第8話 空の病室
少し肌寒い土曜日の朝。
学校は休みなのに、
俺は早起きしてバスに乗り――
入院していた病院へ向かっている。
(……遥、もう元気になったんだろうか)
ふと、胸の奥に答えのない不安がよぎった。
病院が近づくにつれ、
その不安はゆっくりと膨らんでいく。
窓の外を流れる景色を追っても、
胸のざわつきはどうしても消えなかった。
やがて、バスは病院の停留所に着いた。
この街で一番大きい総合病院。
見上げると、その大きさが、
胸の不安を映すように重くのしかかってきた。
エントランスの自動ドアが開くと、
白い廊下が静かに広がった。
歩き出した途端、
ほんのりと消毒液の匂いが漂い、足音だけが響く。
向かうのは、遥と将棋を指したあの小さな個室――。
そして――
「……あれ?」
入口の名札を見た瞬間、思わず足が止まった。
そこには“矢野 遥”の名前はなく、
ただ、真っ白なプレートだけが掛けられていた。
そっと扉を開ける。
中は、ベッドのシーツも机の上も、
まるで誰もいなかったかのように、
静かに片付けられていた。
胸の鼓動が急に早くなる。
「あれ?……神矢君?」
立ち尽くす俺を呼ぶ声。
振り向くと、看護師の森さんが立っていた。
「あ……森さん。
遥はどうしたんですか? その……」
森さんは少しだけ目を伏せ、
ためらうように口を開いた。
「……昨日の夕方ね、転院したの」
「……えっ? 転院?」
胸の奥がきゅっと締まる。
「どこか悪いんですか?
ど、どこの病院に……?」
自分でも分かるほど声が震えていた。
だけど森さんは、静かに首を横に振る。
「ごめんね。個人情報だから……
それは言えないの」
きっと教えてくれない。
それは分かっていた。
分かっていたのに、
喉の奥がひどく苦しくなる。
そんな俺の表情を見て、
森さんは少しだけ柔らかく微笑んだ。
「……でもね、遥ちゃん、
あなたのことを話してたよ」
「……え?」
「“続き、指さなきゃ”って。
苦しそうなのに……嬉しそうだった」
胸の奥で、熱いものが揺れた。
「……そう、なんですね」
森さんは、そっと言葉を添える。
「きっと……また会えると思うわ。
だから――待っててあげて」
その一言が、震える心に静かに触れた。
「……ありがとうございます」
俺は深く頭を下げ、
静かな病室をじっと見つめた。
誰もいないはずなのに――
遥の笑顔が、うっすらと、
目の前に浮かんだ気がした。
病院を出たあとも、
その笑顔は、ずっと胸の奥に残っていた。




