でのやり取りが続いていた。
文字の端々から、
少しずつ元気を取り戻しているのがわかって、
それだけで胸の奥が、じんわりと温かくなる。
そして、ある日届いた遥からの便箋。
何気なく目を走らせて――
ある一行に、息が止まった。
「次の日曜日、退院できることになったよ」
その文字を読んだ瞬間、
胸に詰まっていた何かが、ふっとほどける。
(……よかった。本当に……)
安堵の息を吐きながら、続きを読もうとして――
次の行に目を落とした瞬間、心臓が跳ねた。
「おめでとうって言いに来てくれたら嬉しいな。
……なんてね!」
……なんてね、って。
静かな部屋の中で
胸の鼓動だけが、やけにうるさくなっていた。
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次の日曜日。
俺は病院の玄関をくぐり、理由もなくそわそわしていた。
……本当に、来てしまった。
あの一文だって、
ただの冗談だったかもしれないのに。
……なのに。
(遥の家族もいるだろうし。
……邪魔にならないかな)
そんな不安と、
久しぶりに会えるかもしれない――
その嬉しさが入り混じって、
胸の奥がどうにも落ち着かない。
(手紙には、十二時頃に退院するって書いてあったな……)
時計をちらりと確認する。
十二時まで、あと十五分。
まだ早いかもしれない。
そう思いながらも、
足は自然と病室へ向かおうとして、
気づけばエレベーターの前に立っていた。
……落ち着け、俺。
そう自分に言い聞かせた、そのとき――
「……蓮君?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
「……遥!」
振り返ると、そこに遥が立っていた。
病室のベッドで、
横になっている姿しか知らなかった遥が、
こうして自分の足で立っている。
――それだけで、胸の奥がいっぱいになった。
少し痩せたような気がする。
でも、その瞳には確かな明るさが戻っていた。
「ビックリした。
……本当に来てくれたんだね」
そう言って、遥はにっこり笑う。
すると、バッグの中から、
小さな布袋を取り出した。
その中から出てきたのは――
俺が送った桂馬の駒。
「これ、桂馬……返すね」
差し出された駒を前に、
胸の奥で、何かが静かに音を立ててほどけていく。
「ずっと、お守りにしてたの。
一つ駒がなくて、困ったでしょ?」
そう言って、遥はいたずらっぽく笑った。
「いや、大丈夫だったよ。
大事にしてくれて……ありがとう」
そう答えると、遥の表情が、ふっと緩む。
俺は受け取った桂馬を、
そっと手のひらで包み込み、
しばらく視線を落としたまま、静かに言った。
「本当に……よかった。
元気になって」
その言葉を聞いた瞬間、
遥は目元を押さえ、こらえるように息を吸う。
そして――
泣きそうで、でも笑っている。
そんな不器用な表情で、遥は口を開いた。
「蓮君の手紙と、この桂馬のおかげだよ。
……ありがとう」
その一言が、心に静かに染み込んでくる。
言葉を返そうとして、うまく声が出なくて。
俺はただ、小さくうなずいた。
「じゃあ……お父さんが待っているから」
そう言って、
遥は少し照れたように視線を逸らした。
それでも名残惜しそうに、
もう一度だけこちらを見た。
「……しばらく自宅療養だけど。
でも、すぐ元気になるから――」
そう前置きしてから、
遥はまっすぐに俺を見つめて言った。
「将棋部で、待っててね」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
目頭が、じんわりと熱くなった。
「……うん。待ってるよ」
そう返すと、
遥は安心したように、そっと微笑んだ。
(……あっ)
別れ際、
蓮は何かを思い出したように、口を開いた。
「そうだ、遥……」
「ん?」
「帰ってもさ……あの、思い出の盤とか……
あんまり触らないほうがいいよ」
きょとんとした表情のあと、
遥は吹き出した。
「え、なにそれ?」
「ち、違っ……」
何言ってるんだ、俺。
慌てて、首を振る。
「いや、なんでもない。気にしないで」
遥は、くすっと小さく笑った。
「変なの。
でも……蓮君が言うなら気をつけとくよ」
その笑顔を見て、俺は小さく息をついた。
そうだ。
俺みたいに時を越えるわけなんてない。
……ない、よな?
不意に浮かんだ小さな不安を、
そっと押し込めて、
俺は照れ隠しのように笑った。
「……まあ、ほんと、
ちょっとした勘違いだから。
気にしないで」
「ふふっ、うん」
遥は柔らかく目を細めると、
一歩だけ、こちらに近づいた。
「蓮君。
私、すぐに元気になるから……
本当に、待っててね」
「うん。……待ってるよ、絶対」
背を向けて歩き出した遥の姿は、
何よりも眩しく見えた。




