第12.5話 【特別編】絶望の五平に、光はさして(上)
「……この地に立つのも、随分と久しい」
五平は、静まり返った屋敷を前に、
胸の奥がじんと疼くのを感じた。
この屋敷を去ってから、早十年。
蓮が光に包まれ姿を消してからは、
もう十一年が経つ。
ここで積み重ねた修行の歳月。
偉大な師の背を、ただ必死に追いかけ続けた日々。
そして、蓮という少年が、風のように舞い込み――
風のように消えていった、あの儚い時間。
そのすべてが、今、鮮やかに胸に甦る。
しかし、どんなに手を伸ばしても届くことはない。
あの光に満ちた日々は、今の五平には眩しすぎて――
ただ、胸を締めつける思い出となっていた。
蓮があの光に包まれ姿を消してから、
一年ほどが過ぎたある日の夜。
宗歩様が静かに告げた言葉を、
五平は今も忘れられなかった。
「五平。
私は将棋の真髄を極めるため、旅に出る。
……お前はどうする?」
あのとき、五平の喉は、
凍りついたように動かなかった。
すべてを捨てて師に従う、その覚悟を――
最後まで、持てなかったのだ。
……だが。
その選択を悔やまなかった日は、
これまで一日として無かった。
宗歩様のもとでしか辿れぬ“高み”がある。
愚かなことに、師のもとを離れてからでしか、
その当たり前の事実に気づけなかった。
十年の月日が経ち、今さら――
師が自分を受け入れてくれるかどうかも分からない。
もう遅すぎるのかもしれない。
それでも。
今度こそは、故郷を捨ててでも、
すべてを投げ打ってでも、
将棋の道を極めるために宗歩様の背中を追う。
その決意だけは揺らがなかった。
五平は、胸の奥に燃えるものを確かめるように、
ひとつ深く息を吐いた。
そして――
五平は拳を握り直し、門を叩いて声を張った。
「どなたか、おらぬか!」
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ほどなくして、軋む音とともに門が開き、
一人の若い男が戸口に姿を見せた。
十年という歳月。
この屋敷で顔を合わせていた者たちは、
もう誰ひとり残っていないのかもしれない。
その若者の姿を見た瞬間、
五平は自分が“過ぎ去った時間の外側”にいることを、
静かに思い知らされた。
当然、その顔に覚えはなかった。
「どちら様でしょうか?」
「……私は五平と申す。宗歩様の弟子だった者だ。
再び弟子にしていただきたく、参った」
男は目を見開き、深々と頭を下げた。
「……あなたが、五平様でございましたか」
その声音には、驚きだけではなく、
どこか哀しみをにじませるような震えがあった。
「ん? 私を知っておるのか?」
五平が問い返すと、
男はまるで言葉を飲み込むように、
一拍置いてから答えた。
「……ええ。宗歩様が――
ご生前、あなたのお名前を口にされておりました」
「……生前?」
胸の奥が、ひやりと凍える。
その言葉の意味を理解した瞬間、空気が重く沈んだ。
男は、静かに口を開いた。
「私は、弥太郎と申します。
…………宗歩様は、すでにお亡くなりになりました」
時間が止まった。
風の音も、鳥の声も消え失せ、
世界の色が、すっと抜け落ちていく。
「……な、……なんだと……?」
声が喉の奥で砕け、
ひび割れた破片のように零れ落ちた。
弥太郎は、目を伏せたまま続けた。
「北の旅先にて、病で倒れられたそうです。
……安らかな最期であったと」
その言葉が耳に届いた瞬間――
五平の膝が、力を失って崩れ落ちた。
「……宗歩様……!」
声は震え、かすれ、
胸の奥に押し込めていた悔恨が一気に溢れ出す。
この十年。
自分は迷い、立ち止まり、逃げ、悔い続けた。
その間――
師は、命を削りながらも、
ただ前だけを見て進み続けていたというのか。
拳を握る手が震える。
「……宗歩様!!
……どうして、あのとき私は……!!」
耐えきれず、拳で地を叩いた。
悔恨が音になって畳に響く。
嗚咽が漏れ、視界が揺れる。
胸に押し寄せる後悔の念。
取り返せないことは分かっている――
それでも、五平はその場に縫い付けられたように動けなかった。
地面に、一雫、二雫と、大粒の涙が落ちる。
そんな五平を、弥太郎はしばらく黙って見つめていた。
その沈黙は、同情でも慰めでもなく――
師を想う者同士の、静かな祈りのようだった。




